10-4「月の国」
視界を埋め尽くすのは、暴力的なまでの蒼だった。
陽光を無数に砕いて撒き散らしたような海原は、どこまでも高く、深い。
だが今のロイにとっては目を焼く極彩色の地獄でしかなかった。
アストリアの神々は、何故これほどまでに陸地よりも海を広く造りたもうたのか。
「ぎぼち、わる……。船酔い、もう、しないとおぼっでだのに……」
甲板の手すりに力なく半身を預け、呻き声とともに胃の底に溜まった苦悶を海へと捧げる。
ハナレアから帰還した折、何度も船を乗り継いだ記憶は朧げにある。あの時は酔わなかった。
だが克服したわけではなく、ただ三半規管が麻痺していただけだったのだ。
失ったはずの健康体を取り戻し、鋭敏になった感覚は、波のうねりを過剰なまでに拾い上げて脳を掻き回す。
船体が傾ぐたび、世界がぐにゃりと歪み脳漿が揺れるような錯覚に襲われた。
『だから陸路にした方がいいって言ったのに』
心配そうに顔を覗き込む、ライラック色の瞳。
呆れを含んだ少女の声すら、今のロイには遠い鳴鳴のようにしか聞こえない。
意識が混濁する中、旅立ちの日の記憶が潮風に乗って蘇る。
神託が下ったあの日。
神殿の入り口で、独り待ちぼうけを食らっていたナナミへ、旅立ちを告げた時のこと。
「俺、明日から旅に出る」
『……?とても急なお話ね?私もついていくわ。あなた一人だと、どこかで迷子になってしまいそうだもの』
「……旅のせいで、ナナミが消えることになっても?」
投げかけた言葉は、鉛のように重かった。
魂の傷を癒すための巡礼。それは同時に、幻影である彼女との決別を模索する道でもある。
悲しみに暮れるか、あるいは拒絶されるか。
身構えるロイの予想を裏切り、彼女は瞳をきらきらと輝かせた。
『……とてもいいと思うわ!あなたを取り戻すためなんですもの。ついていけるなんて光栄よ。いつか、盛大にお別れしましょ!』
「あのなぁ……」
やはり、目の前の幻影は自分自身の存続など二の次で、常にロイのことばかりを慮る。
どこまでも優しく、救いようがないほどに残酷な献身。
けれど、彼女がそう望むのであれば。
優しくも残酷な祈り(まほう)が解ける、最期の瞬間まで、共に歩もうと心に決めた。
***
船旅という名の苦行を終え、ようやく踏みしめた大地の揺るぎなさに、ロイは人知れず安堵の溜息を漏らした。
ツクヨの国へと続く街道。
かつて仲間たちと歩んだこの道は、当時はまだ互いの距離感も掴めず、どこか他所他所しい沈黙が流れていた。
今、その記憶が目の前の景色と重なり合い、胸の奥をくすぐる。
やがて、天を衝くような朱塗りの大鳥居が視界を遮った。
柱の鮮烈な赤が、周囲の深い緑と対比を成し、この場所が神域であることを告げている。
緩やかな石段の麓には、二つの影が並んでいた。
小柄な女性と、守るように聳え立つ大柄な男。
一枚の絵画のように完成された、静謐で神秘的な光景。
初めてこの地を訪れた時と変わらぬ佇まいに、ロイは眩しさに目を細めた。
「よう!ロイ!」
「ようこそ〜!ツクヨの国へ!じゃ!」
「ナック!それにミコトさ……ミコ……チャン!」
駆け寄ってくるナックの足取りは、かつてよりも一際力強く。
ミコトの浮かべる笑顔は、春の日差しのように柔らかい。
未だ「ミコちゃん」という愛称を口にするたび、顔を火照らせるロイを、二人は変わらぬ温かさで迎え入れた。
ミコトの屋敷へ向かう道すがら、復興を急ぐ金槌の音が心地よく響く。
魔王復活の際に受けた災厄の爪痕は、今も家々の壁や石畳に残っている。
しかし、行き交う人々の活気が、傷跡を少しずつ塗り替えていた。
「こんなに遠いところまで被害があったのか……」
「幸いにも死者は出ておらぬ。最悪の事態にならなかったのは、主らのおかげじゃな」
『ふん、そうよ。もっと褒めなさい!私が魔王の攻撃を堰き止めなければ、世界の半分は滅んでいたのよ!』
得意げに胸を張る幻影の声は、当然ながら二人の耳には届かない。
「ロイもいっときはどうなることかと思ったけどよ、一人で旅に出れるくらい回復したみたいでよかったぜ!久しぶりにどうだ?一緒に鍛錬!」
「はは、ナックも相変わらずだな」
空白の時間を埋めるような、他愛もない会話。
辿り着いた和風の屋敷には、若草色をした畳の芳香と、静かに焚かれた香の匂いが満ちていた。
その香りが、旅路で強張ったロイの心身を優しく解きほぐしていく。
通された客間で、出された玉露の茶を啜りながら、近況に耳を傾ける。
ナックとミコトは、旅路から戻った後に祝言を挙げ、ナックは正式にツクヨの巫女の伴侶、大祭衛という栄誉ある職に就いたという。
とはいえ、平和を取り戻した現世において、剛剣を振るう機会はそう多くない。
普段は町で道場を開き、子供たちに心身の鍛錬を説く日々だ。
「本当に、この朴念仁は……!新婚じゃというのに、妻であるワシをおいて暫く修行の旅に出て帰ってこないんじゃぞ?全く……」
言葉の端々で不満を零しながらも、ミコトの瞳には隠しきれない愛慕の情が滲んでいた。
そんな彼女の膝の上には、でっぷりと肥えた黒い毛玉が鎮座している。
モジャモジャの黒毛に埋もれた金色の瞳が、ロイのすぐ隣、空間に浮遊するナナミを真っ直ぐに射抜いていた。
『この毛玉、妙ね。さっきから私と目が合っている気がするわ。飼い主に似て勘が鋭いのかしら』
ロイの目には、ナナミと黒猫が互いに火花を散らし、不可視の領域で睨み合っているように見えた。
「ミコチャン……その猫……前は飼ってなかったよな?」
「そうじゃそうじゃ、紹介がまだじゃの。じゃーん、天使姫ちゃんじゃ!」
「は?なんて……?」
「だからぁ!“えんじぇるぷりんせす”ちゃんじゃ!」
ミコトはロイの目前まで、黒い塊を持ち上げて見せた。
重力に従って垂れ下がる豊かな肉。持ち上げるミコトの腕が、重みに耐えかねてプルプルと震えている。
それでも黒猫の視線はナナミに固定されたままだ。
大層ご立派な名を冠した黒猫は、「フンス」と鼻息を一つ吐き出し、己の気高さを誇示するように胸を張る。
ロイは思わず、ポケットの中にあるピィの卵を、壊さないよう優しく握りしめた。
「なんじゃ?さっきから何もない空間を見て……?幽霊でも見えておるのか?」
「は、はは……まさか……」
「こいつ、実は少し前にルミーナ王国への道のりで拾ったんだ。ミコトの手のひらよりもちっぽけで死にかけてたのに、気がついたらこんなにでっかくなっちまった。あと一年もすれば虎くらいの大きさになるかもしれねえ!」
「愛いやつじゃ。更に大きくなっても、ワシにとってはずっと子猫のまんまじゃがの」
「ただの猫なら、それ以上は大きくならないんじゃ……」
親バカぶりを露呈する二人は、黒猫を挟んで頬擦りを始めた。
それは魔王を討ち果たし、何としても守り抜きたかった、穏やかで幸福な日常の具現化そのものだ。
本来ならば微笑ましく眺めるべき場面。なのに、ロイの胸にはチクリと棘が刺さったような、疼きに似た痛みが走った。
未来へと確かな歩みを進める、番いの姿。
翻って、自分はどうだ。
気づきかけていた心の欠落に蓋をするように、ロイは静かに睫毛を伏せた。
***
その後、ナックが師範を務める道場へ足を運ぶ。
板張りの床を踏み鳴らす音、子供たちの気合いの入った掛け声。
中を覗けば、揃いの道着を纏った小さな剣士たちが、伸びやかに木剣を振るっていた。
かつてロイが自国の兵団で目にした、血反吐を吐くような凄惨な訓練とは違う。
そこにあるのは、瑞々しく健やかな「生命」の息吹だった。
「あ、師範だ!」
「師範ー!手合わせしてよ」
「その人だぁれー?」
あっという間に子供たちの人だかりに囲まれる。
ナックの逞しい腕にぶら下がる子。ロイの異国の衣服を珍しそうに観察し、裾を引っ張る子。
「いいか、落ち着いて聞けよ。こいつは魔王を倒したあの伝説の男……勇者だ……!」
「ええ!本当に?」
「本当だ!灰の瞳だ!」
「すごいすごい!サインちょーだい!」
「わ、ちょ……」
屈託のない尊敬と憧憬の眼差し。
子供たちにとって、ロイは既に完成された物語の中の英雄なのだ。
その無垢な輝きに圧されそうになりながらも、ロイは誘われるまま木剣を握った。
共に鍛錬しようとせがむ幼い剣士たちと打ち合う中、心地よい汗が全身を伝い落ちてゆく。
日が暮れる頃には、心身ともに清々しい疲労感に包まれていた。
「たっぷり汗をかいたようじゃのー。では、お楽しみのあの時間じゃ!」
湯気が立ち上る露天風呂。
石造りの縁に頭を預け、湯船に身を沈めれば、熱がじわりと五臓六腑にまで染み渡る。
ぼんやりと見上げる夜空は、かつての旅路で仰いだものと同じ星月のはずなのに、何故か違って見える。
ツクヨの国が提供してくれる、行き届いたもてなし。
その静寂の中で、思考は抗いようもなく過去へと回帰していった。
ーー『私のこと、怖い?』ーー
出会って間もない頃、問いかけてきた彼女の声。
記憶の中の彼女の輪郭はあまりに鮮明で、共に旅に出た幻影の姿もまた、鮮やかさを増していく。
このままの状態で、本当にナナミとお別れをすることなどできるのか。
本当の意味で自分を取り戻せるのか。
星も見えない漆黒の夜空に、ロイは長く、重い息を吐き出した。
客室に戻ると、珍しく狼狽するナナミの姿があった。
黒い毛玉……天使姫がピィの卵を奪い取り、フサフサの頭を卵の上にのせ、ナナミのすぐ傍で眠りについているのだ。
『ロイ……!やっと戻ってきてくれたのね?この毛玉がピィの卵を奪って、丸まってゴロゴロ威嚇しているの!』
普段の冷静さを欠き、わたわたと身振りを交えて訴える。
だが、猫の喉から響いているのは威嚇の唸りではない。満足げに鳴らされる心地よいゴロゴロ音だ。
「この音は、嬉しい時に出すんだよ。ピィの卵が温かくて気持ちいいんだろうな。……でも、これは俺の大事な相棒なんだ。返してくれるな?」
「んなぁ〜」
『そう……食べてしまうんじゃないかとハラハラしたわ』
恨めしそうにひとつ鳴くと、天使姫は「仕方ねぇぜ」とでも言いたげに大あくびをした。
前足を伸ばして身を起こし、その場を譲る。
卵が手元に戻ると、ナナミはようやく安堵の表情を浮かべた。
刹那、部屋を仕切る襖が音もなく滑り開く。
「おや、天使姫ちゃん、こんな所におったのか。もう寝る時間じゃぞ」
「ぁぁあーお」
心得たもので、黒猫は大人しくミコトの待つ寝床へと歩み去った。
利口な振る舞いに感心して見送るロイだったが、襖の隙間からこちらを覗く影は消えない。
「のう、ワシのお願いを一個聞いて欲しいんじゃ〜」
片手を頬に添え、恥じらうように身体をくねらせながら、ミコトが甘ったるい声を出す。
勘でしかないが、彼女がこうした態度を取る時は、大抵ろくでもない企みがある。
ロイは警戒からこめかみを掻きつつ、「なんだ?」と短く返答した。
「主のそのみっともない髪を切らせろ」
甘えの欠片も消失した、地を這うような重低音。
瞬間、ミコトの背後に隠されていた手が閃き、鈍色の光が走った。
握られているのは、巨大な裁ち鋏。
「ショキン」という冷たい金属音が、夜の空気を鋭く切り裂いた。
「ひっ」
ロイの喉が、本能的な恐怖に引きつった。
***
月明かりの下、頼りになるのは庭の灯篭と、縁側に置かれた行燈の光のみ。
幻想的な橙色の揺らめきに包まれ、ロイは縁側に腰を下ろし、大人しくミコトに頭を預けていた。
ショキン、ショキン。
静寂に沈んだ庭園に、鋏が髪を断つ音だけが、小気味よいリズムを刻む。
「まったく、主は自覚が足りぬ。アストリアを救った勇者じゃぞ。希望の象徴である主は、民衆の良き模範でなければ。身なりをキチンとせずにどうする!」
「はは、最近は鏡を見る機会もなくて」
ミコトの説教は、長いこと続いた。
旅の間、邪魔になれば伝説の剣で適当に削ぎ落としていた蒼い髪。
誰かの手によって丁寧に整えられる感触は、いつ以来だろうか。
冷たい刃が首筋を掠めるたび、心に溜まっていた重たい何かが削ぎ落とされていくような、不思議な感覚。
はらり、はらりと、蒼い髪の束が足元に降り積もる。
ナナミは少し離れた場所で膝を抱え、不服そうにその光景を見守っていた。
「のう、あの小娘は……最期になんと言っていた?」
唐突な問いに、ロイは朧げな記憶の糸を辿った。
「……俺の覚えている中でミコチャンの話題は、“友達になっておけばよかった”だった。もっと普通の女の子がやる遊びみたいなことをしたかったって……」
「……」
ショキン。
一際高く響いた音とともに、ミコトの手が止まった。
「ミコ、チャン?」
「あ、ああ、切りすぎてなどいないぞ!全く、だからワシと友達になっておけと言ったのに。やはり大バカ者じゃのーあの小娘は……!」
『誰が大バカですって?聞こえているわよ!』
ショキン、ショキン。
再び髪を切る音が再開されるが、そのリズムは先ほどよりも僅かに速く、乱れているように感じられた。
「しかしじゃな、やはりあの小娘の起こす奇跡は素晴らしかった。あの小娘でなければ主のことは救えなかった。今頃廃人になっていてもおかしくないほどじゃった。こうしてまた旅に出れることは、文字通り奇跡かもしれぬ」
「本当に、ナナミには感謝しきれないよ。返すあてもない」
行燈の橙色の光が、ロイの瞳の中でゆらゆらと揺れる。
寂寥感が伝播したのか、ミコトもまた、ロイが見つめる虚空の一点に視線を落とした。
ーー『どうして……死者は、帰ってこないのかしら』ーー
かつて彼女が抱いたその問い。答えは、見つかったのだろうか。
幻影のナナミは煽るように『残念、そこにはいないわ。ここよ』と目の前で手を振るが、生者には届かない。
やがてミコトは深く、長い吐息を漏らし、最後の一太刀を入れた。
「ならば、取っておくがよい。たくさん。愛しいも、悲しいも、切ないも、怖いも。たくさんこの旅で触れてくるが良い。もちろん、そこの魂のガイドもじゃ。沢山の縁に触れ、主とあの魔女、いいや主ら皆で救った世界を見てきなさい」
「……ピィも」
「そうじゃ。生きたいから生まれてきたんじゃろう?」
ミコトの人差し指が、ロイの膝にあるピィの卵をツンと突いた。
暗がりの中でも、はっきりと視認できた。
指先が触れた瞬間、卵が呼応するようにドクンと赤く脈打ったのだ。
初めて目の当たりにする、新しい生命の律動。
ロイは驚きに目を丸くした。
「そら、出来た。暗くてちょーーっとばかし切りすぎたかもしれぬが、そこはご愛嬌じゃ〜!」
「ミ、ミコチャン?!なんかめっちゃスースーするぞ!前髪とか、これ!あるのか?」
「あるある、ちゃんとある。どれ、しっかり顔を見せてみよ。……うむ、美しい灰の瞳じゃ。ワシの見立て通り、髪を整えたらだいぶ精悍さを取り戻したぞ!」
無遠慮に両頬をむにゅりと掴まれ、口が「う」の形になる。
なんとも間抜けな顔を晒しているはずなのに、ミコトは嬉しそうに八重歯を剥き出して笑った。
だが満開の花のような笑顔は、やがて陽が陰るように、静かで悲しい表情へと移り変わる。
「私も、会いたいと思うよ。主と同じ気持ちじゃな」
「……」
夜の静寂に溶けて消えてしまいそうな、密やかな独り言。
ロイは言葉を返すことができなかった。
同じように悲しんでほしくなかったと言えば、それは嘘になる。
ただ、誰もが目まぐるしい日常へと戻っていく中で。
彼女が生きた証を、軌跡を、誰かが忘れずにいてくれること。それが、ただ嬉しくて、狂おしいほどに切なかった。
***
数日が過ぎ、ロイはツクヨの国を発つ朝を迎えた。
短い滞在であったが、多くの人と言葉を交わし、様々な感情の欠片を心に拾い集めた。
ナックとミコトが並んで見送る中、ロイは背嚢を背負い直す。
「次はノルディアに行くのじゃろ?どれ、ネイシュカにもこの土産を渡してやってくれ。あやつはこれが好きらしくての」
ずしりと手渡された荷物の重みに、ロイは思わずよろめいた。
「重っ!……分かったよ。何から何まで本当にいつもありがとう。ミコチャン。ナックも。平和になったとはいえ、あんまり家を留守にするなよ?」
「がはは!なーんも言えねえ!まぁ、ロイも気をつけてな!またいつか一緒に旅をしようぜ!」
「俺の話は聞いてたか!?」
春の麗らかな陽光の下、土を踏み締める音がひとつ、またひとつと遠ざかる。
慰藉の旅の終着点は、まだ見えない。
何を得て、どこへ辿り着くのか、輪郭すらまだ掴めていないかもしれない。
けれど。
『ツクヨの国の温泉はどうだった?』
隣を歩く彼女が、楽しげに問いかけてくる。
「やっぱり、温泉はいいな」
髪を短く整えたせいか、首筋を撫でる風が、少しだけくすぐったい。
優しい幻影も、胸の奥に燻る痛みも、すべてを道連れにして進もう。
降り注ぐ光が眩しい、新しい旅立ちの朝だった。




