第二話 初日の仕事
人の波に押される。怒声と荷と汗の匂いが、渦のように押し寄せてくる。宿場町の中心へ近づくにつれ、往来はさらに激しさを増していた。大八車を引く男たちの怒声、天秤棒を担いで小走りに行く商人の姿。その一角に、日雇いの仕事を求める男たちが屯している場所があった。
口入れ屋の看板を掲げた粗末な建物の前。十数人の男たちがだらしなく座り込み、煙管をふかし、地面に唾を吐いている。中央で腕組みをしてふんぞり返っている恰幅のいい男、口入れ人に、名もなき浪人は意を決して近づく。
「仕事は、ねえか」
絞り出すような声。口入れ人はちらりと視線を寄越し、擦り切れた着流しから錆びた刀までを値踏みするように見つめる。
「ひょろいのが来たな。てめえみてえなのに、務まる仕事があるかよ」
口入れ人は浪人を鼻で笑う。だが、引き下がるわけにはいかない。名もなき浪人は腹に力を込め、口入れ人の目を睨み返した。その目に宿るのは、空腹ではなく、生きるための切実な光。口入れ人は一瞬たじろぎ、やがて口の端を歪めた。
「……いい目してやがる。死にかけじゃねえな。まあいい。足りねえよりはマシだ」
口入れ人は顎で海の方を示す。
「今、海岸の土手で土嚢を運ぶ仕事がある。英国の軍船に備えての普請だ。日が暮れるまでみっちり働いて、五十文。やるか?」
五十文。団子が十数本は食える額。
「……やる」
「おう、ならさっさと行きな。案内役がそこの角で待ってる」
潮風が強く吹き付ける海岸。すでに多くの人足が汗と泥にまみれて働いている。
仕事は単純だった。麻袋に砂を詰め、担ぎ、指定の場所まで運び、積み上げる。だが単純であることと、楽であることは違う。一つ一つの土嚢が肩に食い込む。湿った砂の重みが全身の骨を軋ませる。照りつける日差しが体力を奪い、汗が滝のように流れ落ちる。
「ぐずぐずするな!」
「さっさと運べ!」
監督役の侍の怒声。名もなき浪人は無心で作業を繰り返す。思考は途切れ、ただ苦役の終わりだけを願う。周囲の人足が息を切らす中、ただ一人、足を止めない。
やがて西の空が茜色に染まり、仕事は終わった。五十文の銭が手渡される。その重みだけが、確かな現実だった。
提灯に灯が入り始めた品川宿。名もなき浪人は裏路地の古びた縄のれんをくぐる。
「……飯と汁。それから、鰯をくれ」
「へい」
麦飯、味噌汁、鰯の塩焼き。熱い汁が喉を通り、疲労した体に染み渡る。硬めの飯の甘み。鰯の苦味と塩気。骨も構わず噛み砕き、胃へ流し込む。丼が空になる頃、腹の底からじんわりと熱が湧き上がる。生きている。それだけが確かな事実だった。
腹が満たされた今、必要なのは寝床だ。浪人は、木賃宿に入る。
「…泊まりてえんだが」
「一人、十六文だ。先払いだよ」
銭を払う。むわりとした空気。汗と埃、安酒の匂い。壁際のわずかな空間に身を横たえる。いびき、歯ぎしり、すすり泣き。快適とは程遠い。だが雨風はしのげる。しかし眠れない。
名もなき浪人は刀を抜く。刃はこぼれ、赤黒い錆が浮く。ボロボロの相棒を着流しの袖でゆっくりと拭う。この刀で人を斬ったことはあったのか。主君はいたのか。……覚えていない。ただ、この鉄の塊だけが、過去と現在を繋ぐ。いつか錆を落とせるのか、それとも朽ち果てるのか。答えはない。
刀を抱くようにして横になる。いびきも、痒みも、やがて遠ざかる。肉体の疲労が精神を沈める。
——明日も、生きねばならん。
そう思いながら、意識は闇に沈んでいった。




