02
「これを二人で一緒に食べれば、いつまでも一緒にいられるよ」
魔女は乱杭歯をのぞかせて、笑った。
「常若の国でね」と。
「……常若の国?」
「ひとは死んだ後、常若の国にとどまるんだよ。唯独りの神によって、この地の神々が追い出されるまではそう信じられていたんだ。常若の国では、悩みも嘆きも苦しみもない。一番輝かしい瞬間のまま時が止まっているんだよ。だが。常若の国にたどりつくには、死ななければならないがね」
青ざめたエレンを愉快そうに見やって、魔女は言った。
「夢は現世での死。夢と常若の国は繋がっているのさ。常若の国とこの世が結びつくのは、一年に四回、月が沈むまでの間だけ。この林檎は、そのときにわしが取ってきたものさ。あちらの世界の食べ物を食べることは、その世界に属すことになる。だから、この林檎を想い人と一緒に食べれば、常若の国へ行ける」と、魔女は請け合った。
「だがね、恋人には言って聞かせなきゃならないよ。黄金林檎を食べないようにね。なぜなら、地上とを結びつけているのが、その黄金林檎だからさ。林檎の木は地上に根をおろし、空に溶けこんだかのように途中で姿を消している。その空は、常若の国の泉と繋がっているんだ。わしの言いたいことはわかるだろう? 地上に属している林檎を食べるとどうなるか」
エレンは、唾を飲み込み、頷いた。
ひび割れた唇を舐めて、魔女は目を光らせて言う。
「ま、竜が林檎を護っているから、そんなことはないだろうがね」
ホッと胸を撫で下ろしたエレンは、笑顔になった。
「じゃあ、何も心配することはないのね」
魔女は何がおかしいのか、大口を開けて嗤いだした。抜けた歯、無花果のごとき歯茎を覗かせ、目脂の滲んだ目は、蛇が獲物を前にして舌をちらつかせるような、歓喜を浮かべ。
エレンは、ただ薄気味悪そうに魔女を見て体を震わせていた……。
森から帰った彼女は、短くなった髪に驚くウィルフレッドに林檎を食べさせた。
エレンが見守るなかで、彼の手から林檎が転げ落ちる。寝息をたてて安らかに眠っているのを見届け、自分も一口かじった。
今まで食べた林檎のなかでいちばん甘い味がした。
「ねえねえ、このキイチゴ酸っぱくて甘くて美味しいわよ」
光に溢れている森で、夢中になってキイチゴを食べていたエレンは、彼にも一口と思って差し出すが、返事がない。
首をかしげて、見上げる。
風になびく蜂蜜色の髪、額にかかった一房が、森を映したような瞳に影を落としている。
ときおり、こうして彼は物思いに耽る。
何を考えているのかわからなくて、エレンは不安になる。常若の国に来てさえも、全てが手に入るわけではないのだということを痛いほど感じて。
「どうしたの?」
沈黙に耐えられずに、彼女は勇気を出して尋ねる。
その不安そうな声に我に返ったウィルフレッドは、遠くにやっていた眼差しをエレンに向けた。
「……夢を、みるんだ」
夢の中なのにおかしいと思うんだが、と彼は付け足してつづける。
「そこは、砂漠なんだ。日に焼けた髭面の男たちが、馬を駆って襲いかかってくる。
雄叫びと嘶き。
髭面の男は彼らの神である名を叫んで、剣を振り下ろしてくる。
銀色の甲冑を纏った騎士たちは、主の名を称えて、迎えうつ。槍はぎらつく陽射しを反射し、血に染まっていく。
砦を陥落させた騎士たちは、どっと街に駆け込んでいく。ヴェールで顔を覆った女が子供を庇って、刃にかかる。耳をつんざく悲鳴。
息絶えた母親にすがって泣く幼子の甲高い声に私は我に返る。見れば、私の手には剣が握られていた。血に濡れている。私が幼子の母親を殺した」
「だけどそれは夢でしょう?」
たまらず、エレンは遮った。
ウィルフレッドは、息を吐き出して瞼を閉ざした。
「……夢ではないよ。本当にあったことだ」
「……」
「私は、修道院に入ろうと思っている。せめての償いに、剣を捨て、私が手にかけた命に祈りを捧げて一生を送りたい」
エレンは、唇を噛みしめる。
彼は知らないのだ。ここが常若の国だということも。ただ夢を見ているだけだと思っている。
だからこそ。
「ねえ、ウィルフレッド。黄金林檎だけは食べちゃダメよ」
いつまでも知らないままでいさせなければならない。なにがなんでも、この穏やかな日々を失いたくなかった。
歌声が聞こえる。まがまがしい響きを心地よさで包み、眠りに誘う妖精の歌。
瞼が重く自然と垂れてくる。
樫の木にもたれていたエレンは、いつのまにか眠りに落ちた。
その夢のなかで、ウィルフレッドが眠ってしまったエレンに話しかけている。
「エレン。寝てしまったのか」
〈こんにちわ、元気かね?〉
突然、声をかけられ、ウィルフレッドは振る返る。
「さっきの歌は君たちかい?」
蛙に似た顔とぬるぬるした肌、瞼のない、爬虫類の眼で舐めるように彼を凝視て、ねちょりとそれは、嫌らしく笑った。
〈ウィルフレッド君。君は、本当に人がいいね。この女に騙されてるのも知らないで〉
「どういう意味だ?」
〈どうもこうも! 君は夢を見ていると思っているんだろうけど、そうじゃないよ。
この女に食べさせられた林檎は、僕たち妖精の国の食べ物なんだからね。君は望むも望まぬもおかまいなしに、常若の国に連れてこられたのさ〉
「どこにその証拠がある」
〈証拠だって〉と、あいかわらずねちょねちょと糸が引きそうな粘っこい笑い声をたてたかと思うと、蛙とそっくりの口を今にも獲物を飲み込まんばかりに開けて、泡のようなものをげーげー吐き出した。その泡は地面に落ちると水たまりになる。蛙もどきの妖精はヒレのついた手でかき混ぜ、呪文を唱えた。
湯気をたてている水たまりに、ここではない風景が映り出す。エレンが、魔女に会い、林檎をもらうところを。
〈これで僕の言うことを信じてもらえるね〉
ウィルフレッドは、眠っているエレンをちらりと見、溜息をついた。
「……だから、黄金林檎を食べてはいけなかったんだな」
彼は、エレンを見下ろし、苦々しく言った。
「……君は、馬鹿だ」
そして、去っていく。森の奥深く、竜が護る黄金林檎の木へと。
「ウィルフレッド! 待って、行かないで!」
エレンは、飛び起きた。
だが、もうウィルフレッドの姿はなかった。
あの妖精すらも。ただ、水たまりだけが残っていた。
「だめよだめ!」
彼に林檎を食べさせては。エレンは、立ち上がり、駆け出した。
枝が邪魔して、思い通りに進まない。
やっと黄金色に輝く林檎が視界にはいる。
蜂蜜色の髪がなびいている。長身の青年が林檎の木の前に立っており、そして――エレンは、立ち尽くす。
死んでもなお林檎を守るように竜は倒れていた。ヤドリギの槍が、眉間に突き刺さっている。
視界に映っている林檎の木が、竜が、ウィルフレッドが、水面に映った影のようにゆらゆらと揺らめいている。酔ってしまったように、視点が定まらない。
手に持っているのは……
「……エレン」
彼の声は深い哀しみに沈んでいた。
エレンの目は見開かれる。
「食べたのね」
彼はうなずいた。
彼の体を透して林檎の樹が、青空がみえた。
エレンは引きとめようと手を伸ばした。
たしかに掴んだのに影のように掴めない。
もう触れることはできないのだ!
「……夢から覚めても私は、……」
切なげな眼差しを最後に残して、彼は消えた。
呆然と立ち尽くしていたエレンは、足下に転がってきた林檎を見下ろす。
一口だけ欠けた林檎。
〈あんたも一口どうだい〉
〈嬢ちゃん、お食べよ〉
〈涎がこぼれ、ほっぺたが落ちるほど甘いよ〉
子供のような甲高い声、年寄りみたいな嗄れた声、共通しているのは、響きのまがまがしさ。きいきいと金属を引っかいたような笑い声をたてて、妖精たちがエレンの顔を覗き込んでいる。だが、その白目のない瞳は、墓場を漂っている鬼火のように蒼白く燃えている、しかも瞼がない!
背中に鳥肌がたったが、それよりも怒りの方が強く、エレンは不気味な妖精たちを睨みつけた。
「あんたちがそそのかしさえしなければ!」
蛙に似た妖精たちは、顔を見合わせあい、肩をすくめた。
そのうちのひとりが口を開く。
〈選んだのは、僕ではなくてあの男さ。
僕は見せただけだよ。君が魔女と取引しているところをね〉
エレンは地面を引っかいた。爪が血で滲むほど。
そのとおりよ! 彼が選んだのよ。私をひとり残して、行くことを!
妖精の言うとおりだと思うと、自分が情けなくて、涙がこぼれた。
彼のいない世界なんて耐えられない。
だけど、彼のいる世界に帰っても、彼は私だけを愛さない。
いつかきっと、離れていってしまう。
身分が違うのだ。故郷に戻れば彼にふさわしい姫君が待っているだろう。
どちらも、強い引力をもってエレンの心を引っ張りあい、引き裂こうとする。
夢から覚めても、つづいて彼は何を言おうとしたのか。
林檎をみつめた。
だが、確かめるのが恐かった。
〈食べないのかい?〉
〈食べないんだったらさ〉
〈あいつのせいで林檎を守る竜がいなくなっちまったんだよ〉
おかしなことを言う、とエレンは思った。
自分たちがそそのかしといて。とはいえ、妖精の気まぐれは今に始まったことではない。
〈地上に根を張った黄金林檎は、人の子の夢を養分にしてるんだ〉
〈人の子の夢は命の源! 僕たち妖精にとっては〉
〈その林檎を守る竜が死んじまったんだ!
あいつのせいで。誰かが責任をとらんといかん〉
〈戻る気がないんだったら、あんたが代わりになってくれ〉
交互に歌うように喋りかけてくる。
エレンは、涙の跡が残った顔を上げる。
〈夢見る人の子こそ、夢の守り手としてふさわしい!〉
では、あの竜はかっては人だったのだ。
目を向ける。だが、竜はいなかった。
竜の形をした塵があるだけだった。
風が吹いて、さあっと崩れ、大気に還ってゆく。
〈あれが塵に還ったのは、枯れてしまったからさ、夢が。でなければ、塵になったりしないよ。嬢ちゃんが夢を見続ける限り〉
ささやく声は猫撫で声。怯えて尻込みされたら困るのだ。
〈悲しい記憶はみんな忘れて、幸せな夢を見続けなよ〉
子守歌を歌うように囁く。
その声には心地よい響きがある。眠りに引き込まれていく瞬間、頭が芯からとろけていくように。
もうなにも考えられない。
ただ、なにもかも忘れて幸せな夢だけをみていたかった。
エレンは目を瞑り、微かに頷いた。
妖精たちは歓声をあげ、エレンの周りを円になって歌いながら踊りだしだ。
〈乙女は竜になった
金の髪はまばゆい鱗に
青い瞳は竜の目に
ぬけるような空をはめ込んだごとく
さあさあ、お眠り、いい夢を
夢を食べに来た奴は、許しちゃいけない
殺しておしまい!
我ら一族以外は
竜になった乙女は黄金林檎を守り
幸福な夢を見つづける
さあさあ、お眠り、いい夢を〉
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「いけない! エレン」
彼は、光の洪水に押し流されながらも、必死で叫んだ。その叫びは虚しく光に吸い込まれ、消えていく。それとともに光も消えた。
ウィルフレッドは、意識を取り戻した。
そして、彼は見る。
黄金の鱗は髪に。
真っ青な空の双眸は人の子の瞳に。
眉間に血を流して倒れているのは、竜ではなく。エレンだった。
彼女を眠りから覚ますために、竜を殺したのだ。
なのに、その竜こそが、彼の愛しい少女。
蒼ざめた顔にそっと触れる。まだ暖かい。
生き生きとして、くるくると表情が変わって、見ていて飽きなかった。
とくに、笑った顔は、真夏の太陽をさんさんと受けて花開いた向日葵のようで、こちらまで明るい気分になった。
もう一度、その笑顔が見たかった。
ぽってりとした唇をよくむきになって尖らせていたけれど、今では彫像のように閉じられたまま……きっと永遠にこのまま。
「……エレン、エレン!」
名前をただ繰り返す。呼べば、息を吹き返すような気がして。そう信じたくて。
髪を頬を愛しげに撫でる。
それでも心にあいた穴はふさがらない。君が目覚めなければ!




