01
「好きなひとの夢がほしいんです」
少女は、静まりかえった小屋に自分の声が思ったより大きく響いたので、怯えて辺りを見回した。
閉め切った部屋は薄暗い。燭台の明かりが届かないところは闇に沈んでいる。
ひからびた薬草と蜥蜴がテーブルに散らばっていた。髑髏が、燭台の炎に浮き上がっていて、さらに不気味さを際だたせている。
虚ろな眼窩とつい目を合わせてしまった少女は、ごくりと唾を飲みこんだ。
やっぱり来るんじゃなかったかしら……
それでも彼女の願いを叶えてくれるのは、目の前の、魔女しかいないのだ。
……沈黙がつづいた。
いくら待っても返事がないので、もしかして寝ているのかしらと少女が疑いだしたとき、やっと魔女は梟のような皺にうもれた目を開いた。
「……夢だけであんたは満足なのかい?」
それだけで本当にいいのかと、年老いた蛇に似た目が言っていた。
少女は、戸惑いを一瞬だけ浮かべたが、うなずく。
あのひとの心がわたしだけのものになるのら、夢だけでいい。
髑髏をあやすように撫でながら、魔女はしのび笑いをうかべた。すると皺にうずもれてしまいどこに目があるのかわからなくなる。
「教えてやってもいいがね。あんたのその美しい金の髪をくれるならね」
枯れ枝のような手が伸びて、エレンの髪を力一杯引っ張った。
彼女の瞳に涙が浮かぶのを見た魔女は、白く濁っている眼を愉快そうに細めた。
髪は彼女の自慢だった。
手入れのいきとどいた姫君さえ羨ましがるほど、艶のある美しい髪をしている。
だが、髪を失うことより、彼を失うことの方が、恐かった。
「……わかりました」
魔女がニタリと笑って、懐からとりだしたものは――
それは黄金色の輝く林檎だった。
******
雪にとざされた森を行くひとりの少女の姿があった。
赤い頭巾からウェーブのかかった金色の髪がのぞいている。
青い瞳は心細げに辺りを見回していた。
鬱蒼としげっている針葉樹林。
昼でも薄暗く、ひっそりとしている。
飢えた狼が襲いかかってきても、悲鳴は森に吸いこまれ、村には届かないだろう。
少女は身震いし、篭にいっぱいになった枝をみつめた。
母親に薪がなくなったから森で枝を拾ってきてくれと頼まれたのは、朝だった。
冬に暖炉にくべる薪がないのは、凍え死にすることを意味する。
飢えた狼が徘徊する森にひとりで踏み込むことは恐ろしかったが、しかたなかった。
雪がやんだのを見計らって出かけた。
なのに。今また雪がちらつきはじめている。
かじかんだ手に息を吹きかけ、足を速めた。 吹雪く前に、帰らなければ。
「!!」
足が何かにつまずいた。走っていたので勢いよく前に倒れこみ、ずぶずぶと雪にのめりんでしまった。
石につまづくなんて、もう!
下も見ずに走っていたせいだ。
急いで起きあがり、スカートをはたきながら、何気なく下を見て、彼女は悲鳴をあげた。
石だと思ったのは、男の死体だった。
甲高い悲鳴に驚いた鳥が、鋭く鳴いて梢を飛びたち、雪の固まりが重たげに落ちる。
森に反響する木霊が、少女を震えあげさせ、興奮した頭を冷まさせた。
視線をもう一度ゆっくりと下ろしていく。
死体はうつぶせになって倒れていた。長衣は、剣で切り裂かれたのだろう、肩のところが破れている。
目をひくのは、どす黒い染み。それは乾いた血の色だった。
おそるおそる、体を仰向かせてみて、彼女は思わずときめいてしまった。
(まあ! 王子さまみたいに綺麗な顔!!)
蜂蜜色の髪からのぞく顔は泥に汚れていたが端正な顔立ちで、しかも村の男たちにはもちあわせていない気品があったのだ。年は二十代だろう。
泥を落とそうとして触れた手を思わず引っ込めた。
火傷しそうなほど熱い。
よかったあ、とにかく死んでいないんだわ、と傷の具合をみるために肩にそっと触れた娘は、眉をひそめた。
やけに固かったからだ。
破れた箇所からのぞく、鉛色の鱗。
この青年は鎖帷子を着ているのだ。
「じゃあ、このひとは騎士?」
悲鳴はもう聞こえない。
だが彼の耳には、悲鳴が木霊していた。
耳をおさえようとしたが、手は動かなかった。
足下に転がっている女の生首が、まだ悪夢のなかにいることを彼に告げるのだ。
脳裏に焼きついた記憶がよみがえる。
女が恐怖で見開かれた目を彼に向けていた。
助けて、と。
彼は、女を殺したくなかった。
捕虜解放の話し合いは決裂し、遠征軍の指揮官であるイングランド王は、アッコン城の捕虜全員を処刑することを命じた。
彼は、一兵士として従わなければならない。
トランペットが大気を震わして鳴った。
それが合図だった。
剣を振り上げ、下ろした。鮮血が吹き出し、女の首が地面を転がった。
虐殺は断末魔のあえぎがすっかり絶えるまでつづけられた。城壁の前に集められた捕虜は、血の海に横たわるひとつの巨大な肉の塊と化していた。舞いおりた鴉が生首の目玉をつついている。
彼は、膝をついて吐いた。
胃液しかでてこなくなっても、吐きつづけた。
「獅子心王{ライオンハーテッド}!」
王をたたえる歓声が血に濡れた大地を揺るがす。
彼は、涙でにじんだ目をあげる。
バルコニーに立つ主君を見上げた。ここからでは、かのひとの落日よりも赤い髪がみえるだけだ。
「陛下、陛下の敵である異教徒の王サラディンは捕虜を全員解放しました。ですが、キリストの騎士たる陛下は捕虜を全員処刑するというのですか」
王が処刑を言い渡したとき、彼はたまりかねて、そう進言した。思いとどまってほしかった。
だが、王は灰色の瞳に怒気をみなぎらせた。
「迅速に行動に移るには捕虜は足手まといにしかならぬ。余の敵手であるサラディンは捕虜をかかえこみたくなかったので釈放し、余は皆殺しにする方が手っ取り早いと判断したのだ。決定は変えぬ!」
獅子の心を持つ王と称えられた王は、激しい気性のあまり、怒気を発すればいきすぎて残忍になる。今の王に何を言っても無駄だ。
彼は小さく息をついて、膝まずいた。
「……御意」
追憶から覚めたのは、粘つく手のせいだった。視界に映るのは血で染まった、手。
今、この血と同じ髪をした王はどんな顔をしているのだろう。
彼は目を固く瞑り、王の名を叫んだ。
うなされていた青年は、ふいに体をひきつらせ、意味のわからない叫びをあげた。
目を見開き、荒い息をついている。厚い胸板がフイゴのように上下していた。
「もうだいじょうぶよ」
少女は安心させるように微笑みかけた。
薪を拾っての帰り、森で倒れているのを見つけて家に運んだ青年の瞳は、見とれてしまうほど深い森の色、悪夢にうなされた幼子のようだった。
だから彼女は同じ言葉を繰りかえす。
「恐い夢をみたのね。だけどもうだいじょうぶよ。獏に悪い夢を食べてもらいましたからね」
少女が幼かった頃、恐い夢をみて泣いていると母親が、そう言って優しく頭を撫でてくれた。すると、不思議と恐くなくなって、また母親の腕のなかで眠ってしまったのだった。
そのことを思いだして、このひとの怯えた魂も温めることができたらいいのに。
そう彼女は願いながら、水差しを乾いた唇に持っていく。
喉を鳴らして飲みほすと、熱のせいで潤んでいる瞳がなごんだ。
だが、すぐに苦しげにあえぐ。
寝台に寝かせたかったのだが、家に一つしかない寝台では母親と彼女が寝るだけで窮屈だ。反対されて、しかたなく彼女は湿った藁の上に彼を置くことにした。
額にのせていた布はすっかり温くなってしまっている。
その布を冷たい水に浸して絞ると、火のように熱い額に置いた。
何度取りかえたかわからない。
「……私の悪夢は獏に食べさせても、なくならない」
掠れた声がした。
のぞきこむと、自嘲を浮かべた眼差しとぶつかった。
「そんなことないわ!」
声に力をこめたが、彼は力無く首を振った。
「夢ではないものを食べることはできないよ、いくら獏でもね」
荒い息をついて、うっすらと瞼をあけた彼は、困った顔をしている少女を見て、頬をゆがめた。
「……神は私を許さないだろう。神のために戦いに行った聖地で、私は、異教徒とはいえ、女子供を手にかけてしまったのだから」
「じゃあ、あなたは十字軍に参加していたの?」
聖地――それは、主イエスが人間の罪を背負って十字架にかけられた聖なる地、遥か彼方、幾多の海、山脈を川を越えた先にあるという。
異教徒に聖地は奪われてしまい、彼の地を取り戻すために多くの騎士たちが、旅立って行った。民衆もまた聖地を一目見ようと巡礼の旅に出た。
彼女の父親もその一人だった。
そして、そのまま帰らなかった。
それが今、目の前に聖地で戦った騎士がいるのだ。
「わたしの父さんも聖地へ行ったけど、そのまま帰ってこなかったわ。それから、母さん、苦労して女手一つでわたしを育ててくれた」
この人に言っても仕方のないことだとわかっていたが、責めるような口調になるのを抑えられなかった。
男の人は、家も家族も恋人も何もかも捨てて、夢を追っていくんだ。残された者のことなんて考えもしないで。
「……そうか。聖地はいまだ敵国にある、たどり着く者は数少ない。だが、英国王のおかげで回教徒との間に聖地巡礼を認める条約が締結された。これで少しはましだろう」
「どうだか! 無事に帰ってくる保証なんてないわ」
「それはそうだ」
苦笑して目を閉ざす。やつれた顔が痛々しい。
少女は唇を噛んだ。なにを八つ当たりしているんだか! 傷ついているというのに!
優しい言葉をかけようとしたが、何と慰めたらいいのかわからなかった。
心の傷は見えないだけに、想像だけが膨らんでいく。流されていく血の幻影。苦悩を彫り込んだような面立ちと重なって、胸に迫ってくる。
「……なにがあったかしらないけど、まずは体を治すことよ! ぐじぐじと悩んでいたら治る病気も治んないわ!」
乱暴な口調でまくしたてると、彼は驚いたように目を見開いた。
彼の頬にこぼれ落ちていくのは……。
騎士は、手を伸ばし少女の頬を濡らす熱い涙に触れた。
そして、微笑んだ。
「優しい娘だね、君は。名は、……なんていうんだい?」
「……エ、エレンよ。あなたは?」
どぎまぎして、まともに目が見れない。頬が熱くなる。
(このひとって、笑顔で心臓を止めることはできるわ!)
その心臓に悪い、春の陽射しのような笑顔を浮かべたまま、彼は、
「ウェンチェスターのウィルフレッド」
と名乗った。
*********
雛にえさをやる親鳥のように献身的にエレンは看病をした。そのおかげで三日後にはウィルフレッドの熱は下がった。
「君のおかげで回復した。明日、出発するつもりだ」
その三日目の晩、夕食のスープを運んできたエレンに彼は言った。
「まだダメよ! いつ熱がぶり返すかわかんないし」
蜂蜜色の髪を揺らし、彼女の言葉をさえぎる。
「これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない」
「迷惑なんかじゃないって、当の本人が言っているんだから気にしなくていいの!」
彼は、溜息をついた。
「……だが、いつまでも世話になるわけにはいかない。故郷には年老いた父がいる。聖地から帰ってこない息子を心配しているだろう。早く帰って安心させたい」
エレンは唇を噛んでうつむいた。涙が滲みそうになって、必死で耐える。
いつまでも一緒にいられるわけないとわかっていた。それでも。優しい笑顔をもう見られなくなるなんて、嫌だ! 行かないでって、子供のように駄々をこねたい。だけど、そんなことできるわけないのだ。理性が歯止めをかける。迷惑をかけたくない。嫌われたくない。
「……明日、出発する」
離れたくないのは、わたしだけだと思い知らされる声だと、エレンは思った。
顔を上げることができなかった。
涙が、スカートを掴んでいた手に落ちるのをじっと、見ていた。
*********
「眠りから覚ますにはどうしたらいいのだ?
言わねば、その首切り落とすぞ!」
彼は剣に手をかけ、老婆に詰め寄っていた。
老婆は森のなかに住んでいる魔女だった。
魔女の纏うローブは、闇よりも深い。
ドブに棲みついている鼠のようなべたつく髪の下で、白く濁った眼が、彼を見て嗤っていた。
「まあまあ、落ちつきなさい。わしの首が胴と離ればなれになれば、あんたの恋人は永遠に眠ったままだよ」
剣が閃いた。
皺にまみれた顔の傍に剣が突き刺さっている。
「言え!」
とぼけてばかりいる老婆に、さすがの温厚な彼も、我慢できなかった。瞳が怒りで燃えあがっている。
それでも老婆は、怯えるどころか、あいかわらず、にやにや嗤っている。
「おお、くわばらくわばら。まったく最近の若いものは年寄りを敬うことをしらん。ああ、ああ、教えてやるともさ。森の奥深くに太古の昔に築かれた石の祭壇がある。妖精の国――常若の国の門のひとつで、春分の日、夏至の日、秋分の日、冬至の日だけ開くんだがね。
まったくあんたは運がいい。今日がちょうどその冬至の日だよ! そこに、一本だけ、地上から生えている黄金林檎の木がある。それを食べさせれば、恋人の夢は覚めるさ。だが、林檎は竜が守っているよ」
それだけ聞けば用はないとばかり、彼は剣を鞘に戻すと、踵を返した。
彼を見送る老婆の顔をランプが照らしていた。歪んだ快楽に浸っている小鬼のような笑みが浮かんでるのを。
白昼のごとき明るさで照らす満月の下、円環を描いて石柱が並んでいる。森のなかで突然、現れた巨大な石群。ここは、遥か昔この地を支配していた森の民の祭壇だったという。
石が歌っているようだ。太古から連綿とつづく大地の記憶を。
月光の下で踊っているのは妖精。
夜が一年で一番長い日――冬至。遥か昔、地下へと追いやられたトゥァハ・デ・ダナーンの神々の末裔たちが、地上に現れる日。
人間の幼子のような姿に年老いた顔をした小人たち、蜻蛉のように透き通った翅を背に生やした妖精たちが踊りをやめ、いっせいに振り向く。
音のないざわめき。眼のない視線。この世のものではない存在の注視を浴びて、彼は祭壇の前に立っていた。剣の柄を握ったまま、歩き出す。
〈人間だよ〉頭に直接響く声。無邪気に虫をいたぶる幼子のような残酷な笑い声。
〈どうだい、一緒に踊らないか〉
〈だめだめ、彼は眠ったままの恋人のことで頭が一杯なんだから〉誰かが言えば、腹をかかえて、妖精どもは嗤いだす。
彼は、恐れも見せず妖精の群に分け入り、進んでいく。
と、彼は眉をひそめた。
マントを掴まれていた。視線を辿っていくと白目のない森を映したような眼がじっと彼を見上げている。
「……なんだ?」
〈黄金林檎を奪いにいくんだろう〉
「だとしたら、どうすると?」
一見したところ痩せこけた少年のようにしか見えない妖精は、くすりと笑った。
〈手伝ってやるよ。おいらは良い隣人{グッドピープル}だからね〉
疑わしげに睨みつければ、肩をすくめてみせる。
〈例えばね、竜と戦うのに武器が必要だろ。だけど、剣は持ってけないよ。妖精の国は鉄を嫌うからね。おいらならどうしたらいいか、知ってる〉
どうだい? と悪戯っぽく輝く瞳で見上げてくる。
しばし、彼は考え込み、しかたなさそうに頷いた。
妖精の方は手を叩いて喜び、彼の手を引っ張った。円環の中心へと足を踏み出す。
一瞬の眩暈。そして――目を見開いて立ち尽くす。
視界に入ったのは雪に埋もれた森ではなかった。
明るい空と見渡す限りの草原。
草から覗くマーガレットの清らかな白さ、陽気なタンポポの黄色、夢見るような紫のスミレ。風が吹くと、波のようにうねる。
なぜか懐かしい気がした。
眼が覚めると忘れてしまった夢のなかの記憶のように。
〈おーい、起きてるかあ?〉
目の前に子供の手がひらひら。
「……」
背中が重いと思えば、いつのまにやら、よっこいしょと妖精がのりかかっている。
「……なにをしている?」
〈お兄さん、肩、凝ってるよ。苦労してるんだね〉
答えにならないことを言って、にこにこ笑っている妖精を、溜息ひとつこぼして、見る。
「私の記憶が確かなら、重荷になるのではなく、手伝いにきたのだろう?」
そう静かに問うと、妖精はぴょんと兎のように跳び下り、
〈もっちろんだよ! お兄さん。まかせてちょうだい〉
息を吸い込むと、口を開く。人間には出すことが不可能な音が空気を震わす。
それは失われた太古の言葉。
何もない空を掴む。確かに空気しかなかったはずの宙に、二メートルにも及ぶ長大な槍が現れた!
眼を丸くした彼に、妖精は鼻をこすって得意そうに笑った。
〈ヤドリギ製の槍だよ〉
冬、常緑樹がみな葉を落とした後、ナラの木だけは緑の枝を生やす。灰色の空の下、生々しく息ずく生命、ヤドリギを人々は天からの贈り物として敬った。だからこそ、不思議な力を宿している。
「少しは役にたつ」
満足そうに槍を手に取ると、笑みを浮かべた眼を妖精に向ける。
〈お兄さん、みかけによらず素直じゃないね〉
わざとらしく溜息をついてみせると、毛糸がもつれたような髪を揺らし、先にたって駆け出す。
「……」
彼も後を追った。
草原は川で途切れ、向こう岸から森になっている。緑が陽射しにきらめいている。張りだした枝と枝を通り抜ければ、緑の迷宮は途切れた。
〈おいらはここまでしか案内できない〉
道先案内人の妖精は立ち止まり、少しためらってから、切り出した。
〈お兄さん、その腕輪はずした方がいいと思うよ〉
そう言われて初めてルーンが刻まれた腕輪に気づいた。魅入られたように眼を離せない。彼はゆっくりと頭を振った。
「……これはお守りなんだ」
頭の中が霞んで、気がつくとそう呟いていた。
〈思いださない限り、お兄さんは、勝てないよ〉
眉宇をひそめることで問うても、妖精は首を振るだけで答えず、消えた。
(なにを思い出せというのだ?)
訳がわからないまま、歩き出す。
途切れた緑の代わりに、空間が広がっている。林檎の木が見えてきた。
彼は眼を見張る。
それは、地面に生えていなかったのだ。
風にさざめいている清らかな泉から、幹が伸び、枝を茂らせていた。
枝には黄金の林檎。
ふいに、彼は眩暈に襲われた。
吐き気を誘うほど痛む頭を押さえる。
「……なんだ?」
皮膚が泡立つ。心臓が燃え、血が熱くたぎる。前にもこの興奮を味わったことが、ある。
そう思った途端、腕輪が軋み、ひび割れた。
一瞬、脳裏に過ぎった映像そのままに。
彼の目の前に。
黄金色の鱗が太陽のようにまばゆく輝いている。
竜がいた。
長い眠りから覚め、真っ青な空のごとき眼{まなこ}がひらかれる。蛇のごとく躰をくねらせて前身を起こし、林檎の護り手は、その吸い込まれそうな双眸を侵入者に向けた。
〈リンゴヲ奪イニキタノカ?〉
頭に直接、声が響く。
騎士は、槍を構え、叫ぶ。
「眠ったまま目覚めない女性のため、林檎をもらい受ける!」
〈ダレニモワタサナイ!!〉
竜は、吠えた。
突然、空が暗くなる。
翼が遮ったのだ。蝙蝠の翼は、天を覆わんばかりに巨大。
巻きおこった暴風に、吹き飛ばされ、激しく樫の木にぶつかった。呻く。意識が遠のく。
気を失う寸前、脳裏に蘇ったのは、二つの鬼火。それは、青白く燃えている双眸。粘っこい水が滴っているのは蛙の手。持っているのは腕輪、受け取れば、嗄れた声が言う。
〈この腕輪はお守りだからね。竜からお前を護ってくれるよ〉
それに重なるように声変わり前の少年の声が、木霊する。
〈その腕輪、はずした方がいいと思うよ〉
意識が完全に暗闇に飲み込まれそうになった瞬間。
〈危ない!!〉
甲高い警告の声が直接、頭に響いた。
眼を開ければ、視界いっぱいに猛禽のごとき爪。今にも掴みかからんとしている!
そうなれば最後、彼の頭など楽々と粉砕してしまえるのは間違いない。
とっさに身を屈め、地面を転がってかわす。
が、鋭利な爪が腕をかすめた。肉がえぐれ血と一緒に、腕輪が弾け、飛び散る。
途端、水面下に押し込められていた記憶がどっと洪水となって溢れ出した。
その中でより、鮮明に過ぎったのは。槍が額に突き刺さり、崩れるように倒れる竜の映像。
彼は、何もかも思い出した。
飛び起きた。目の前に、竜の青く燃える虹彩がある。
牛を一度に五頭丸飲みできるほどの広大な口が、咆吼とともに開かれば、剣よりも鋭く強靭な牙が。
前に戦ったときに突き刺した――眉間を狙って。今にも噛み砕かれんとした刹那、槍を突きたてる。
光が弾けた。
剣が深々と刺さった眉間から、黄金の奔流が溢れ、騎士を呑み込んだ。
眼を瞑ったが、網膜に焼きついた光を防ぐことはできない。
歌声が聞こえる。頭に鐘が響くように高く低く、鳴りつづける。夢のなかの歌のごとく。
歌っているのは光。人の子の喜び、哀しみ、怒りを。
その光のさきには――




