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守る刃、支える算  作者: 麦崎誠
第三章 賊
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第十七話 目覚め

 暗闇の底から、ゆっくりと浮かび上がる。最初に戻ったのは、痛みだった。脇腹が灼けるように熱い。肩も重い。息を吸うたびに鈍く疼く。次に、匂い。薬草の青臭さ。血の鉄臭さ。畳の乾いた香り。そして、音。誰かの足音。遠くで交わされる低い声。

 糸林隆明は、ゆっくりと瞼を開いた。見慣れぬ天井板。梁の節目が視界に入る。意識が混濁する直前、同心たちに担がれた感触。秋山与力の厳しい声。鼻腔をくすぐる薬草の匂い。整えられた寝床。ここは江戸の奉行所―おそらく北町奉行所の医務室。彼はゆっくりと身を起こそうとし、脇腹の鋭い痛みに顔をしかめた。

「…っつ…」

 傷は塞がっている。だが、体の芯に杭を打ち込まれたような鈍痛が続く。

(……生きている)

 あのまま死ぬかと思ったことを思えば、それだけで奇跡だった。

 記憶が、濁流のように戻る。庄原。兄・建良。英語の書物。武蔵への旅立ち。そして―川崎の小屋。血。雷汞。首魁。自分の名。記憶喪失の経緯。

 声に出して確かめる。

「……糸林、隆明」

 間違いない。

 ――お花は。

 あの娘はどうしている。無事だろうか。

 隆明は呼吸を整え、布団から身を起こした。

「…っぐ…!」

 激痛が走る。だが、立つ。視線は枕元へ。そこにあるのは数打ちの打刀。江戸に来る前に新調したものだ。安物だが唯一の矜持。鞘を掴む。冷たい感触。ずしりとした重み。柄を握ると、ささくれ立っていた心が凪いでいく。これがあれば、まだ戦える。まだ、生きられる。

 隆明は刀を杖に、壁を伝い、障子へと歩く。戸を指一本分開き、廊下に出る。

 足早に行き交う役人たち。奉行所内は得も言われぬ空気が漂っていた。

「…首魁は討ち取ったが、残党がまだ市中に…」

「秋山様は、命に別状はないと…しかし、あの傷では当分…」

「例の浪人、見事な腕だったそうだな…」

 だが、今はそれどころではない。

「もし…お役人様。少々、お尋ねしたい儀が…」

 初老の役人が振り返る。

「お主は…先日の浪人殿ではないか!医務室で安静にしておれと、医者が言っておったはずだが…。大丈夫なのか、その傷は。三日も眠っておられたが...」

 三日...その言葉に隆明は少したじろぐ。しかし、すぐに口を開く。

「ご心配には及びませぬ。それよりも、お尋ねしたい。おはな、という娘をご存知ないか。三日前、私がここに預けた娘だ。算術が得意なはずだが…」

「ああ、あの利発そうな娘御のことか。確か、勘定方の筆子が人手を欲しがっておってな。今は奥にある算盤部屋で、帳簿の整理を手伝っておるはずだ。大した飲み込みの早さだと、皆が舌を巻いておったぞ」

 隆明は安堵し、さらに問う。

「…ついでにお尋ねしたい。秋山与力殿は、ご無事でおられるか」

「与力様も背中に深い傷を負われたが、幸い急所は外れていた。命に別状はない」

 そして役人は声を潜める。

「与力様は、お主のことしきりに褒めておられたぞ。『あの浪人がいなければ、我らは皆、あの場で犬死にしていた。必ず手厚く遇せ』と、奉行様にも進言して下さった。…本当に、見事な働きであった、糸林殿」

 温かいものが胸に広がる。

「算盤部屋は、この廊下を突き当たりまで進み、右に折れてすぐの部屋だ。行灯に『勘定方』と書かれておる」

 隆明は役人に礼を言い、歩く。一歩ごとに激痛が走る。行灯に照らされ、影が揺れる。

 やがて辿り着く。『勘定方』障子の向こうから算盤の音。低い男の声。そして―若い娘の声。お花、無事だ。それだけで十分だった。今顔を出せば、邪魔になる。明日にしよう。そうして、隆明は部屋に戻った。守るべき娘は無事。 共に戦った武士も生きている。 己の剣は無駄ではなかった。思考が霧散する。行灯の光が滲む。

(……三日か。あのまま死んでいても、おかしくはなかったのか…)

 やがて、隆明の意識は沈んでいく。血と鉄の匂いの世から、一時、解放されながら。


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