第十六話 夢
天保14年(1843年)9月20日、安芸国高田郡、吉田郡山城の旧城下にて、力強い産声が響き渡った。糸林隆明、誕生の瞬間である。父、良政は喜びで目に涙を浮かべる。兄、建良も、兄になったという事実に胸を張った。
隆明と兄は、非常に仲の良い兄弟だった。ある日、建良は隆明に告げる。
「兄は、これより長崎に向かう。国を治めるにはまず、外のことを知らねばならぬ。」
「兄上、そりゃあ、危ないんじゃなかろうか…思うんじゃが。父上や浅野様のご意向はどのようにお聞きでございましょうか?」
「隆明……そがぁに心配せんでええ。父上も浅野様も、世間を知るんはええことじゃ。土地を治めるにゃぁ領地の外のことも知らんといけんと仰っておる」
「…ここは、安芸国の片隅に過ぎませぬが...」
建良はそんな弟の言葉を笑い飛ばす。
「細かいことは気にするでない。土産、買うて帰るけぇ、待っときんさい」
その一週間後、建良は帰ってきた。
「兄上!」
隆明は真っ先に兄に駆け寄った。建良は、隆明に土産と称して外国の文字が書かれた書物を渡す。
「兄上、これは?」
「阿蘭陀語と申すらしい。海の向こうで話されとる言葉じゃ。兄と、勉強するか?」
「はい!」
そうして、隆明は12歳にして初めて“異国の言葉”に触れた。
そこから三年後、隆明は元服する。糸林家の当主になった建良に、挨拶をする。
「兄上、私も元服し、一人の大人になりました。なので、私は家を出て、武蔵国に参ります。」
「武蔵?何故だ。」
「世界を、見たいのです。兄上は以前、私に仰いました。国を治めるにはまず、外のことを知らねばならぬ。と。私は糸林家の次男坊ですが、兄上の補佐として、この地を…安芸の郷を守っていきたいのです。」
建良は、口角を少し上げる。
「ああ、よい心がけだ。行ってまいれ。そして、必ず生きて戻れ。良いな!」
「はい!」
そう答えて、隆明は郡山の地を後にした。
――そこで、意識が浮かび上がる。
(……生きて、戻れ……か)
あの言葉が、胸の奥で静かに響いた。




