第3話 はじめての契約
酒場の喧騒は、夜になるほど深くなる。
カウンター席でレオンは杯を傾けた。
隣ではトーマスが無精髭を撫でながら、ぼんやりと酒を眺めている。
仕事の話でもなく、世間話でもなく、ただ酒を飲む。
二人の間ではそういう時間が一番長い。
しばらくして、トーマスが口を開いた。
「そういやお前」
「ん」
「最初の契約、覚えてるか」
レオンは杯を置いた。
「覚えてますよ」
「孤児院だったな」
「ええ」
炎が揺れる。グラスの底で、琥珀色が揺れる。
「ええ」
もう一度、今度は少し遠くを見ながら言った。
八年前。
ローゼンベルク不動産、開業一か月目。
客はゼロだった。
売上もゼロ。
問い合わせもゼロ。
扉が開いたのは、風が吹いたときと、道に迷った行商人が地図を借りに来たときだけだ。
レオンは机に突っ伏していた。
「……終わったな」
独り言が、誰もいない事務所に溶けた。
名門ローゼンベルク家。
その名前だけは王都でも通る。
だが今の彼には金もなく、実績もなく、信用もない。
あるのは土地を見る目と、路地裏の小さな事務所と、誰にも読まれない台帳だけだ。
ハエが一匹、窓の桟を歩いていた。
迷宮管理局に顔を出したのは、気分転換のつもりだった。
受付を抜けて競売案件の閲覧室へ向かうと、見慣れた顔があった。
当時のトーマスはまだ三十代で、今より少し角張った顔をしていた。
「まだ潰れてなかったのか」
開口一番それだった。
「まだ一か月です」とレオンは答えた。
「十分長い」
トーマスは書類から目を上げずに言った。
軽口なのか本気なのか、あの頃からよくわからない男だった。
資料を漁りながら雑談していると、トーマスがふと言った。
「孤児院が困ってるらしいぞ」
「孤児院?」
「ああ。寄付が減って食費が出ない。」
「閉鎖寸前らしい。土地を探してるって話が局に流れてきた」
レオンは手を止めた。
「どんな土地を?」
「さあな。俺は不動産屋じゃない」
数日後、扉の鈴が鳴った。
入ってきたのは老いたシスターだった。
白髪を後ろにまとめ、修道院の質素な服を着ている。
背は低いが、背筋だけやけに真っ直ぐだ。
レオンは立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
「土地を探しているんです」
とシスターは言った。
「ご予算は?」
「ありません」
レオンは少し間を置いた。
「ありませんか」
「ありません」
「……困りましたね」
沈黙が落ちた。
それからシスターが小さく笑い、レオンも釣られて笑った。
妙に気まずくない沈黙だった。
「事情を聞かせてもらえますか」
レオンは席を勧めた。
孤児は二十人。年齢は三歳から十五歳まで。
寄付が年々減っている。
街の景気が悪いわけではない。
ただ、孤児院という存在が少しずつ忘れられていく。
食費が出ない月が続いている。
このままでは年内に閉鎖しなければならない。
「自給自足したいんです」
とシスターは言った。
「畑を持てれば、野菜くらいは自分で作れます。」
「子供たちにも仕事を覚えさせたい。でも土地を買う金がない」
レオンは話を聞きながら、頭の中で数字を動かした。
普通の農地は無理だ。
街近くの畑はどこも高い。
街外れでも、まともな土地には相応の値段がつく。
予算ゼロでは話にならない。
それでもレオンは台帳を開いた。
ページを繰る。
繰る。
繰る。
手が止まった。
薬草ダンジョン。
一層構造。
スライムのみ。
薬草が自生している。
地下水あり。
立地が悪いし、街からも遠い。
近くに何もない。人気ゼロ。
ましてや薬草なんていくらでも群生している。
誰も入札しない。
迷宮管理局の不良在庫として三年眠っている物件だ。
翌日、レオンはトーマスのところへ行った。
「あの薬草ダンジョン、賃料どこまで下げられますか」
トーマスは書類から目を上げた。
「あれか。誰も欲しがらん。完全な売れ残りだ」
「だから聞いてます」
しばらく無言で計算していたトーマスが、数字を出した。
「これが底値だ」
レオンは数字を見た。
ギリギリだが、届かなくはない。
資料を手に取り、しばらく眺めた。
「いや」
呟いた。
「合うかもしれない」
現地には、院長と二人で向かった。
馬車を降りると、草の匂いがした。
風が通る。
視界が開ける。
ダンジョンの入口は、丘の斜面にひっそりと口を開けていた。
人の気配がない分、静かだ。
中に入ると薬草が至るところに生えていた。
リンドウに似た青い花。
白い小さな葉。
薬師が喜ぶ種類がいくつもある。
スライムは三体、何をするでもなくゆっくり動いている。
院長がスライムを見た。
「子供たちに管理できますか?」
「できます」
とレオンは答えた。
「危険では?」
「危険です」
院長が少し目を丸くした。
「危険なんですね」
「スライムです」
「スライムなんですね」
「スライムです」
院長がふっと笑った。
レオンも少し笑った。
事務所に戻り、レオンは紙に数字を並べた。
薬草採取。野菜栽培。
スライム素材の売却。
ギルドへの定期卸。
ゆっくりと計算する。
院長が隣で見ている。
ギリギリだ。
余裕はない。
何かが狂えば赤字になる。
保証なんてできない。
院長が静かに聞いた。
「本当にやっていけますか」
レオンは計算を止めた。
正直に言えば、わからない。
実績もない。
経験もない。
開業して一か月、客ゼロの不動産屋だ。
それでも。
「たぶん」
少し間を置いた。
「大丈夫です」
院長は微笑んだ。
「ではお願いします」
ローゼンベルク不動産、記念すべき第一号契約。
レオンはペンを走らせた。
羽根ペンが紙の上を滑る。
誰も来なかった店で。
初めて、契約が成立した。
数か月後。
孤児院所有のダンジョンでは、子供たちが走り回っていた。
薬草を摘む子。
畑を耕す子。
スライムを棒でつついて怒られている子。
笑い声が絶えない。
食卓には野菜が並んでいた。
以前よりずっと豊かな食卓が。
帰ろうとしたレオンの背中に、声がかかった。
「不動産屋さん!」
振り返ると、七つか八つの女の子が駆けてきた。
息を切らせて、それでも笑っている。
「また来てね!」
「今度スライム退治、見せてやる!」
レオンは少し照れた。
「楽しみにしてます」
そう言って、歩き出した。
酒場の喧騒が戻ってくる。
トーマスが杯を傾けた。
「結局あの孤児院、今も続いてるな」
「ええ」
とレオンは言った。
「毎年契約更新してます」
「何年だ?」
「八年ですね」
トーマスが少し目を上げた。
「長いな」
「ええ」
レオンは静かに笑った。
「開業してから色んな契約をしました」
「冒険者も、商人も、貴族も」
杯を手で包む。
「でも」
「最初から今まで、継続して契約してくれてるのは」
「あそこだけです」
「唯一の常連か」
「ええ」
レオンは窓の外を見た。
夜の街。
孤児院のある方向。
「一番最初のお客様ですから」
トーマスはしばらく黙っていた。
それから、ぼそりと言った。
「それに」
「ん?」
「あの契約がなかったら、今頃…僕の店ありませんよ」
「それもそうだな」
トーマスが残っているお酒を豪快に飲み切った。
「お前、本当に物件より人見てるよな」
レオンは少し笑った。
「当たり前じゃないですか」
杯を置く。
「良い物件はありません」
「合う物件があるだけです」
二人はしばらく、黙って酒を飲んだ。
窓の外では、夜の街が静かに動いていた。




