第十三話 尾行
東海道に向かう途中、川崎宿の裏手で、行商人姿の男を見かけた。名もなき浪人は、その顔に覚えがあった。
「……与力殿。あの行商人。あれが、昨夜の首魁です。尾行をすれば、奴らのアジトがわかるやも...」
「ふむ...。まあ、よかろう。おい、弥助。」
「は。何でございましょうか、秋山与力殿。」
弥助と呼ばれた男が与力に駆けより、何やら指示を受ける。そして、男は颯爽と裏路地に消えていった。弥助は足音を立てぬよう、草履の緒を締め直した。与力の視線を一度だけ受け、軽く頷く。
行商人姿の男は、天秤棒を肩に、干した魚や薬種を売り歩くふりをしている。声は出さぬ。ただ歩く。売る気があるようには見えない。
(……匂うな)
弥助は露店の陰に身を寄せた。笠を目深に被り、通りの流れに溶け込む。尾行の基本は「追うな、流れろ」。相手の背を見続けてはならぬ。視線は常に周囲へ散らす。
男は川崎宿の賑わいを抜け、脇道へ入った。表通りの喧騒が遠ざかる。道はぬかるみ、軒の低い長屋が続く。洗濯物が風に揺れ、煮炊きの煙が漂う。男は一度、立ち止まった。弥助は即座に足を止め、屈んで草履の紐を結ぶふりをする。男が振り返る。視線が通りを舐める。何もない。弥助は顔を上げぬ。やがて男は再び歩き出す。
(用心深い)
さらに進むと、宿場の裏手、小さな祠のある空き地に出た。人通りはまばらだ。男は祠の前で天秤棒を下ろし、水を飲む仕草をする。その間に、別の男が近づいた。農夫の姿。だが、鍬の柄が不自然に新しい。二人は目を合わせぬ。すれ違いざま、農夫の袖から小さな紙片が落ちる。行商人は拾わぬ。代わりに足で踏み、そのまま歩く。農夫が後からそれを拾う。
(合図か)
弥助は空き地を横切る子どもの群れに紛れ、さりげなく紙片の行方を追う。農夫は祠の裏手、竹藪へ入った。弥助はすぐには追わない。十を数え、二十を数える。通りを横切る犬をやり過ごし、荷を担ぐ男の影に重なる。竹藪の奥には、使われていない古い茶屋があった。板戸は閉ざされ、軒は崩れかけている。だが...煙。細く、真っ直ぐな煙が屋根裏から上がっている。さらに、軒下には新しい足跡。三人分。弥助は物陰に身を伏せる。やがて板戸がわずかに開き、先ほどの行商人が中へ滑り込んだ。 戸が閉まる。
(間違いない)
弥助は地面に落ちていた小石を拾い、道端の目印となる杭の根元に三つ、等間隔で並べる。奉行所内で決めた符丁。「敵三名、潜伏確認」の印。その後、何事もなかったように竹藪を離れ、宿場の喧騒へと戻っていった。背後で、古茶屋の戸が、わずかに軋んだ。 弥助は宿場の賑わいに戻っても、歩調を変えなかった。早くもなく、遅くもなく。豆腐売りの声を横に聞き、湯気の立つ蕎麦屋の前を通り過ぎる。
だが、背に薄い視線を感じた。
(……気取られたか)
振り返らぬ。曲がり角の手前で、桶を担いだ女とすれ違う。その刹那、弥助は桶の水面に映る背後を盗み見た。一瞬。竹藪の方角に、人影。すぐに消える。弥助は歩みを止めず、露店の団子を一本買った。銭を渡し、かじる。何食わぬ顔で人の流れに溶け込む。
(追っては来ぬ……試されたか)
宿場の外れ、与力らが待つ茶店の裏手に出る。弥助は団子の串を地面に突き立て、そのまま踏み折った。これもまた、符丁。
「敵、警戒あり」。
秋山与力は、何も言わぬまま串を見下ろした。目だけが細くなる。
「……見つけたか」
「は。宿裏の竹藪奥、廃茶屋に三名。内一人は浪人様ご指摘の男に相違ございませぬ」
「見張りは」
「おそらく一名、外を警戒。尾行を試す様子あり」
与力は腕を組む。
「踏み込めば、証拠は押さえられるか」
弥助は一瞬だけ言葉を選ぶ。
「……火を扱っている様子にて。煙が細く上がっておりました。下手に騒げば、爆ぜるやもしれませぬ」
その言葉に、名もなき浪人の視線が鋭くなる。煙。密閉された廃屋。雷汞。胸の奥で、何かが冷たく軋む。
(湿り気はあるか。衝撃は。摩擦は――)
知らぬはずの知識が、また脳裏をよぎる。
(……なぜ、分かる)
首を横に振り、周囲の岡っ引きたちの様子を伺う。
「今すぐ叩き潰すべきでさぁ!」
「手遅れになりますぜ!」
岡っ引きの一人が秋山与力に進言する。秋山与力は黙って浪人を見た。
「……お主、どう見る」
問いは短い。だが試す響きがあった。宿場の喧騒が、遠のいたように感じられた。




