03
見えない風を追うようにエレンの視線が宙に漂う。
呼ばれた気がしたのだ。
眉をひそめて、首を傾げる。
心臓が締めつけられたように痛いのは、どうしてだろう?
「エレン?」
呼ばれて、我に返る。目の前で微笑んでいる青年に視線を戻し、笑いかけようとしたが顔が強張る。
どうしたんだい、と心配そうに覗きこまれ、エレンは頭を振った。
大丈夫と言いかけ、ふいに涙がこぼれた。頬を伝っていく。
大きな手が頬を包んだ。緑の瞳が間近にある。ほしくてたまらなかった彼がこんなに側にいる。一緒に暮らしている。
なのに心は満たされなかった。毛布にくるまっていても、寒さに震えているように。
二人で建てた家の戸口に座り、エレンは人参の皮を剥き、ウィルフレッドは薪を割っていたのだった。ついさっきまで、こんなに幸せでいいのかしら、と思っていたはずなのに。
彼は突然泣き出した妻に困まった顔をしている。泣くのをとめようとしたが、それでも涙は後から後から、溢れてくる。
――去っていく後ろ姿。まぶしい陽射しに霞んでいく――
ふいに過ぎった映像にエレンは目を瞬かせ、ウィルフレッドを見た。
「罪を償うために修道院に入るって言ってあなた、私から去っていたわ」
ふと口から飛び出た言葉だった。
彼は、肩をすくめた。
「そうだったかな」
「覚えてないの? ……聖地でのことも」
恐る恐る、尋ねる。彼の古傷に触れることだから。
だが彼は、顔色も変えず微笑んで、あっさり言ったのだ。
「もう済んだことだよ」と。
エレンは、違和感を感じた。
彼は、自分が犯した罪を悔いていた。償わなければならない、と言って、私から去っていった。彼はそんなに簡単に割り切れるひとではない。
そうならば、夢にうなされることも、剣を捨て修道院に入ると決めることもない。
エレンは、初めて見るように、目の前の男を見た。
蜂蜜色の髪、緑の瞳、優しげな面立ち。
彼女の大好きなウィルフレッドの姿だ。
なのに、違うのだ。
彼女が好きになった彼では、ない。
と、わかってしまった。
そう、私は認めたくなかった。
ウィルフレッドが、ここにはいないことを。
彼が去っていた後、二人で家を建てて一緒に暮らせたら、という夢だけが残り、夢は叶った。
だが、彼がここにいないことは一緒。私が会いたいのは、人形じゃない本当の……
「ウィルフレッド!」
修道院に入ってもあのひとの苦しそうな表情は消えはしない。
彼に言いたいことがある。
だから、私は……。
あなたに会いたい。
卵の殻が割れるように空がひび割れ、まばゆい光が射し込んだ。妖精の紡ぎあげた魔歌{まがうた}が綻んでいく。彼女が目覚めようとしたことによって。
破れた。
彼女が夢のなかで生みだしたウィルフレッドが、暮らしていた家が、光の洪水の中で消えていく。
瞼が開き、青空が覗いた。
ウィルフレッドの緑の瞳が濡れている。
このひとが泣いているのを見るのは初めてだ。
そう思った途端、胸が一杯になり喉が詰まった。
彼の方も絶望に暗くなっていた瞳を喜びに輝かせた。
が、息を吸って言ったセリフは、
「この馬鹿!」だった。
てっきり、「エレン、よかった。君が戻らなかったらと思うと……」と言って、涙を流すとばかり思っていたエレンは、怒鳴られて、目を見張った。
「まったく君には呆れる! 自分のことしか考えていない、子供だ。君がいなくなって、悲しんでいるひとがいるか考えもしなかったのか?」
エレンは、目を逸らし唇を噛んだ。
彼の言うとおりだ。自分の悲しみのことで頭が一杯で、周りのことなど考えもしなかった。
「ごめんなさい」
泣きながら謝りたくなかった。
泣くことで許してもらおうとする子供にはなりたくなかった。
なのに、泣くまいとすればするほど、涙が盛り上がってくる。涙だけならいいけど、鼻水もとまらない。ああ、このまま消えてなくなってしまいたい!
ウィルフレッドは溜息をついて、布を差し出す。
恥ずかしげに受け取ったエレンは、遠慮がちにクシュンと鼻を咬んだ。
上目使いでうかがうと、ウィルフレッドは見て見ぬ振りをしている。
「君の母親は心配のあまり、やつれていたよ。早く、目を覚まして安心させてあげなさい」
ハンカチを鼻に当てたまま、エレンは頷いた。
その頭にぽんとのせられる。大きな温かい手。温かい眼差しで、見つめられて心臓が高鳴る。
「……私も待っているから」
とまっていた涙が、また溢れそうになる。 エレンは、こくりと頷いた。
咳払いが、見詰め合う二人を我に返させた。
視線を向けると。赤い帽子を被った妖精の集団が、二人を囲みじーっと見上げている。 その中で、毛糸がもつれたような髪と緑の瞳の少年が口を開いた。
〈お兄さん、盛り上がってるとこ悪いんだけど。もうすぐ、月が沈むから急いだ方がいいんじゃないかなあって思うんだけど?〉
「……知らせてくれてありがとう。竜と戦っているときに警告してくれたのも君だね?
……その何もかもありがとう」
妖精は肩をすくめ、ぷいっと顔を背けた。
〈礼には及ばないよ。お兄さんを利用してただけだもん〉
ウィルフレッドは、苦笑した。エレンの方に向き直ると、
「月が沈むまでに祭壇に戻らないと、春分の日までここにいなければならなくなる。
……もう大丈夫だね?」
エレンは、笑って首を振った。
彼女の額にそっと口づけると、彼は立ち上がった。
すると、一番偉そうな地面にまで届く見事な髭をもった妖精が、帽子を脱ぎ、
「あんたのおかげで、独り占めしていた蛙鬼から黄金林檎を奪い返すことができたんでな。礼を言っとく」
それにならって、他の妖精たちも帽子を脱いでお辞儀する。
ウィルフレッドも、踵を合わせて一礼し、最後に微笑みかけると、歩み去った。
その背中を黙って見送ったエレンは、瞼を閉ざし、深呼吸する。
……目を開く。
地面に転がっている、黄金色に輝いている果実。
エレンは、林檎を拾いあげ、
そして――
エレンは目を覚ました。
起きあがろうとしたが、体に力が入らない。
人形のなかに入り込んでしまったよう。
目だけは動く。
戸が軋みながら開く音がした。
薄暗い部屋に陽射しがさしこみ、振り返ったエレンの視界に飛び込んでくる。
戸口で、両手一杯に抱えていた薪を下ろし、長衣を払って雪を落としている。うっすらと雪が積もった髪は蜂蜜色。
今にも心臓が膨れ上がって破裂しそうになる。見つめるだけで。
感情を迸らせないと破れてしまう!
だから、口を開く。名を呼ぶ。
「ウィルフレッド!」
弾かれたように顔を上げ、緑色の瞳でまっずぐにエレンを見た。勢いよく足を踏みだし、寝台に歩み寄ってくる。
やっと半身を起こせたエレンは、大きな手に頬を包まれる。優しい眼差し。何も言わなくても、言葉より雄弁だから。彼女もただ微笑み返すだけ。
「……あなたに言いたかったことがあるの」 澄んだ青い瞳を向ける。
「修道院で罪を償えると思っているの、本当に?」
怪訝そうにしかめた眉、食い入るように見られ、エレンは微笑んだ。
「だって、あなたは許さないもの。死ぬまで罪に縛られて生きるに決まっているわ。それこそ償いだって言うんでしょうけど。
わたしは、嫌よ! あなたが苦しむところなんて見たくないもの」
一瞬、ウィルフレッドは呆気にとらわれていたが、気を取り直し、口を開きかけた。
途端。
「筋が通ってなくても無茶苦茶でも、いいの!」
と、エレンはにっこり、断言する。
「……」
「あなたは、十分に苦しんだわ。もう、いいの! 自分を許してあげて。私を許してくれたように。……まあ、あなたの困った顔見るの、好きだけど。でも、わたし以外のことで悩んでいるのは嫌だわ」
だから、とつづけて睨みつける。
「これ以上、罪なんていう自分を苛めて自己満足に浸る言葉を使わないで!」
ウィルフレッドは、深々と息を吐き出し、
「……ほんとうに、無茶苦茶だね」
「いいのよ、それで。あなたは難しく考えすぎてるんだから。このままじゃ、若いうちからハゲるんじゃないかって心配だわ」
癖のある髪をかきまわし、彼は、苦笑を漏らした。
それから。大真面目にハゲについて心配しているエレンの顔を見て、吹き出した。
「君には、かなわない」
頭を仰向かせ、目頭を押さえる。
一筋だけ、押さえていた手から涙が伝い落ちた。
悪夢を食べてくれたのは獏ではなく、君だった。
と、後、彼はそのときの頃を振り返って語った。
ウィルフレッドは、故郷へと旅立っていった。
「春になったら、迎えにくる」と言い残して。
エレンは、糸を紡ぎながら春が来るのを待つ。
ときどき、紡ぐ手をとめては、吐息をもらす。
鎧戸を開けて、外を眺めて。
雪が溶けるのはまだかまだかと。
だが、雪が溶け雲雀が春の歓びを歌いだしても、彼は来なかった。春が過ぎ、小麦が青々と茂る夏も過ぎ、黄金色に変わる秋が来る。
そして、冬もまた、過ぎていった。
戸口の階段にしゃがんで、エレンは餌をついばんでいる鶏をぼんやりと見つめていた。冬中家で飼っていた鶏を庭に出し、餌をやったところだった。
頬を撫でていく風が暖かい。
仰ぎ見れば水色の空が広がっている。眠気を誘うほどの陽気に、欠伸を漏らし、目を閉じる。
春がまた来たのだ。
「ウィルフレッドの嘘吐き! 春になったら迎えにくるっていったじゃない」
ギュッと、額を抱えた膝に押しつけて、ここにはいない相手に文句を言っていたが。
ふいに、決然と顔を上げた。
「もう、こうなったら、こちらから押しかけてやる!」
「……それは困るな。君のことだから道に迷って行き倒れになっている可能性が高いからね」
今度は、私が君を探しにいかなくてはならなくなる、と懐かしい声が言った。
見開いた目に、飛び込んできたのは、一面の赤。
薔薇だ!
顔を覆ってしまうぐらい巨大な花束のせいで、息が詰まる。目も見えない。必死で花びらの隙間から覗く。
額にかかった蜂蜜色の巻き毛の下、森より深い瞳が優しく微笑んでいるのが、見える。 今にも泣き出しそうな顔で、エレンは叫んだ。
「ウィルフレッドの馬鹿あああ!」
「……」
額を押さえ、彼は溜息をついている。
エレンは意に介せず睨んだ。
「来るのがおそーーーい!」
「……すまない。去年の春、父上が亡くなり、相続のことなどでごたごたしていたんだ」 それでも心配をかけさせたのは一緒だ、と言って、彼は謝った。どこまでも律儀な男である。
「……わたしは、責めてなんかいないわ。
馬鹿って言うのは、わたしの最大級愛情表現なんだから」
「……なるほど」
しばしの沈黙のあと、苦笑を漏らして、彼は言葉をつづけた。
「では、姫君。領地ももたない宿なし騎士の私だが、一緒に来てくれるだろうか?」
エレンは、頷く。
「もちろんだわ! たとえ騎士じゃなくても領地がなくても、私があなたのこと好きなことには変わりはないもの」
後でエレンが知ったことだが、彼は村娘を妻に迎えることを親族に納得させるために、領地を弟に譲ったのだ。
ウィルフレッドは、まぶしいものを見るように目を細める。
マントを翻し、跪く。貴婦人に向き合うように。
そして。
恭しくエレンの手を取り、口づける。
「君のために、領地を獲ると約束する」
エレンは微笑む。
「いらないわ! 貧しい暮らしなんて慣れっこだもの! わたしがほしいのは……」
真っ直ぐに彼だけを見る。
その眼差しに応えるのは、接吻。
春の陽射しが優しく二人を包んでいる。
― 完 ―




