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ruth story  作者: Cy


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10-3「緑の国」



逃げるように辿り着いた借家の戸を、背後からの追跡を断つように力任せに閉ざした。

乾いた木材が悲鳴を上げ、建付けの悪い戸が激しく震える。

肺腑はいふを焼くような熱い吐息。全力で疾走した代償として、荒い呼吸が静寂の室内に虚しく響き渡った。

これで、あの不可解な幻影は振り切ったはずだ。

ロイは膝に手をつき、床に滴り落ちる汗を見つめながら、ようやく顔を上げた。


『ここがロイの家?あまり物を置かない主義なのね。クロエの足の踏み場もないほど物が溢れた部屋とは大違いだわ』


「うわぁぁぁぁあああ!!?」


心臓が跳ね上がり、情けない絶叫が喉を突き抜けた。

部屋の真ん中、最初からそこに居座っていたかのように半透明の少女が当然の顔で佇んでいる。

ライラック色の瞳が、殺風景な室内を物珍しそうに眺めていた。


「なな、な、なんで……お前、今更……」


『あら、やっとお喋りをする気になったの?よくもさっきは私の呼びかけをことごとく黙殺して、いないものとして扱ってくれたわね?』


都合よく脳内で再生されているはずの幻影は、ロイの内心の葛藤までは読み取らないらしい。

憤慨したように腕を組み、詰め寄ってくる視線には、かつての彼女が持っていた特有の気迫が宿っていた。

ここで明確な回答を示さなければ、永遠にこの追及は終わらない。そんな予感がロイを戦慄わななかせた。


「だってお前は……俺の、都合のいい……」


『都合のいい?なんなの、言いかけの言葉を飲み込まないでちょうだい』


「……」


例え精神の失調が生み出した虚像であっても、目の前の彼女に向かって「自分の欠落した心が作り出した妄想だ」とは、どうしても口にできなかった。

壊れた魂が見せる、あまりにも残酷で美しい白昼夢。

それを否定することは、彼女の存在そのものを、この手で二度殺すことに等しい気がした。


『ロイ。私はもう、消え去るべき過去になってしまったのかしら』


寂しげに伏せられた睫毛まつげ

溶けるように部屋に響いた一言が、ロイの理性を粉々に砕いた。


「そんなはずないだろ!!!!!」


鼓膜を震わせる絶叫。

『…………』


「そんなはず、あるわけないだろ……」


ナナミ本人であっても決して許容できない言葉だった。

消えてほしいなどと、一瞬たりとも願ったことはない。

過去の遺物として整理できるほど、ロイの心は強靭ではなかった。

傷ついたように自分を見上げる透明な瞳。憂う眼差しに、心臓を素手で握り潰されるような痛みが走る。


『じゃあ、もう少しだけあなたの傍にいてもいい?』


「あぁ、もう!分かったよ、好きにしろ!……けど、他の人にお前の姿は見えないみたいなんだ。人がいる場所では、話せない。……また俺がおかしくなったと思われて、治癒なんてされたら、ナナミのことが見えなくなるんだろ」


『……分かったわ。私たち二人だけの秘密よ』


唇に立てられた半透明の人差し指。

ロイは何も言い返せず、曖昧な苦渋を滲ませたまま、ただ深くうつむくことしかできなかった。


***


それから、幻影の魔女との奇妙な共同生活が始まった。

朝、水の冷たさに肩を竦めるロイの隣で彼女が笑い、掃除をサボろうとすればライラック色の瞳がジロリと彼を射抜く。

それは、存外に悪くない居心地をロイにもたらした。


『私の分の夕食も用意してくれたの?』


「……独りで食べるのは味気ないし」


食卓に並ぶのは、以前の彼なら考えもしなかった温かな献立だ。

湯気を立てるスープからはローズマリーの香りが立ち上り、瑞々しい葉物と、焦げ目のついた肉団子が皿を彩る。

“誰か”と共に食卓を囲むことが、これほどまでに料理の輪郭を鮮明にするものだとは。

久しく忘れていた「味」という感覚が、喉を通り抜けるたびに、凍てついた心を微かに融かしていった。





『わぁ、可愛い。ピィの素敵な寝所ね』


「有り合わせで作っただけだよ」


『きっとピィも喜んでいるはずよ。ね、ピィ。早く目を覚まして。あなたにも、早く会いたいわ』


窓辺に置かれた卵を覗き込む彼女の横顔。

逆光に透けるシルエットがあまりに美しく、ロイは知らず知らずのうちに、欠けた心が満たされていくような錯覚に陥る。

ナナミはもう、この世のどこにもいない。

なのに、確かにここにいる。

矛盾した幸福が、毒のようにロイの精神をゆっくりと、確実に浸食していった。


「幸せな狂気」は、夜になっても彼を離さない。






「なぁ、流石にこれはマズいと思うんだが」


『なぜ?クロエの部屋に泊まった時も、同じベッドで寝たのよ』


「クロエは女で、俺は男なんだよ……」


『……?みんなで一つ屋根の下、雑魚寝をしていたでしょう?シルリアが泊まった時だって、一緒に寝なかったの?』


「同じベッドでは寝ない!」


『いけないことなの?私に、冷たい床の上で寝ろと?』


「じゃあ俺が別のところで『それはよくないわ。疲れが取れないもの』」


ーーどうせ、触れられない存在だというのに。

狭いベッドの上での攻防は、思いのほか長引いた。

彼女は頑として譲らず、結局、ロイが折れる形で背中合わせに横たわる。

触れるか触れないか、いや、物理的な接触など存在しないはずの距離。

だというのに、背後から彼女の確かな温もり。……いや、そうであってほしいと願う気配。

彼女が生きてそこにいる感じがして、心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響く。

信じてはいけないと理性が警鐘を鳴らし、信じたいという心が狂おしく叫ぶ。

どうか目が覚めた時、この幻影が消えていませんように。

そうして重くなるまぶたが、あの日々と同じ、抗いがたい眠りへと彼を誘う。





***


翌朝、窓から差し込む陽光がロイの頬を撫でた。


『起きて!ロイ。とってもいい天気よ?お出かけしましょう?早くしないと、お昼を過ぎてしまうわ』


「ん、あ……」


覚醒の瞬間、隣に彼女がいてくれたことに安堵する自分がいた。

色彩を失っていたはずの朝が、彼女の言葉一つで鮮やかに色づいて見える。

ロイは身支度を整え、彼女に促されるまま家を出た。


『どこへ行く?あなたが生まれ育った故郷もいいわね!』



向かったのは、ティアーシャ村。

かつて魔物に滅ぼされ、今は風化しつつある瓦礫の山となった場所だ。

きっと彼女は、面影だけでもロイの原風景を辿ってみたいのだろう。

ロイはバスケットに詰められたフルーツとサンドイッチを抱え、腰に伝説の剣を帯びた。

旅というよりはピクニックのような道中だが、ロイは彼女の弾むような歩調に合わせ、ゆっくりと歩を進める。


『こうしていると、みんなで旅をしていた頃を思い出すわね』


「そうだな」


野に咲く名もなき花が風に揺れ、遠くで鳥のさえずりが聞こえる。

かつての凄惨な戦場も、今は穏やかな自然に飲み込まれようとしていた。

そんな光景を眺めながら、ナナミはふと足を止め、空を見上げた。


『でもね、私思うの。ロイはきっとまた旅に出るわ。それで、たくさんの人を救うの。あなたにはそういう生き方が似合っているわ』


「……俺一人でかよ」


『一人でもよ。そうしたら、またすぐに心から笑えるようになるわ』


「そんな未来、いらない。俺一人で何が出来るんだよ。みんなと……お前がいない世界で歩くことに、何の意味があるんだ」


ロイの絞り出すような呟きに、ナナミはほんの少し、悲しげに目を細めた。

ありし日の頃見た面影が重なる。幻影のはずなのに。あまりにも人間らしくて、ロイの胸を締め付ける。


『それでも、進むのよ。だってあなたは“勇者ロイ”だから』


呆れたように、ロイは自嘲を漏らす。

「もう、勇者ごっこは終わったんだ」


『…………』


沈黙。

ロイの中に冷ややかな違和感が芽生えた。


今くれた言葉達は“ナナミ”の言葉ではない。

彼女を失ったという事実から目を逸らしきれない、自分の心が作り上げた「理想の彼女」が語る、都合の良い激励に過ぎない。


よくない。今日で終わりにしよう。

そう思うたびに、底なしの沼に足を取られるように、執着へと沈んでゆく。

一日が過ぎるごとに、焦燥と耽溺たんできが入り混じり、境界線が曖昧になる。

これ以上は、戻れなくなる。

いつか、この幻影さえ消えてしまった時、自分の心は一体どうなってしまうのだろう。

粉々に砕け、二度と修復できない虚無に堕ちるのではないか。




計り知れない恐怖が、ロイをある場所へと突き動かした。


***






「……それで、あたしの元へ訪ねて来てくれたんだね。突然真っ青な顔をして押しかけてくるから、何事かと思っちゃったじゃん」


ルミーナ王国の海底神殿。

礼拝堂で、巫女のアリアはいつものように屈託のない笑みを浮かべていた。


「本当、迷惑をかけ通しですまない」


ロイは自分だけにしか見えない「彼女」との生活を、絞り出すように語った。

アリアは遮ることなく静かに聞き遂げた。


「ううん。それで、今はナナミちゃんもここにいるの?」


「……いや。あいつはカナヅチだから。海の中の神殿なら、ついてこないと思って。……案の定、入口で困った顔をして立ち止まってたよ」


「そっか」


アリアの海のように青い瞳が、ロイの疲れ切った顔を見つめる。

「どうせ幻覚なんだ。俺の魂は、まだ壊れたままなんだろう。頼む、アリア。俺を……現実へ引き戻してくれ。取り返しのつくうちに」

無様に助けを乞う勇者。

頭上には深い海を透過した青い陽光が降り注ぎ、聖堂内を相変わらず幻想的な蒼へと染め上げる。


「話してくれてありがとう、ロイ君。でもね、君はおかしくなんてなっていないよ。むしろ、ゆっくりと確実に治りかけてるんだってば」


「……治ってる?幻が見えるのにか?」


「ナナミちゃんは、最後の最期まで君のことが心配でたまらなかったんだね」


アリアの声が、聖堂の高い天井に反響する。

彼女は、かつてナナミがロイに施した「包跡ほうせき」の真実を語り始めた。

肉体から剥離しかけた魂を繋ぎ止めるため、ナナミはロイの心と身体を、例えるならぐるぐる巻きに縛り上げたのだ。

彼に幸せな夢を見させ続けることで、意識が現世からこぼれ落ちないように。

本来、魂が自力で脈動を始めるまでの応急処置で、一か八か、かなりの荒技だ。

彼女の処置は魂の傷口を保護する「包帯」の役割を果たしていた。


「今、君が感じてる痛みはね、がんじがらめに固定されていた心が、元の形に戻ろうとしてるからなの。包帯を巻いたままじゃ、いつまでも傷は治らないように、心も魂も同じなの。ナナミちゃんはロイ君に、自分の手で包帯を解かせるために、最後の仕掛けを残したんだよ」


「最後の、仕掛け……」


「そう。君を救うための魔法のろいを、もう一つかけた」


ロイの目から、せきを切ったように涙が溢れ出した。

いなくなって尚、彼女の優しさが毒のように全身を巡る。

「呪い」とは、これほどまでに重苦しく、尊いものなのか。

あいつは、たった一人でこの想いを抱えたまま、塵となって消えたというのか。


ーー「そんな未来、いらない。俺一人で何が出来るんだよ。みんなと……お前がいない世界で歩くことに、何の意味があるんだ」ーー

そこまでしてまで、自分を救おうとしてくれた彼女に、なんて事を言ってしまったのだろう。

後悔の念が涙となってとめどなく流れ行く。



「その魔法は、簡単には解けないなぁ。大切に、大切に紐解くように、他の誰でもない君自身がほどいてあげなきゃいけないんだよ」


アリアがロイの肩をそっと叩いた。

「完全に解けた時、君の魂は本当の輝きを取り戻せる。……あたしにできるのは、ロイ君の背中をちょっとだけ押すことくらいかな」


ゴォーン、ゴォーン……

聖堂に夕刻を告げる鐘の音が響き渡った。

ステンドグラスに目を向け、空から降る「言葉」を聴いたアリアは、ハッと目を見開いた。

彼女は巫女としての居住まいを正し、勇者ロイと真っ直ぐに向き合った。


「“勇者”ロイに、女神エデルから神託を下します。……慰藉いしゃの旅に出なさい」


「慰藉、の旅……」


「そう。心のわだかまりを一つずつ解きほぐして、彼女のいない世界を、自分の足で歩き直すための巡礼。……行っておいで、ロイ君」


ロイは震える手で涙を拭い、深く、深く頷いた。


***






その日の夜。

ルミーナ王国の繁華街に軒を連ねる『お魚亭』は、仕事の疲れを酒で洗い流そうとする人々で溢れ返っていた。

店内に充満するのは、喧噪という名の熱気と、炭火の上で脂を弾けさせながら焼ける魚の香ばしい匂い。食欲をそそる煙が、琥珀色の灯りに照らされ揺らめいている。


「クロエ、こっち」


「シルリア、お誘いありがとう。待たせちゃったわね」


雑踏を縫って現れたクロエに、すでにエールのジョッキを半分ほど空けていたシルリアが手を振る。

騎士団の制服を脱ぎ、私服に着替えたクロエは、安堵の息と共に椅子へ腰を下ろした。


「急にどうしたの?大事な話があるって……あ、すみません、エールを一つ!」


「実は、ロイのことなんだけど……もう一人呼んでるから、ちょっと待って」


シルリアが言いかけた時だった。

カランコロン、と入り口のドアベルがけたたましく鳴り響き、勢いよく戸が開け放たれる。


「遅れてごめーん!シル!クロエちゃん!久しぶり!」


まるで春の嵐のような勢いで現れたのは、アリアだった。

聖職者としての威厳など微塵も感じさせない、膝丈の軽やかなワンピース姿。どこからどう見ても、街に繰り出した快活な娘にしか見えない。


「もう一人って、アリアのことだったのね!元気にしてた?あたしも今来たとこよ」


「うん、もう超元気!二人に会えて嬉しい〜!今日は飲んじゃお!すいませーん、エールもう一つ!あとお魚亭名物のおまかせ煮物と〜、タコ焼き!」


アリアは無邪気にクロエの背中へ抱きつくと、その柔らかな頬をクロエの頭にむにゅりと擦り付けた。甘えるような仕草に、クロエが目を優しく細める。


「アリア……一応、巫女なんだから。禁欲とかは大丈夫なの?」


「大丈夫大丈夫!女神エデルも『たまには羽目を外しなよ』ってきっと言ってるし。健全な魂は健全な肉体に宿るってね!アルコールは穢れを払うともいうし!」


屈託のない、鈴を転がすような笑い声。

シルリアも釣られて苦笑し、肩をすくめる。

やがて運ばれてきたキンキンに冷えたジョッキが高らかにぶつかり合い、黄金色の液体が波打った。喉を潤した後、シルリアは真剣な眼差しでグラスを置いた。


「それで、ロイのことなんだけど。この前会った時、何だか妙な空気を感じて……。以前よりも影がさしているというか、薄ら寒い違和感を覚えたんだ。一度、アリアに診てもらった方がいいかと思って」


「そう?この前会った時にはそんなこと思わなかったけど……まだ完璧に元通りって訳じゃなさそうだし」


「あつつ……ふー。あー、ロイ君なら今日、会いに来たよ」


出来立てのタコ焼きを頬張り、ハフハフと熱い息を吐きながら、アリアがあっけらかんと告げた。

なんて事なさそうに軽く告げられた事実と内容の重さのギャップに、二人の視線が鋭く突き刺さる。


「そ、それで……?ロイは何か言っていたの?」


「それが……神託が出てね、明日からまた世界を巡る旅に出ることになっちゃったんだ」


「「えーーーー!?」」


驚愕の声が店内の喧噪を切り裂き、周囲の客たちの視線が一斉に三人のテーブルへと集まった。

慌てて口元を押さえ、声を潜めたクロエが、アリアの肩を揺さぶる。


「何年か振りに神託が降りたって王宮が騒がしかったけど……まさかロイのことだったなんて」


「なんで、そんな大事なことを今まで黙っていたのよ!」


「今日会った時に言えばいいかなって思って……! あ、煮物だ〜!おいしそ〜!」


「煮物を食べてる場合じゃないよ!まさか一人で行くって……?魔獣はいないとはいえ、今度は盗賊が出るって噂も聞くし……」


「ん、まあ、神託だしね。でも、今のロイ君なら、きっと大丈夫だよ」


ソースのついた口元を拭いもせず、箸を伸ばそうとするアリア。

事の重大さを噛み締めたクロエは、決然と立ち上がった。


「こうしちゃいられないわ!すみません、お会計!アリア、悪いけど今夜はあんたんちに泊めてもらうわよ!明日、朝イチで港へ向かうから!」


「あ、あれぇー!まだ煮物一口も食べてないのにぃ〜〜!あーん、あたしの煮物ぉ〜」


後ろ髪を引かれるアリアの悲鳴と、クロエの叱咤。

騒がしくも温かな夜が、ルミーナの街に更けていった。






***


翌朝。

ルミーナの港は、朝靄あさもやと独特の潮の香りに包まれていた。

空と海が溶け合うような淡い青の中、出航を控えた船のタラップの前で、ロイは三人の女性たちに行手を阻まれていた。


「え、お前ら……なんでここに……」


「まさか、本当に黙って発つ気だったとはね!この薄情者!」


「急すぎて驚いたよ。」

シルリアが呆れたように腰に手を当てる。


「……神託に従ったまでだよ。家にいても、何もする事がないしな」


ロイは視線を逸らし、バツが悪そうに頭を掻いた。

そんな彼の態度を見透かすように、クロエが寂しげに微笑む。


「はぁ。私たちも仕事があるからついてはいけないけれど……せめて相談くらいしてくれてもよかったじゃない」


そう言って、ずっしりと重みのある麻袋をロイの胸に押し付けた。

中には、ロエベへの近況報告の手紙や、シルリアと共に一晩かけて書き綴ったナナミへの鎮魂の手紙、旅路を案じた保存食や薬草が詰め込まれている。

腕にかかる重みは、彼女たちの想いの重さそのものだった。


「あたしからは、特別なお祈りを。無事にロイ君が旅を終えられますように!」


アリアがロイの手を両手でギュッと包み込む。

柔らかな掌から伝わる熱が、冷え切っていたロイの迷いを少しだけ融かした気がした。


「まずはツクヨの国へ向かうの?陸路じゃないんだね」


「あぁ。途中まで航路でショートカットする予定だ」


「船酔いに弱いくせに、珍しいわね」とクロエが小声で呟く。

普段のロイなら、可能な限り地面を踏みしめる陸路を選ぶはずだ。

浮かぶ疑問を三人は口にしなかったが、ロイの心中には、一つの期待と不安が同居していた。



「じゃあ、行ってくる」


銅鑼ドラの音が響き、船がゆっくりと岸を離れ始める。

岸壁で涙ながらに手を振る三人の姿。


「行っちゃったね、ロイ君。クロエちゃん本当はついて行きたかったんじゃない?昨日泣きながら手紙書いてたし」


「……そりゃ、心配だからね!でも、ロイにはロイの宿命がある。あたしはあたしの責務を全うしなきゃいけないから。出来ることは無事を祈るくらいよ」


「ルミーナの未来は安泰だね〜。こんなに頼もしくて可愛い女騎士が兵団を支えているんだもん!」


「さ、そろそろ王城に向かわないと。訓練に間に合わなくなっちゃう」








霧の中に滲んでいく光景を、ロイは甲板の手すりに寄りかかり、見えなくなるまでじっと見つめていた。


『みんなを誘わないでよかったの?』


不意に隣から響いた声に、ロイは小さく苦笑した。

驚きはなかった。

海風にミルクチョコレート色の髪を靡かせ、彼女は楽しげに水平線の彼方を見つめていた。


「うん、俺一人でも旅に出るって決めたんだ。勇者ロイ……だからな」



ロイの言葉など聞き、少し照れくさそうに微笑むと彼女は海原を指差してはしゃいでいる。

ロイは、腰に帯びた伝説の剣の柄にそっと手を置いた。

色彩を取り戻し始めた視界の先に、未知なる旅路が広がっている。

それは、英雄としての凱旋ではない。

一人の男が「自分自身」と、そして「彼女」と向き合うための、静かな再出発だった。


白帆をいっぱいに膨らませた船は、朝陽に輝く海原を切り裂き、力強く滑り出していった。

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