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守る刃、支える算  作者: 麦崎誠
第一章 日雇い労働の日々
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第四話 銀貨と刀

富と力が渦巻く異界。

——その試しは、思いもよらぬ形で訪れた。

怒声と嘲笑が、耳に飛び込んできた。

 酒場の前で、西洋人の水兵二人が一人の日本人商人を取り囲んでいる。彼らは酔っているのか顔を赤くし、肩を突き飛ばし、頭を小突き、せせら笑っている。商人は怯え、ただひたすらに謝っている。周囲の日本人は見て見ぬふりをし、足早に去る。西洋人たちは面白そうに眺めているだけ。名もなき浪人の腹の底に、鉛のような重みと、ちりちりとした怒りの火種が落ちた。

(……気に食わん)

それは正義感というには荒々しく、義憤と呼ぶには個人的だった。ただ、己の信条に反する。それだけだ。名もなき浪人は人垣をかき分け、騒ぎの中心へ進み出る。

「Stop!」

水兵は浪人の声に眉をひそめ、仲間と顔を見合わせ、嘲笑する。

「Ha? What's this skinny dog barking about?」

空気が張り詰める。誰もが次の瞬間に血を見ると予期した。

名もなき浪人は、刀に手が伸びかけるが、首を横に振る。そして、ゆっくりと懐に手を入れる。——チクッ。懐に入った指先に、細い木の感触。——団子の串。あの一串で、俺は今日を繋いだ。指が、別のものを掴む。取り出したのは武器ではなく、一枚の異国の銀貨。続けざま、飛び出た勢いに任せて口が勝手に動いた。

「Sorry… very little money. But please… take this and walk away.」

意味を考えるより先に、言葉が出た。

(……なぜ…)

水兵は一瞬、怪訝な顔をしたが、やがて一人が銀貨を乱暴にひったくる。

「Heh, lucky for you, little man.」

最後に商人をブーツで蹴り、高笑いとともに酒場へ消えていった。暴力は回避された。

喧騒が引き、名もなき浪人の掌だけが空になっている。名もなき浪人は地にへたり込む商人へ歩み寄り、黙って手を差し伸べた。商人は潤んだ目で見上げる。

「大丈夫か」

浪人は静かに問いかける。商人は震えながら頷く。

「ありがとうございます!あなた様がいなければ、私はどうなっていたことか!私の名は三國屋清左衛門と申します。江戸の日本橋で呉服商を営んでおります。お侍様、あなたは私の恩人です。是非ともお名前を教えていただきたい。」

浪人は驚き、少し間を空けて答える。

「……名乗るほどの者じゃない」

そう吐き捨てて立ち去ろうとすると、清左衛門は必死に回り込んできた。

「お待ちください!せめて、せめてこれだけでもお受け取りください!銀貨までお使いになられた。このままでは私の気が収まりませぬ!」

銭差しを無理やり握らせる。ずしり、と重い。

「ほんの心ばかりでございます。江戸へお立ち寄りの際は、ぜひ日本橋の三國屋へ!」

名もなき浪人は懐に収め、短く息を吐く。

「江戸の三國屋だな。覚えておこう」

清左衛門の顔が、ぱっと明るくなる。

「は、はい!必ずやお待ち申し上げております!」

何度も、何度も頭を下げる。名もなき浪人は振り返らない。石畳を踏みしめ、雑踏へ歩み出す。背後で、清左衛門の足音が遠ざかる。人波に紛れる直前、清左衛門はもう一度だけ振り返り、深く一礼した。そして胸に手を当て、決意を固めるように頷き、高帽と馬車の影の中へ消えていった。

 居留地の喧騒が戻る。葉巻の煙。 異国語の笑い声。名もなき浪人は歩みを止めない。

だが、懐の銭差しの重みと『三國屋』その名は、確かに刻まれた。居留地の奥に浪人がたどり着いた。沖合には、低く構えた土の台場が見える。

次の瞬間——

「Fire!」

轟音。白煙。海上に向けて放たれた砲撃が、空気を震わせる。

(……敵わん)

個の剣では届かぬ力を直感し、名もなき浪人は静かに退く。

 居留地を離れ、名もなき浪人は海岸に出て物思いにふける。攘夷を叫ぶ者たちや、幕府の迷走。この国はどうなるのか。自分はどうするのか。答えは波に消える。波を見つめながら、名もなき浪人は思う。力がなければ守れぬ。……だが、それだけでは足りぬ。銀貨で収めたあの場面。刀を抜かなかった己。あれでよかったのか。……よい。刀は、振るうためだけにあるのではない。強くあれ。潔くあれ。誠実であれ。それが武士だ。

「京へ行く」

そうと決まれば、善は急げだ。懐に手を入れる。指先に触れる、細い木。——団子の串。しばし見つめる。海へ向かって、放る。串は小さく弧を描き、波間に消えた。名もなき浪人は振り返らず、歩みを進める。


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