混乱と出会い
個室の部屋は静かだ。
ここには暇をつぶすスマホも、本も、マンガもない。
静かだ。
不安だ。
あんなにやかましかった人たちは、「また明日ゆっくり進めましょう」とだけ言って、そそくさと去っていった。
私は全然現実から戻れなくて、料理を食べても、用意してもらったタオルで身体を拭いても、何も考えられなかった。
窓から見上げた夜空は、とても美しく、一粒一粒が地球よりも生き生きと輝いているように見える。
そのせいでふと、思ってしまった。
私は二度と、地球には帰れないんじゃないか。
「嫌だ」
咄嗟に出た言葉に驚いた。
何が嫌なんだろう。
ここでは英雄として、扱ってくれるじゃないか。
あんなに針の筵で、社会の片隅でこっそり生きているより、よほど有意義な人生が送れそうじゃないか。
そうだろ、自分。
強く、そう強く言い聞かせても、不安はとぐろを巻くばかりだ。
窓を開く。
無風なのか、何も感じない。
それが悲しかった。
嫌な雨の音。職場の軋んでいるような空気。冷めた弁当の味。肩にかかるバッグの重さ。
全部、置いてきてしまった。
嫌なはずなのに、あんなに肌に馴染んだあの感覚が、今はもうない。
もう何に辛さを感じればいいのか分からないまま、ぎゅっと身体を縮めた。
何もかも違う身体を抱きしめながら、ただ揺蕩う意識に身をゆだねて、いつしか眠りについた。
朝になった。
朝になっても、状況は変わらなかった。
私はアルテ・ロードのままだった。
今日は面会をするという。
関係のあった人と会うことで、記憶が蘇るかもしれません。そう、朝の診察にきたドミニク医は言った。
アルテと関係のあった人物。
会いたくない。でも、会わなきゃいけない気がする。
複雑な気持ちを抱えたまま、一人ドアをじっと見つめた。
最初の面会者は、亜麻色の長髪に柔和な笑みを携えた男性だった。
ドアをノックされ、「どうぞ」というと、ゆっくりドアが開かれた。
そのまま丁寧にドアを閉めて、私の所へゆったりと足を運んだ。
その人は白を基調とした服を着ていた。もしかしたら制服なのかもしれない。亜麻色の長髪に、困り眉、なだらかに開かれる瞳の色は青灰色に似ている。
口元が優しく微笑んでいる。
「こんにちは。君は知らないかもしれないけれど、私は君と懇意にしていた者だ。学園では生徒会長を務めている。名をウラール。ウラール・モルツァという。よろしくね、新しいアルテ・ロード。君とも仲良くなれると嬉しいよ」
「よろしくお願いします」
瞬間的に違う、と思った。この声は私の声じゃない。低い声から発せられる言葉がまるで私に意志に反しているようだ。
ウラールはにっこりと微笑んだ。
「君がドラゴンキラー。偉大な功績を果たしたことはもう知っていると思うけど、この功績は多分君の予想以上の功績だよ。誰もが君に英雄の姿を想像すると思う」
「え」
「でもそれをどうか重荷に思わないでほしい。新しいアルテ。例え覚えてないとしても、君はそれを成したんだから、誇りに思ってほしい。堂々と学園の英雄として生活してほしいんだ」
「あの、それは難しい、と…」
ウラールは笑みを崩さなかった。
「もちろん、今は難しいだろう。でもいずれ君は知るだろう。君が英雄であることを。私は君に期待しているよ」
呼吸が浅くなったような気がして、小さく「はい」という他なかった。
「それじゃあ、これで失礼するよ。まだまだ君と会いたい人が山のようにいるからね。君を長時間独占してたら、恨まれてしまう」
「あ、来てくれてありがとうございます」
「また、学園で会おう」
ウラールは来たときと同じように、ゆっくりドアを閉めて、帰っていった。
思わずため息が出た。学園長といい、生徒会長といい、なんで皆あんなに大仰なのか。
それにあの笑顔。ひどく胸がざわざわした。私はまたあの人と会話をしなければならないのか。
出来れば、あまりもう会いたくない。
次の面会者はアルテの幼馴染だという。
どんな人物だろうか。
入ってきたのは、明朗快活を絵に描いたような男性だった。
「よう、アルテ!記憶がないんだって?気の毒だな!あんなことを成し遂げたあとだってのに!」
そう言って男性は大きく口を開けて笑った。
短い赤茶髪、力強い釣り眉は意志の強さを表しているようだ。眼孔の深い奥に琥珀色の瞳がある。健康的でたくましい体格には、やはり制服みたいなものを少し気崩して着ている。
「俺の名前は、テフォン・コーポレイ!これからよろしくな!」
肩を叩かれる。突然のことでびっくりした。
「よ、よろしく」
「なんだぁ、随分他人行儀だな。ま、最初はそんなものか!」
テフォンがこちらをじっと見つめる。私も見つめた。
少しの間だけだったが、なぜかお互いを見つめあう空間があった。
テフォンの目が爛々と輝いている。それがなぜか、少しだけ怖かった。
テフォンがまた笑う。
「まだ疲れてんだろ!学園で会おうな!」
「うん、また…」
豪快にドアを開け閉めして、去っていった。
なんかどっと疲れた。ウラールさんもテフォンさんも、私との距離を掴みかねている感じだった。
それはそうだよな。
私もまだ、全然二人のこと知らないし、これからか。
まだ、面会者はいる。
会話は緊張するけど、なんとかやろう。
つ、疲れた。夕日の差し込むベッドで私は倒れ伏していた。
あれから面会者は途絶えず、結局面談時間が終わるまで人が来た。
ある人は本当に覚えてないのか訝し気にしていたり、ある人は尊敬していると目を輝かせて言ってくれたり、ある人は泣きながら感謝している人までいた。
みんなアルテのことを、アルテ様と言い、前の記憶が戻ることを祈ってくれた。
「アルテ様か…」
この世界に切り花を忌む習慣はないらしく、たくさんの花を貰った。
特に泣きながら感謝していた人から、花瓶に入りきれないくらいの花束を貰った。
匂いを嗅ぐ。
ツンと香しい。まるでさわやかなアイスみたいだ。
天井を見上げる。
何の変哲もない、照明がポツンとあるだけの天井だ。
アルテはみんなに愛されていた。
まだ見舞いの人たちだけだが、それでも十分感じることが出来た。
正直、英雄と聞いていたから、もっと孤高の存在なのかと思った。
恐れられていると思った。
良かった。
前のアルテが愛されていて。
今のアルテが受け入れられるかどうか分からないけど、精一杯頑張ってみるよ。
君の分まで。
いつか地球に帰れる、その日まで。




