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ruth story  作者: Cy


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10-9「風の国」




セレスティア聖教国を辞してからというもの、ナナミの声には絶えず砂嵐のようなノイズが混じり、ひどく聞き取りにくくなっていた。

ロイはその理由を、身を切るような痛みと共に自覚している。

自分自身の心が、彼女という包帯を必要としないほどに「大丈夫」になってしまったからだ。

たとえ姿が見えなくとも、声が届かなくとも、残された人生のすべてを懸けて彼女の欠片を探し続ける決意は、もはや何者にも揺るがせはしない。

けれど、掌から零れ落ちていく彼女の気配への、形のない不安を無理やり押し殺すように、ロイは無意識に旅装のポケットへと手を伸ばした。


指先に触れる、ピィの卵。

硬い殻越しに伝わる確かな熱が、冷えかけた掌を温める。

次の国で、長く険しい旅もついに終着を迎える。

もっとも残酷な決別と、もっとも愛おしい情景が眠る約束の地――ハナレア諸島。

記憶の底に澱のように沈殿していた、あのむせ返るほどに甘い花の香りを思い出し、ロイは一度深く肺を満たすように空気を吸い込み、静かに瞼を閉じた。


船上の時間は、幾度繰り返しても慣れることのない苦行だった。

相変わらずの劣悪な乗り心地に、ロイは幾度も込み上げる吐き気に身をよじった。

皮肉なことに、意識が混濁し、世界がぐるぐると回り出すたびに、遠ざかっていたナナミの声はほんの僅かだけ明瞭さを取り戻す。その不条理な反比例に、ロイは割り切れない思いを抱えながらも、荒波に揺れる甲板の上で必死に自分を繋ぎ止めていた。


島に降り立った瞬間、南国特有の濃密な芳香が肺の奥まで突き抜けた。

それは閉ざしていた胸の奥を乱暴に掻き乱し、檻に閉じ込めていた「会いたい」という飢えにも似た衝動を解き放つ。

寂しさに押し潰され、心が細かく砕け散ってしまいそうな錯覚。

だが、今のロイは以前の彼ではない。

抱くべきではない執着も、消えることのない未練も、すべてが自分の一部なのだと、ようやくその身に受け入れられるようになっていた。


「ロイ、おかえり」


穏やかな調べが、凪いだ風に乗って届いた。

砂を踏みしめる柔らかな足音と共に、熱を帯びた潮風が吹き抜ける。


「アルバ……」


そこに立っていたのは、ハナレア諸島の巫女、アルバだった。

太陽が西の水平線へと沈み始め、世界が黄金色に溶け出す午後の光の中。

彼女は腕に抱えた花籠から、リゼルナとフィノアの花びらを、惜しみなく宙へと蒔いていた。


「こんな時期に勇者が戻ってくるなんて、縁起がいいね。まあ、分かっていたことだけど」


「また精霊たちに聞いたのか」


ロイの口元に、自然と穏やかな笑みが浮かぶ。

幾多の困難を乗り越えた後の、懐かしい再会だった。

二人は砂浜に静かに佇む木陰のベンチへと腰を下ろし、寄せては返す波の音を、しばらくの間ただ無言で見つめていた。


「一時はどうなることかと思ったけれど、独りで旅をできるほどに回復したんだね。君は、本当に強い子だ」


「アルバには本当に世話になった。迷惑も、数え切れないほどかけたよな……。本当に、ありがとう。……それと、ごめん」


「謝らないでおくれ。こうして元気な姿を見せてくれた、それだけで私の心は満たされているんだから」


彼女の隣にいると、まるでぬるま湯に浸かっているような安らぎに包まれる。

それは優しい微睡みのような安心感であり、漂泊の果てにようやく辿り着いた、魂の故郷のような感覚だった。


「それにね、私の方からも礼を言わなきゃならないんだ」


アルバはそう告げると、ロイの顔を自分の腹部へと静かに引き寄せた。

ゆったりとした白い装束に隠れて気付かなかったが、彼女の腹部は僅かに膨らみ、柔らかな曲線を帯びている。

彼女はカイエンとの間に、新しい命を宿していたのだ。


「分かるかな。私は母親になるんだよ。君たちが、命を懸けて繋いでくれた未来が、今ここに生きているんだ」


「あ……」


臨月を控えた腹部はまだ小さく、ロイには赤ん坊の明確な鼓動など分からなかった。

それでも耳を寄せれば、命が芽吹こうとする微かな震えが伝わってくる気がした。

母の胎内で守られ、無限の愛情を一身に受けながら、悠々と生まれる時を待つ小さな命の鼓動。

絶対的な尊さに触れた瞬間、ロイの視界は急激に歪んだ。


瞳から溢れ出した涙が、アルバの服を深く濡らしていく。

喉を突き上げる嗚咽を抑えきれず、大の大人が無様に肩を震わせて泣きじゃくった。


「ちがっ……違うんだ……嬉しいんだ。嬉しいはずなのに、なんでか止まらないんだ……っ」


「うん。分かっているよ。ありがとう」


アルバは迷子をあやすように、何度も、何度もロイの頭を優しく撫で続けた。

世界を救うという、あまりに巨大で漠然とした言葉。

戦いの後、数え切れないほどの感謝を受け取ってきた。それなのに、どこかで他人事のように感じていた。自分のおかげなどではないと、その光を否定する自分が常にいたのだ。


だが、今こうして目の前で息づこうとする一つの命に、自らの歩みが直結していることを、初めて肌で、心で、真実として感じていた。

自分たちの犠牲は無駄ではなかったのだと、凍てついていた魂が報われたような感覚が全身を包む。

けれど反面、この輝かしい幸福の中に、どうしてもナナミにいて欲しかったと、刺すような痛みが胸を貫く。

かつては他人の幸せを見るだけで心が千切れそうになった。しかし今は痛みすらも愛おしく、すべての感情が奔流となってロイの心を洗い流していく。


『もう、大丈夫ね……』


透き通るような声を最後に、ナナミの声はぷつりと断たれた。

意識の奥底まで冷たい静寂が満ち、ノイズさえも完全に消え去った。


ついに、彼女は消えてしまったのだ。


あんなにも盛大に別れようと約束したくせに、あまりにも一方的で静かな幕引き。

全身の細胞が千々に引き裂かれるような喪失感と、残された圧倒的な愛おしさ。

ロイの心を元通りにするための再生の旅は、ここで残酷なまでに美しく終止符を打たれた。



***


ようやく泣き止んだロイの目は真っ赤に腫れ上がり、重たくて開けるのも一苦労だった。アルバの服をびしょ濡れにしてしまった申し訳なさに、彼は子供のように顔を赤らめる。


「すまない……! 冷やしたら体に障る。着替えてきた方がいいよな」


「気にしなくていいよ。でも、確かにこの子を冷やすわけにはいかないね。じゃあ、ちょっと着替えてくるよ。代わりに、これをお願いできるかな」


アルバから手渡されたのは、色とりどりの命が詰まった花籠だった。


「分かった。足元に気をつけろよ、ちゃんと前を見て歩けよな」

「ロイー!今年の祭りも、絶対に参加していくんだよ!」

「ああ、分かってる! せっかくだし、最後まで付き合うよ!」


遠ざかっていくアルバの背中に大きく手を振り返し、ロイは一度深く息を吐いた。重い花籠を抱え、決意を込めて腰を上げる。

黄昏に染まるハナレアの地を、一歩ずつ、かつて彼女と共に刻んだ軌跡をなぞるように歩き始めた。


ナナミを踊りに誘った、あの白砂の浜。

ナナミと共に笑い、軽やかにステップを踏んだ場所。

喉を鳴らして冷たいジュースを飲み干した、柔らかな木陰。

ナナミに自分のすべての想いを告げた、永遠の瞬間。


どこを見渡しても、彼女との記憶が色鮮やかに溢れ出し、胸を強く締め付ける。

辿り着いたのは、島の終着点、オルペリアの丘。

大魔女マリナの墓の樋面に、アルバが立ててくれた、遺された者のためのナナミの墓。


「アルバが立ててくれたんだな。ちょうど良かった。クロエたちから預かってた手紙があるんだ」


墓が建つ丘からは、かつての最終決戦の地、最果ての島がよく見渡せる。

あの日、彼女が最期に起こした祈りの奇跡によって、全てが枯れ果てたはずの絶望の島では今もなお、現実とは思えぬほど美しい花々が咲き乱れている。


「やっぱり、お前はすごいやつだな」


墓の前に花籠を静かに置き、ロイは代わりに古い本と、二輪の花を手に取った。マントに留めたマーメイドパージュの髪飾りが、西陽を浴びて鋭い光を放ち、周囲を照らす。

すると、ふわりと柔らかい風が吹き抜け、消えたはずのナナミの幻影が、再びその姿を現した。


ロイは驚愕に目を見開く。


『ちゃんとお別れ、しなくちゃと思って』


「……本当だよ。二度も何も言わずにいなくなるなんて、俺の気持ちも少しは考えてくれよ」


『……』


「でも、これでちゃんと言える」


震える手で、真実の愛を象徴するリゼルナの花を墓へと供える。

すべての愛、すべての感謝、すべての執着を、一輪に込めて。

ロイの情熱に呼応するように、辺りに漂う精霊たちが一斉に舞い踊り、地面を瞬く間にリゼルナの花畑へと変えて行く。恋する想いを養分にして、花々は鮮やかに色づき、狂おしいほど満開に花開いた。

これでは言葉にする前から、想いがすべて透けて見えてしまう。


「雨の日も、晴れの日も。病める時も、健やかなる時も。たとえ死が二人を分かとうとも……俺は、ずっとお前を想い続けるよ」


ナナミの幻影は、何も答えない。

ただ、この世の何よりも愛おしいものを見つめるような慈愛に満ちた眼差しで、じっとロイを見つめていた。


「だから……ほんの少しの間だけ。さよな――」


『ねえ、ロイ』


死者への鎮魂と永遠の別れを意味するフィノアの花を供えようとした、瞬間だった。

別れの言葉を遮るように、ナナミが鋭く声を上げた。

予期せぬ呼びかけに動揺したロイの指先が、花の茎にある鋭い棘に深く触れる。


走る激痛と共に、一滴の真紅の血が、開かれた本の上にぽたりと落ちた。

フィノアの花には、美しさの中に鋭い棘が隠されていたのだ。

慌てて血を拭おうと手を伸ばした刹那、ナナミの幻影が、今までとは明らかに違う、悲痛で切迫した声を絞り出した。


『私を……助けて……』


「……!?」


ロイが弾かれたように顔を上げた瞬間、本が目も眩むような黄金の光を放ち、重力を無視して宙へと浮き上がった。

バラバラと凄まじい勢いでページが捲られていく。そして、ある一頁で刻が止まったかのように動きが止まった時、白紙だった紙面に、血を吸った黄金の文字が浮かび上がった。


【汝、深紅の契約を望む者よ。

赤き滴を供物として捧げよ。

それは鍵、これは門。

運命は動き、未来は書き換えられん。】


激しい青い光が渦を巻き、ロイを逃がさぬよう包み込む。


「うっ……!!」


同時に、実体を持たないはずのナナミの幻影が、ロイの腕を、骨が軋むほどの力で掴んだ。

触れられるはずなど、ないというのに。その手は、凍えるように冷たかった。


『逃がさない』


ナナミの口元が、かつての彼女からは想像もつかないような、歪んだ笑みを形作る。

そのまま、ロイは抗う術もなく、眩い光を発する本の中へと、底知れぬ深淵へと引き摺り込まれていった。


その日、アストリアの地から、世界を救った勇者の姿が跡形もなく掻き消えた。

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