10-6「地の国」
伝説と謳われる名剣が、北の大地の凍てつく風の中で再び頼もしい形を取り戻し、ジークやネイシュカ、厳しい寒さの中で力強く生きるノルディア雪原国の人々と別れを告げてから数日が経過した。
熟練の鍛冶師の手によって修復された刃の、かつて欠け落ちていた箇所には、ロイの瞳と同じ「灰色」を宿した鉱石が美しく、異質に埋め込まれている。
陽光を浴びれば鈍い銀の輝きを放つ欠けたはずの箇所は、ロイ自身の魂の一部が混じり合ったかのような生命感を宿していた。
自分に少しだけ似た面影を持つその武器を、ロイは以前よりもずっと深く、肌身の一部のように愛おしく感じている。
空から降り注ぐ陽光を反射する刃をぼんやりと見つめながら、ロイは今、避けようのない、そして勝機のない過酷な戦いに身を投じていた。
次に目指す目的地は、荒々しくも豊かな大自然が息づくナンバル=ムウ。
そこへ至るために避けては通れないのが、視界のすべてを飲み込む碧の境界——母なる海をゆく航路である。
陸路を選べば、気の遠くなるような迂回を強いられるため、揺れる木造船に身を任せるのは勇者として賢明な判断といえた。
だが、うねる波に合わせて上下する甲板で、ロイは胃の腑の底から込み上げる不快感に悶えながら、切実に願わずにはいられない。
いっそドラゴンのトトが空から舞い降り、一息に運んでくれればいいのに、と。
そんな贅沢な願いが届くはずもなく、ロイは絶えずせり上がる酸味を必死に飲み込み、ぐるぐると回転し続ける視界の中で、ただひたすらに陸地への上陸を待ちわびるのだった。
「ロイー!こっちこっちー!」
「ルー!驚いたな、また背が伸びたんじゃないか?」
やがて潮風の香りが濃密に漂う船着場へ、羽のように軽い足取りで迎えに来たのは、ナンバル=ムウの巫女・ルーだった。
出会った頃の幼さは影を潜め、少女特有のしなやかさがその立ち姿に芽生えつつあったが、再会した瞬間にロイの胸元へ勢いよく飛びつく無邪気な様子は、あのお転婆娘そのままだ。
『驚いたわね。なぜルーは、私たちがここへ着くのが分かったのかしら?』
ミルクチョコレートの髪を揺らし、ナナミの幻影がロイのすぐそばで呟く。ロイもまた、自身の心へ同調するように首を傾げた。
「なんでここに来るのが分かったんだ?他の巫女様たちから、伝言でも聞いたのか?」
「ふっふっふ!なぜだと思う?」
悪戯っぽく笑うルーに手を取られ、ロイは懐かしい緑の集落へと導かれる。
集落の中央に辿り着くと、かつての激戦で無残に倒壊した「命の樹」の残骸は、まだ完全には片付けられていなかった。しかし、袂に芽吹いた新たな命の樹は、今や天を突くほどに巨大な枝葉を広げ、集落に心地よい木漏れ日を落としている。
「うへ〜、ルーも大きくなったと思ったけど、命の樹までこんなに背が伸びたんだな」
『あとどのくらいの時間が経てば、元の大きさに戻るのかしらね』
「さすが女神エデルの愛した樹だよね。妖精たちの熱心な加護もあって、僕も成長速度には日々驚かされているんだ」
聞き覚えのある、鈴の音のように透き通った声。
ロイの隣に並び立ったのは、眩い黄金の髪をなびかせ、ブルーサファイアを嵌め込んだような青い瞳を持つ青年だった。
「クラリス!お前、ここにいたのか!旅を続けるって言ってたから、どこかの国で会えるとは思ってたけど……元気だったか!?」
「ロイ。妖精たちから風の便りに噂は聞いていたけれど、随分と元気を取り戻したようだね。僕は見ての通りだよ。今はハナレア諸島と、このナンバル=ムウを不定期に行き来しているんだ」
一瞬にしてロイの顔があからさまに歪んだ。
ハナレアもナンバル=ムウも、到達するには必ず船に乗らなければならない。
ロイにとっては「地獄の航海」を繰り返すという苦行に等しい。
自分ならば、逆立ちしても船旅を繰り返す生活など選びたくはないのだ。
「だからルーは、俺が来るってわかったんだな?」
ルーはえへへと得意げに笑い、それから少し不満げな眼差しをクラリスへと向けた。
「クラリス、ずーっとここにいればいいのに」
「最果ての島の精霊たちも心配なんだ。それにアルルホスもあちらへ行ってしまったしね。でも、しばらくはこの土地に留まる予定だから、そんなに拗ねないで」
「クラリスは、ここで何をしているんだ?」
「集落の子供たちにアストリア共用文字と、少しだけ教養を教えているよ」
***
集落の子供たちが集まり、柔らかな芝生の上に円を作る。
この地には贅沢な文房具など何一つ存在しない。
豊かな自然のすべてが、彼らの学びの教材だ。
湿った地面は羊皮紙となり、剥き出しになった太い木の根は座り心地の悪い椅子に。そこらに転がる折れた枝先は、知識を刻むための羽ペンへと姿を変える。子供たちは、クラリスが描く文字の軌跡を必死に追い、泥の上にスペルを刻みつけていた。
ロイ自身、教育らしい教育を受けた経験はない。
学校なんて夢にも見てなかったくらいだ。
今こうして使っている共用文字も、城の最下層で泥にまみれて働いていた頃、眠気と闘いながら独学で、血を吐くような思いで身につけたのだ。
「あ、ロイ!そこスペルミスだぞ!」
「勇者さまもまちがえるんだ〜!」
「悪いな!学がなくて!」
『ロイ、とっても楽しそう。それにしても、クラリスは教え方が上手ね。本当に先生に向いているわ』
「ほらほらみんな、他人の間違いより自分の手元を見てごらん」
クラリスは器用に動き回り、泥の上に書かれた不格好な文字へ、花丸を添えたり正しい綴りを優しく書き込んだりしている。
文字の練習が終わると、歴史の授業が始まった。
「今日はせっかくご本人がいることだし、特別に『アストリア英雄譚』を語ろうか」
「わーい!おれ、そのはなし大好き!」
クラリスの揶揄うような笑みに、ロイは得も言われぬ嫌な予感を覚える。
竪琴の優雅な爪弾きに合わせ、稀代の吟遊詩人であるクラリスの美しい歌声が、熱帯の湿った空気に溶け込んでいく。
……内容は、ロイにとって聞くに堪えないほど小恥ずかしいものだった。
事実を元にしてはいるものの、過分に脚色が加えられ、クラリスの圧倒的な表現力も相まって、ロイはとてつもなく壮大な、聖王のごとき英雄に祭り上げられていた。
枕があれば顔を埋めてのたうち回りたいほどの羞恥が、ロイを激しく襲う。
「ロイかっけー!」
「なー、ゆうしゃー。まじょとキスした?」
「してない!!!あ、いや、ん?あれは……」
「ぎゃー!本当にしたんだ!」
「ひゅーひゅー!」
「ち、違う!おでこだ!おでこなら多分……あっ……」
囃し立てる子供たちの前で、顔を林檎のように真っ赤に染めるロイを見て、クラリスは満足げに微笑んだ。
「だいたいクラリス!お前、脚色が過ぎるんだよ!魔王との戦いなんて見ていないはずなのに、ナナミに対してあんな恥ずかしいセリフ、俺が言うわけないだろ!」
「いやぁ、妖精たちはすべてを見ていたからね。それにしてもロイ、ナナミへの恋心を隠すのはもうやめたのかい?」
「わーーーっっ!そ、そうじゃない!気付くのが遅かったっていうか……あーーーっ!!!もう!」
頭を抱えて悶絶する中、ふと、鋭い思考がロイの脳裏を貫いた。
もしかして、万物を見聞きする妖精たちならば、ナナミが今どこへ消えてしまったのか、行方を知っているのではないか。
「クラリス……一つ、妖精たちに聞いてくれないか。あの日、ナナミはどこへ行った?」
ロイの纏う空気が、一瞬で氷点下まで凍りついた。
羞恥に震えていた男が、急に「真理」を凝視するような冷徹な眼差しを向けたのだ。
クラリスの青い瞳に、深い疑念と懸念が宿る。
ルーも不安げにロイを見上げた。
ナナミの幻影はただ黙って、悲痛なほどに固く唇を結んでいる。
透明な風が辺りを吹き抜け、不自然なほどの静寂が辺りを支配した。
「……なんてな。そうだ、ルー!俺、試練の洞窟に行きたいんだ。ピィに出会わせてくれたお礼を言いたくてさ」
誤魔化すようにロイが乾いた笑いを漏らす。
少しだけ張り詰めた緊張が解け、ルーはホッと安堵の息を吐いた。
「いいけど……ほんとにいくのか?」
「そういえば、ピィの調子はどうだい?」
笑顔を崩さぬまま、ロイはポケットから清潔なハンカチに包まれた赤い卵を、宝物を扱う手つきで取り出した。
生きていることを証明するように、微かな脈動に合わせて赤い光を放っている。
ルーが小さな指先で殻に触れた。
目を閉じ、卵の内側で微睡む魂と対話するように優しく撫でる。
カサリ、と乾いた指先が殻を滑る音だけが響くほどに静寂が訪れた。
「あったかい。けど、すごくねむたそう」
「……やっぱり、目覚めるのはまだ先か」
寂寥感を噛み締め、ロイは再び卵をポケットの奥へと大切に仕舞い込んだ。
***
真っ白な貫頭衣に身を包んだロイは、巨大な口を開ける試練の洞窟の前に立っていた。
かつては足が震えるほど恐ろしく、絶望の入り口にしか見えなかった場所。
しかし今は、不思議なほど凪いだ、鏡のような心境だった。
「お前は来るな」
後ろに控えていたルーとクラリスの方に、ロイは温度のない声を向けた。
明らかに、以前のロイとは違う。
もうこの世界に肉体を持たないナナミが纏っていた、静謐でありながらどこか鋭利な刃物のような空気に似ていた。
ルーは曖昧な微笑を浮かべ、刺すような空気をなんてことないように受け流す。
「だいじょうぶだぞ。試練の洞窟は、一人一つの穴しか入れないきまりだ。出口でまってる」
「あ……そう、だったよな。じゃあ、行ってくる」
暗い口の中へと吸い込まれていくロイの背中。
不安げに見守るクラリスとルー。
さらに後ろで控えるように立つ実体のないナナミが、誰よりも悲しげに彼の行先を見送っていた。
今のロイにとって、暗闇などはもはや恐怖の対象ではない。
魔王という根源的な絶望を前にし、最愛の者を失い、心まで砕かれた経験を経た彼にとって、この程度の闇は「夜の静かな散歩」に過ぎないのだ。
点在する魔法石が、鈍い光でロイのゆく道を淡く、頼りなく照らす。
洞窟の最奥——ソレは現れた。
闇から染み出したような不定形の影が、不気味にロイを見下ろす。
以前のロイなら腰を抜かしていたであろう圧倒的な威圧。しかし空虚な灰色の瞳は、臆することなく「影」の正体を射抜いた。やがて影は、歪な形を崩して、楽しげに笑った。
「ヤッホ、ヒサシブリ」
「なんだよ、ビビらせんなよな」
実体のない「再会」を祝し、ロイ達は触れられないハイタッチを交わす。
冷たい洞窟の中で、暫し二人きりの再会の喜びを分かち合った。
「ピィは、神獣だったんだな。仲間を救った後、また卵に戻ったんだ」
「フェニックスハ、ソウヤッテイノチクリカエス」
「……何年後かには目を覚ますよな?」
影は悲しげに首を横に振った。
ロイと出会う前、ピィは百年以上も卵の中で微睡み続けていたのだという。たまたまピィが目覚める運命の瞬間にロイが居合わせただけで、本来、人の一生で出会える事自体が奇跡に近いことなのだと。
「そんな!百年なんて、俺の寿命がもたないぞ!」
「フェニックスニデアエルコトガ、キセキ」
がっくり項垂れるロイに、影は無言で寄り添った。
百年とは想定外すぎた。勝手に期待してしまった分落ち込んだが、影の飾らない優しさに少し救われつつ、ロイは意を決し、懐に隠していた、呪いにも似たもう一つの問いを投げかける。ピィのことで心が折れそうな分、当たって砕けてもいい覚悟だった。
「もし、知っていたら教えてほしい。……女神エデルの元へ旅立った者を、この世に呼び戻す方法はないか?」
影は再び、静かに首を振った。
「ソレハ、フッカツノキセキヲオコサナイカギリ、ゼッタイニアリエナイ」
「なんでもいいんだ。時間を巻き戻す方法でも、生き返らせられなくてもいい、せめて会うだけでも……!」
「ジカンハマキモドラナイ。ススムシカナイ。イッポウツウコウ。シシャニアウコトモ、セカイノコトワリハユルサナイ」
「……」
「タダ、ヒトツ。ソノホンハドンナトキデモテバナサナイホウガイイ」
ロイは目を見開いた。
入り口で脱ぎ捨てた衣服と共に置いてきたはずの「古びた本」が、なぜか今、自分の手の中に、確かな重みを持って存在していたからだ。
「ソレハイブツ。ソレハテガカリ。ソレカラハナレタラネガイガカナワナイ」
「この本が……手がかり?」
ロイは分厚い古本を目の高さまで掲げた。
ナナミはいかなる時も、この古めかしい本を肌身離さず持っていた。魔王と対峙した、絶望の瞬間でさえも。
中身はどこまでも空白。真っ白なページが広がるだけの、無益に思える一冊。
なぜ彼女はこの空白を慈しむように眺め、宝物のように扱っていたのか。
この本こそが、ナナミという存在へ繋がる唯最後の糸なのかもしれない。
ロイはギュッと、本を胸の前で抱きしめた。
「ありがとう。この本について、詳しく調べてみるよ。ピィもたまに連れてくるから、また相談に乗ってくれ!」
影は一度だけ頷く。
洞窟の出口へと向かうロイの背中に、影はどこからか取り出した白いハンカチを、寂しげに、名残惜しそうに振った。
「ルーニモ、ヨロシクネ」
洞窟の先、眩い光が再び視界を灼く。
青草の爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、世界が鮮やかな色彩を取り戻した瞬間——。
「ロイーーーーーーーッッッ!」
ドスン!
予想だにしていなかった勢いのタックルを食らい、ロイは芝生の上へと倒れ込んだ。
とてつもないデジャヴ。どうしてこうも子供は自分に容赦なくつっこんでくるのだろうか。
「どうしたんだよ、ルー?」
「ロイの様子がやっぱり変だって、ルーがずっとソワソワしていたんだよ」
そばに控えていたクラリスが苦笑しながら、倒れ込んだ二人へ手を貸す。
ルーはロイの腹に顔を埋め、溢れ出る嗚咽を堪えるように肩を激しく震わせていた。
「しぬなっ!ロイ!」
「なんで俺が死ぬことになってるんだよ!」
ルーの頭越しに、心配そうに自分を見つめるライラックの瞳と目が合う。
ロイは困ったような、それでいて愛おしむような、曖昧な微笑みを唇に浮かべた。
「俺は、いなくなったりしないよ」
ルーを安心させるように、自分自身にも言い聞かせるように。
かつて彼女と交わした約束の言葉を、ロイは再びここに刻んだ。
自身の魂を世界に繋ぎ止めるための、唯一の呪文であるかのように。
本に記された「空白」の真実を追う旅が始まる。
ロイの瞳に、揺るぎない意志の光が宿っていた。




