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ruth story  作者: Cy


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10-8「光の国」




どこまでも冷たい砂の上、ナナミの幻影が不自然に掻き消えた。

確かについ先ほどまで、幽霊のようにそばに浮かんでいたはずなのに。

視界をいくら巡らせても、月光に照らされた銀色の砂丘が広がるばかりで、彼女の輪郭はどこにもなかった。


「……ナナミ?ナナミ!!どこにいるんだ!」


叫びは夜の静寂に吸い込まれていく。上も下も、左右も。必死になって周囲を仰ぎ見るが、そこに彼女の姿は見当たらない。ややあって、ナナミの声だけが、形を持たずにロイの頭の中に直接響き渡った。


『……ねえ、ロイ。私たちはお別れをするために旅を始めたわ。だからこれは……避けられないことなのよ』


「だからって、まだ旅は終わってないだろ?……出て来てくれよ、俺……やっぱり、お前がいないと……」


『大丈夫。私はずっとそばにいるわ』


目の前が真っ暗になり、足元から地盤がガラガラと崩れ落ちて奈落の底へ落ちてゆくような感覚に襲われた。

いつか来る本当の別れを、心のどこかで漠然と覚悟していたつもりだった。

だがいざ現実として突きつけられると、どうしていいのか分からなくなるほどの恐怖がロイを支配した。


そこからどうやって歩みを進めたのか、記憶は定かではない。

ただ、とにかく早く彼女を取り戻す方法を見つけなければならない。

執念にも似た焦燥だけが、ロイの意識のすべてを埋め尽くしていた。





***


白亜の都、セレスティア聖教国。

以前訪れた時と変わらず、美しい大聖堂が太陽の光を跳ね返して眩しく輝いている。

ゴォーン、という重厚な鐘の音が響き渡ると同時に、白い鳩の群れが大空へと飛び立っていった。

ロイは眩しさから手で目に影を作り、澄んだ空を仰ぎ見た。


ここまで来たはいいが、かつて共に戦ったレオンや巫女であるミハエラに会える保証はなかった。

前回のイル=シャル国では幸運にもロエベたちに会えたが、ここは厳格な大聖堂だ。

せめて遠目からでも一目姿が見られたならそれで良しとしよう、そんな思いで足を運ぶ。


『ロイ、あれを見て』


ナナミの声が聞こえた方角へ視線を向けると、大聖堂の門の前で大きな人だかりが出来ていた。

中央に立つ人物が、何やら熱心に演説をしているようだ。

ロイは民衆の波に近寄り、その言葉に耳を傾けた。


「なぁ、この人だかりはなんだ?何かやっているのか?」

「祭壇を見てみな!今日は大祈祷の日だから、新しい最高位神官様がお出ましなんだ」


魔王討伐後、初めて執り行われる大祈祷。

白い石造りの神殿の階段の上、最高位神官レオンが祭壇に立っていた。

厳かな法衣を纏った姿は、神官のくせに酒だタバコだを嗜んでいた男とはまるで別人のような威厳を放っている。

静まり返った広場に、低く澄んだ声が響き渡った。


「アストリアの愛しき子らよ。聞きなさい。長きにわたる試練の夜は明け、慈悲深き女神エデルの御名のもとに、闇は今、退けられました」


集まった民衆が、救いを得たかのように深く息を呑む。レオンの声は、広場の隅々まで染み渡るように穏やかなのに不可侵の威厳を湛えていた。


「この平穏は、天から降り注いだ一時の奇跡ではありません。絶望に打ちひしがれながらも、女神への祈りを捨てなかった皆さんの信仰。そして、敬虔な心に応えようと、互いの手を取り合った慈愛。それこそが、この世界を再び光へと繋ぎ止めたのです」


レオンは広場を見渡し、一人ひとりの魂に語りかけるようにゆっくりと両手を広げる。


「畑を耕す手も、家族を抱きしめる腕も、病める者に寄り添う心も。すべては女神の愛を体現する尊き行いでした。忘れてはなりません。女神エデルは、常に皆さんのすぐ側に、吐息の中に、涙の中に共におられます。私たちが互いを愛し、助け合う時、女神の加護はより一層強く、この大地を包み込むでしょう」


一拍置き、聖者らしい微笑を湛えたまま、レオンの双眸が鋭く一点を射抜いた。

広場の外れ、群衆に紛れるようにして立つ、砂埃にまみれた旅装の男。

レオンの視界は、灰色の瞳を逃さなかった。

口元が本人にしか分からないほど、ごく僅かに愉悦に歪む。


「そして今、私たちはこの場所で、女神が遣わしたひとつの『応え』を讃えねばなりません。漆黒の闇に立ち向かい、その身を捧げて魔王を討ち果たした、神の愛しき寵児。女神の加護を一身に受け、私たちを導いた選ばれし勇者――ロイ・シリル」


レオンの指先が、静かに決定的な重みを持ってロイのいる方向へと向けられた。

爆発的などよめきが広場を揺らし、数千の視線が一斉にロイへと突き刺さる。


「……さあ、前へ。女神の祝福を分かち合うために」


遠くから押し寄せる熱狂的な歓声。ロイは引き攣った笑みを面に貼り付けつつ、内心で猛烈な毒を吐いた。


(あの野郎〜〜……聖職者の顔して、俺を完璧に教会の『神輿』に担ぎやがったな……)


だが、もはや退路は断たれた。

ロイは観念したように一歩を踏み出し、モーゼの十戒のように割れる人波を抜けて、神殿の階段の下に立った。レオンは慈悲深い父親のような眼差しをロイに向けながら、演説を締めくくる。


「アストリアの民よ。選ばれし勇者は、女神が私たちに与えた希望の象徴です。彼らは傷つき、恐れながらも、女神の愛を信じ、人を守るために戦い抜きました。どうか、この勇姿を心に刻みなさい。彼が守り抜いたこの平和を、共に支え合って育てていくのです。女神は常に皆さんと共にあります。手を取り合い、祈りを捧げ、共に歩もうではありませんか。輝けるアストリアの未来へと!」


空を裂くような拍手の渦と、女神を讃える祈りの唱和。

熱狂の嵐の中で、ロイは階段の下からレオンをジトリと睨み据えた。レオンは神々しいまでの微笑を崩さぬまま、ロイだけに読める速度で、秘やかに唇を動かした。


(逃げるなよ、勇者様。)


ロイはあからさまに嫌そうな顔を向けてみせた。それでも、心のどこかで少しだけ口元が緩むのを感じていた。


「……ちゃんとやってるじゃないか」


かつての不良神官は、今や立派に人々の心を掴み、束ねる最高位神官としての責務を果たしていたのだから。




***


大聖堂の内部、豪華爛漫な食堂へと通された。

テーブルには山海珍味が並び、贅沢な葡萄酒が用意されている。

二人きりで囲むには、あまりに過ぎた食卓だった。


「どうせ飯はまだだろう?」


レオンがニヤリと笑う。

ロイは見たことのないご馳走を前にごくりと喉を鳴らしたが、ふと、かつてこの場所で起こっていたであろう出来事を脳裏をよぎった。

怠惰と強欲に堕ち、堕落していった神官たちの成れの果てを。

赤い葡萄酒を煽るレオンも、あんな立派な演説をしておきながら、実は権力や金に目が眩んでしまったのではないか。

人は立ち位置によって、こうも簡単に変わってしまうのではないかという疑念が、ロイの胸を締め付ける。


「どうした?食わないのか」

「レオン……その……」


大聖堂という場所には、人を狂わせる何かがあるのではないか。言いたいことが喉まで出かかり、ロイはギュッと目を瞑った。


「いいか!?残すことは許さねえ!ソースの一滴、葡萄酒の一滴でも残してみろ!?磔の刑にしてやるからな!」


豪快に食事を口に運び始める大男。ロイが呆気にとられていると、手に持っていたパンをひょいと奪われた。


「食わねえなら俺が食うぞ。こんなご馳走、客人が来た時しか食えねえしな」

「俺、てっきり……レオンも前の神官みたいになっちゃったのかと……」


「はぁ!?んなわけないだろう!?こちとら奴らの贅沢三昧の散財生活のせいでカッツカツで、酒も飲まずに節制してるんだぞ!?これだって俺のポケットマネーからだっつーの!お前がアストリアを救ってくれたから、労いも込めて用意したんだよ。さっきも俺の演説の役に立ってくれたしな」


心につっかえていた黒い靄が一瞬にして晴れていった。

レオンはどこまでいっても、打算的で人間臭い、真っ直ぐな男のままだったのだ。


「……なんだ、ははっ、そうだよなぁ!あはは!あー、腹減ってたんだ、俺。じゃあ、遠慮なく。いっただきまーす!」

「そうだ食え!残さず食え!全ての命に感謝して骨まで食え!」


レオンなりの労いをありがたく受け取り、デザートまで平らげた。

しかし無骨な男二人が食後のティータイムを楽しむ光景は、なんとも筆舌し難いものがある。


「レオンは最高位神官で階級も金に戻ったんだろ?あの金ピカの服は着ないのか?」

「かーっ、趣味じゃねえよあんな服。そこも節約だ。ストラの部分だけ金にしときゃ、階級なんざ一目で分かんだろ」

「たしかに。そっちの方が俺もかっこいいと思う」


何も考えず、旧友との再会を、とりとめもない会話を楽しんだ。しばらくして、レオンは他の公務があるとのことで食事会はお開きとなった。


「そうだ、ミハエラもお前に会いたがっていたぞ。今日は裏手の教会にいるはずだ。会いに行ってやってくれ」

「み、ミハエラ様が!?俺なんかに!?」




***


言われるがまま、裏手の教会へと足を向けた。波の音が聞こえ、そよ風がロイの髪を撫でてゆく。だが、近づくにつれて足取りが重くなった。


「ナナミ、いるよな」

『心配しないで。そばにいるわ』


消えてしまっていないか不安で声をかけると、必ず答えが返ってくる。

もしミハエラに、ナナミを消したくないという願いを知られたらどうなるのだろう。

回復の奇跡をかけられ、無理やり精神を「健康」にされ、ナナミの声さえ聞こえなくなってしまったら。不安が心に広がっていく。


やがて潮風にさらされた、古びた教会が姿を現した。

陽だまりに包まれたその場所を目にした瞬間、なぜかひどく懐かしくなり、鼻の奥がツンとした。


「……あら、お客様でしょうか?本日は私しかお相手出来るものがいないのですが、よろしいですか?」


呆然と教会を眺めるロイの前に、浮世離れした雰囲気を纏う女性が現れた。汚れを一切知らないかのような、白き巫女。


「ミハエラ様……」

「貴方は……灰の瞳の勇者、ロイ・シリル。よく、遠くからここまでいらっしゃいましたね」


ミハエラは銀のジョウロを大切そうに抱えていた。たっぷりの水が注がれたジョウロで、教会の傍にある花畑へ水を注いでゆく。

この世界で最も尊き、女神に最も近い巫女が、自らの手で花を育てている。花々は生き生きと咲き誇り、見たこともないほど大きな花弁を広げていた。


「最近は、花を育てているんです。育むことはやはり素晴らしいことですね。この喜びを思い出せたのは、貴方がアストリアに平和をもたらせてくれたおかげです。ありがとう。ロイ」

「い、いえ、俺は……そんな。とにかく、世界が平和になって良かった限りです。ははは……」

「花も美しい、空も輝いていますね」

「本当だ、花も美しくて空も輝いてますね」

「でも、貴方はあの日からずぅっと泣きそうな顔のままですね」


ミハエラの射抜くような灰色の瞳に、ロイはたじろいだ。

泣きそうな顔など、自分はしているのだろうか。

銀のジョウロに映る自分は、決してそんな顔ではないはずだ。ちゃんと繕えているはずなのに、なんでそんなこと。

この人には嘘がつけないのではないか。

言葉に詰まるロイを察してか、ミハエラはジョウロを置き、彼を招き入れた。


「どうか、こちらへいらして」

「は、はい」



年季が入り古びた教会の奥、案内されたのは、木の匂いが沈殿した小さな告解室だった。

四角く仕切られた狭い箱の中。ロイが腰を下ろすと、古い床がギィと小さく悲鳴を上げた。

薄暗い空間には、わずかな隙間から差し込む埃の混じった陽光が、一筋の糸のように伸びている。

隣の小部屋からは、衣擦れの音と共に、ミハエラの静かな気配が伝わってきた。


「ミハエラ様?これは、一体……」


「今から私達は、独り言を言い合います。ここは私が結界を張りました。誰も、何も、聞いてはいません。立ち入ることも、届くこともありません」


仕切り板一枚を隔てた向こう側から届く声は、凪いだ海のように穏やかだった。


「なんの独り言を呟けばいいのでしょう?」


「なんでも。己の罪でも、世界の疑問でも、最近あった良いことでも。……誰も聞いていないのですから、どうぞご自由に」


どうぞご自由に――。

そう言われても、ロイの胸の奥で雁字搦めに絡まった感情は、どこを解けば言葉になるのかさえ分からない。

シンと静まり返った箱の中、聞こえるのは自分の早まる鼓動と、遠くで響く波の音だけだ。

だがこの静寂が、かえってロイの心の堤防を脆くさせた。

これは独り言だ。誰に届くわけでもない。

世界の理に反しようとしている無様な自分を、今ここで吐き出さなければ、心が焼き切れてしまう気がした。


「今からすごく……情けなくて、愚かなことを言うと思う」


ロイは膝の上で拳を握りしめた。指先が震え、爪が手のひらに食い込む。


「俺、ナナミのことを生き返らせようとしているんだ。……女神エデルの御許にいるのであれば、そこから奪ってでも、無理やりにでもこの世界に呼び戻したい。それが死者の眠りを汚す行為だと分かっていてもだ」


堰を切ったように、言葉が溢れ出した。


「ナナミは俺に魔法をかけたんだ。あいつがいなくても、俺が一人で生きていけるように。幻影が見えるようになった時、俺はおかしくなったんだと思った。でも、違ったんだ。壊れてた心が治る途中の過程なんだって……。……でも俺、ナナミのいない世界で『正しく』生きるくらいなら、おかしいままでいい。壊れたままでいいんだ」


暗闇の中で、ロイの視界が滲む。


「ナナミは、最期まで俺のことばかり考えてくれた。なのに、俺は自分のことばっかりだ。……救いたかったもののついでに、世界があっただけなんだ。幸せそうに笑う人々を見るのが、今の俺には辛くて、苦しくてしょうがない。みっともないよな……そもそもなんでナナミだったんだよ。いっそ俺が消えれば良かった。大体……最初から出会わなければ、あいつは今もどこかで生きていられたかもしれないのに!!」


最後は叫びに近かった。必死に押し殺していた醜い本音が、泥のようにドロドロと溢れ出て、狭い告解室を埋め尽くしていく。

心臓が耳元でドクンドクンと激しく打ち鳴らされる。言ってしまった。取り返しのつかない大罪の告白。

隣に座る、女神に最も近い巫女は、今どんな顔をして自分を蔑んでいるのだろうか。罵声でも、拒絶でもいい、この耐え難い沈黙を切り裂いてほしかった。


しかし、しばらくの沈黙の後に聞こえてきたのは、突き放すような言葉ではなく、そっと背中に手を添えるような柔らかい独り言だった。


「……愚か者とは、どのような者を指すのでしょうね」


「……っ」


「愛する人を失って、悲しまない人がいるでしょうか。大切なものを失って、心を壊すことが、果たして罪なのでしょうか」


ロイは答えられなかった。喉の奥が熱く、視界が歪んで何も見えない。


「幻でもいいから側にいてほしい。姿が見えなくなるのが怖い。……出会わなければ良かったと思うほどに、痛い。それはすべて、あなたが人を、ナナミという一人の女性を愛した証ですね」


仕切りの向こう側で、ミハエラが小さく微笑んだような気配がした。


「勇者だからといって、神のように振る舞う必要はありません。あなたは人なのです。……そして、誰よりも深く人を愛した一人の男性です。……女神エデルは、人が苦しむことを止めません。私は、それこそが愛の証だと思うのです。愛は必ず人を傷つけます。いつか失うからです。いつか終わるからです。それでも人は、誰かを愛することをやめない。それがきっと――女神が人を美しいと思い、愛おしむ理由なのですから」


ミハエラはしばらく言葉を切り、ステンドグラスから漏れる色彩が静かに揺れるのを見つめていた。その横顔は見えないが、彼女の声には、ロイと同じ痛みを分かち合うような響きがあった。


「この世界の理では、死者は女神のもとへ旅立ち、肉体を失った魂が帰ってくることはありません。……それでも、探してしまいますよね。……私も、探しました」


ロイがハッとして、仕切りの板を見つめた。


「禁書も読みました。封じられた禁忌の奇跡にも、手を伸ばしかけました。もし一つでも道があるのなら、どんな重い罪でも背負うつもりでした。……けれど、どこにもありませんでした」


それは、聖教国の頂点に立つ彼女による、静かで、重い告白だった。


「死者を呼び戻す奇跡は、この世界にはありません。もしそれができるのだとしたら、それは女神ではなく、世界そのものを書き換える力……。……それでも、願ってしまうんですよね」


「……ああ」


ロイの声は、ひどく掠れていた。


「俺は勇者なのに……こんな、世界の理を壊すようなことを願ってる」


「いいえ、ロイ。勇者だからではありません。あなたはただ、ナナミを愛していたからです。死者を蘇らせたいと願うことは、決して罪ではありません。それは――残された者の、切実な『祈り』です」


ロイの瞳から、こらえていたものが一雫、砂のついた床に落ちた。


「ただ、女神はその祈りを叶えません。旅立った魂には、皆平等に、安らかな眠りを与えねばならないからです。……彼女の旅立ちは、誰かに強制されたものではありません。彼女自身が選び、あなたに未来を託した道です。……あなたにできることは、彼女と守ったこの世界を生きること。それが、遺された者の役目なのです」


ゴォーン――。

遠くで鳴る鐘の音が、厚い石壁を越えて、告解室の中までくっきりと響き渡った。まるで、過去の自分を弔う弔鐘のように。


「ただ、ひとつ言えるのであれば。……女神が赦すのであれば、それは世界の理には反しません。ですからどうか、堂々となさってください。……ほら、あなたは、何一つとして罪など犯していないのですから」


ロイは、しばらく言葉を発することができなかった。

胸の奥で、鉛のように固まっていた何かが、ゆっくりと解けていく。狭い箱の中に、温かな光が灯されたような感覚だった。


「俺……ずっと間違ってると思ってた。死者を取り戻したいなんて、世界を救った勇者が考えていいことじゃないって……」


小さく息を吐き、自嘲気味に、けれどどこか晴れやかな笑みを浮かべた。


「……俺は、すごく諦めの悪い男なんだ。もしこの世界のどこかに、ほんの欠片でも可能性があるのなら。ナナミが守ったこの世界を、泥臭く生きながら、どれだけ時間がかかっても……それでも俺は、ナナミを探す。」


「それが俺の、生涯をかけた祈りだ」


少しの間を置いて、彼は確認するように問いかけた。


「……それでも、いいんだよな」


「……ええ。誰も、その祈りを否定することなどできません」


温かな胸の鼓動と、静かな箱の中。

心の傷が消えたわけではない。けれど、その痛みすらも愛の証なのだと受け入れたロイは、救われたように、そっと目を閉じた。

物心ついた頃から自分に母親がいた記憶はない。けれどもし、母という人がいたのなら。自分はこうして相談したのだろうか。



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