10-2「透明」
ルミーナ王国へ帰還してからの時間は、色彩を失ったキャンバスの上を、ただ無機質に塗り潰していくような日々だった。
朝、微睡の境界線が融解し、覚醒が意識を現実へと引きずり戻す。
また夢を見ていた。
視界を占めるのは、熱を奪われた石造りの壁だ。
顔を洗う水は、冬の刃のように鋭く皮膚を突き刺し、麻痺した感覚に「生存」という事実を無理やり刻み込む。
朝食に並ぶのは、砂を噛むような固いパンと、井戸の底から汲み上げたばかりの無味乾燥な水。
魔王討伐の旅路、泥に塗れながら口にした干し肉の方が、よほど生命の拍動に近い味がした気がする。唾液で湿らせたパンを、ただ胃へと流し込む作業。滋養を摂るためではなく、欠陥だらけの肉体を維持するためだけに過ぎなかった。
かつて旅立ちの日に抱いていた、富への執着や権力への羨望。
英雄となった今、望めばすべてが手に入る。
国王からは伯爵位を提示され、貴族の列に加われと促されたが、ロイはそれを一片の迷いもなく辞退した。
現在、彼が身を寄せているのは、王都の片隅にひっそりと佇む古びた借家だ。
陽光すら遠慮がちにしか差し込まない、薄暗く埃の匂いが染み付いた一室。
本来ならば安らぎの場であるはずの我が家も、大切な存在を失った今、ただの空虚な箱へと成り果てていた。
「ピィ、行ってくるからな」
部屋の隅の小さな陽だまり。
藁の籠の中で、柔らかな綿のハンカチに包まれた真紅の卵へ声をかける。
返答はない。ただ、あの日から変わらぬ微かな熱が、布越しに掌を温める。
柔らかな微熱だけが、ロイの凍てついた心をほんのりと温めてくれた。
壁に掛けられた、数多の勲章が鈍く光る重厚なマントを羽織る。
真鍮の金具が重々しく噛み合い、肩に食い込むような質量が圧し掛かる。
救世主の象徴、英雄の証。そんな大仰な飾りも、この部屋に積もる塵芥と同程度の価値しか見出せなかった。
扉を開ければ、皮肉なほどに澄み渡った青天が広がっている。
寂寥感を煽るほどに深く、どこまでも吸い込まれそうな蒼穹。
石畳を打つ自らの足音を道連れに、王城へと歩みを進める。
辿り着いたのは、万華鏡のように花々が咲き乱れる王立庭園。
甘やかな芳香が鼻腔をくすぐる一角に、周囲の景観を傲慢に支配する黄金の像が建っていた。
『慈愛の魔女と金色の不死鳥』
台座に刻まれた仰々しい文字。
国王が、今は亡き「最後の魔女」の功績を自国の威光として飾るために、莫大な国費を投じて鋳造させたものだ。
純金で成形された魔女は、確かに工芸品として見事な出来映えだった。
しかし、慈愛に満ちた聖女のような表情は、ロイの知る彼女とは似ても似つかない。
ナナミという人物は、もっと捉えどころがなく、次に何を言い出すか、どんな突飛な行動に出るか予測もつかない、不思議な輝きを放っていたはずだ。
隣で翼を広げる鳳凰らしき像も、ピィと呼ぶにはあまりに猛々しすぎる。
あの丸っこい愛嬌も、不死鳥の時の気高さも、造形師の身勝手な解釈によって塗り潰されていた。
「このマーメイドパージュくらいの価値はあるかもしれないが……」
金ピカの虚像を見上げ、内心で自嘲する。
もし彼女がこれを見たら、何と言うだろう。
「悪趣味ね」と肩を竦めるか、あるいは「売ったら果たしていくらになるかしら」と、ライラック色の瞳を計算高く光らせるか。
実像とは程遠い黄金の塊。
それでも、ロイはここへ来ずにはいられない。
手に携えた季節の花束と、道すがら拾い集めた木の実を、黄金の足元へそっと供える。
毎日、欠かさず。
積み重なる花弁は、決して届くことのない贖罪。
永遠に閉ざされた愛の告白なのかもしれない。
「ナナミもピィも、この像よりずっと可愛かったけどな」
『あら、そう?生きている間に聞きたかったものね』
「……!??」
心臓が、肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がった。
狂おしいほどに焦がれ、血を吐く思いで渇望し続けた声。
鼓膜を震わせるのではなく、直接魂の深淵に響き渡るような、透明で瑞々しい残響。
戦慄しながら、声の主を探して視線を彷徨わせる。
黄金の像の傍ら。
降り注ぐ陽光を気怠げに透過させながら、半透明のナナミがそこに佇んでいた。
旅の装いそのままに、白いシャツに黒いベスト、膝丈のスカート。
ミルクチョコレート色の柔らかな髪を細い指先でかき上げる仕草まで、記憶の中の彼女そのものだ。
ロイの灰の瞳と視線がぶつかると、ライラック色の瞳が悪戯っぽく、慈しむように細められた。
『ロイ?どうしたの、そんなに驚いて』
喉が喘ぐように震える。
救いであり、呪縛でもある、最愛の魔女。
現世の理では、決して邂逅し得ない存在。
ーー「どうしても寂しいと言うのなら、幽霊になってでも会いにいくけれど」ーー
あの日、粒子となって霧散する直前に彼女が紡いだ、微かな約束。
彼女は本当に、幽霊となって戻ってきたのか。
自分の、この底なしの孤独が、彼女の魂を現世に繋ぎ止める楔となってしまったのか。
一瞬、熱い期待が胸を焼いたが、次の瞬間、ロイは峻烈な絶望と共に表情を硬化させた。
ナナミであるはずがない。
そんな甘美な奇跡が許されるはずがない。
これはきっと、修復しきれなかった魂のひび割れが見せる、救いのない幻影だ。
仮に、万が一にこれが真実だとしても、彼女をここに留めてはならない。
すべての重荷を降ろした彼女は、今頃女神エデルのの懐で安らかな眠りについていなければならないのだ。
認めてはならない。
応えてはならない。
これは、己の脆弱さが生み出した鏡像に過ぎないのだ。
ロイは奥歯を噛み締め、逃げるように踵を返した。
『ひどいわ。レディーを無視するなんて!』
背後から、不満を孕んだ声が追いすがってくる。
喜劇のような効果音が聞こえてきそうなほど大袈裟に、ショックを表現する表情。
半透明の彼女は重力から解き放たれたようにフワリと浮き上がり、ロイの背中をぴたりと追走する。
騎士団訓練所へと続く道中。
感覚を遮断し、見えず聞こえずを装い続けるが、饒舌な幻影は一向に口を閉じない。
『ねえ、ロイ。やっぱりこのお城、広すぎて迷ってしまうわね。一人で歩いたら確実に遭難する自信があるわ』
『あのお花、とっても綺麗だったわ。私の像に供えてくれたのね?ありがとう。……でも、あれは本当に私を模した像なの?何だか別人のような気がするのだけど』
『ちょっと、聞こえているはずよ?無視をしないでちょうだい!』
やはり記憶の中の彼女よりも、少しばかり饒舌すぎる気がする。
やはりこれは、蓄積された思慕が脳内で再構成した、都合の良い虚像なのだ。
やがて、鋼がぶつかり合う音と、男たちの咆哮が混じり合う訓練場へ至る。
砂埃が舞い、熱気が渦巻く広場の中心。
「全体、もうワンセット!!!」
「「「「はっ!!!」」」」
空気を物理的に震わせる、剃刀のような鋭利な号令。
第一近衛兵団ーー国の精鋭が集う頂点に立つのは、太陽の紅を溶かしたような褐色の髪を短く切り揃えた女騎士、シルリア・ユイリーシャ。
かつて、女という一点のみで正当な評価を拒まれ、唇を噛み締めていた彼女。
今や王国最強の剣を束ねる団長として、誰よりも峻厳に、誰よりも気高く君臨している。
「遅い!遅すぎる!ここが戦場ならとっくに死んでいるぞ!もう十セット追加だ!」
「「「「はっ!!」」」」
男たちの呻き声が重なる。
苛烈さは、かつてロイが見た第一近衛兵団の訓練と比にならない。
冷徹なまでの熱い指導を目撃し、ロイの背筋に冷たい戦慄が走った。
『すごいわ!シルリア、第一近衛兵団の団長になったのね!本当にかっこいいわ!』
背後で、幻影のナナミが喝采を送る。
シルリアの背を覆うマントには、二つの勲章が煌めいていた。
魔王討伐の旅を共にした七人に贈られた「聖光戦功勲」。
新たなる平和の礎を築いた功労者へ与えられる「神使の七魂」。
ロイのマントには、さらに二つの呪いのような輝きが加わっている。
アストリアの開闢以来、数えるほどしか授与されていない最高位の「永世聖騎」。
そして魔女と勇者の絆を象徴する、今代限りの特別な勲章「聖女神の双星」。
「双星」。
名の通り、分かち合うべき半身がいて初めて成立する勲章。
しかし片割れは、もう世界のどこにも存在しない。
死という不可逆な断絶の前では、どれほど高貴な勲章も冷え切った金属片に過ぎなかった。
虚無を握りしめるように掌を見つめ、ロイは人知れず吐息を漏らす。
「ロイ!来るなら一声掛けてよ、驚いた!そっち行くから待ってて」
「あ……」
気配を殺していたつもりだったが、希代の射手である彼女の視線から逃れることは叶わなかった。シルリアがこちらに気付き、凛とした笑みを浮かべて手を挙げる。
「全体、今のセットが終わり次第、小休憩とする!」
「た、助かった……命の恩人だ……」
団員たちの安堵が混じった溜息と共に、地獄の如き訓練が一時停止する。
シルリアが汗を拭いながら、弾むような足取りで歩み寄ってきた。
「調子はどう?」
「……まぁまぁだよ。シルリアの方こそ、絶好調みたいだな」
努めて平穏を装いながら、自らの背後を盗み見る。
半透明のナナミは、恋する乙女のような眼差しでシルリアを見つめていた。
『シルリア、また腕を上げたわね。あの剣捌き、女の私でも見惚れてしまうわ。』
シルリアの瞳には、ロイの背後で浮遊する彼女の姿は一切映っていない。
確信が、冷たく心を浸食する。やはり、これは自分だけの狂気なのだ。
「出歩けるようになったなら安心したよ。クロエには会った?」
「いや、まだ会ってない」
「ロイ!ロイではありませんこと?」
不意に、絹の滑るような甘やかな声が鼓膜を叩く。
豪奢なドレスの裾を揺らし、侍女を引き連れて現れたのはサザリ王女。
シルリアは即座に膝を突き、騎士の礼を執る。
ロイもまた、社交用の仮面を被り一礼した。
「いつわたくしに会いに来てくださるのかと、首を長くして待っておりましたのよ。お茶はいかが?もうお食事はお済み?」
不意に視界の端で、ナナミが不機嫌そうに頬を膨らませ、腕を組むのが見えた。
『……相変わらず、隙のない攻勢ね、あの王女様』
王女が「何か後ろにございまして?」と訝しげな視線を向ける。当然、そこには透明な大気が漂っているだけだ。
「いえ、結構です。これから予定がございますので」
「ねぇ、ロイ。次はいつ会いに来てくださるの?」
王女が距離を詰め、透かし彫りの扇子を広げて口元を秘した。
ロイだけに聞こえる、密やかな毒を孕んだ囁き。
「お父様も、わたくしたちの婚姻をいつにするのか、初孫の顔はまだかと、毎日せっ突いてくるのですわ」
背筋を氷の指が這うような感覚。
ロイは完璧な営業スマイルを張り付かせた。
心根は一滴の温度も持たぬまま。
「王女殿下、重々ご承知のはずです。自分は今、魂に欠陥を抱えた身。国を治める重責など、烏滸がましい限りです。ましてや自分は庶民なのですから。」
灰色の瞳が、陽光を跳ね除け、深淵のような冷徹さを湛える。
ロイなのにロイでないような気配に、シルリアの涼やかな瞳が一瞬丸くなる。
王女に対する礼節としては完璧なのに、どこか違う。
「まぁ!そんな弱気なこと。大丈夫ですわ、あなたはただ……」
「王女殿下!」
その時、甘ったるい停滞を切り裂くような、凛然たる声が響いた。
桃色の美しい髪を靡かせ、第三近衛兵団の制服を完璧に着こなしたクロエが姿を現した。背後には王女の脱走を許してしまったと思われる護衛の女騎士が、顔を青くして付き従っている。
「王城内とはいえ、護衛を撒いての行動は感心いたしません。これ以上続くようであれば、陛下に直訴せねばならなくなります!」
かつては王女の言いなりに、乱暴に扱われていた少女。
今や、王族の奔放さをも峻拒する、揺るぎない正義の執行者として立っていた。
『わぁ、クロエは第三近衛兵団の団長なのね!制服がとても似合っているわ。それに腰のリボンのアクセントがとっても素敵ね!』
歓喜に沸くナナミが、クロエの周囲を蝶のように舞う。
「見て、あのブーツの踵!」とはしゃぐ幻影に冷や汗を覚えつつも、クロエは眉根を寄せるばかりで、自らの鼻先を掠める幽霊の存在に微塵も気づいていない。
「く、クロエ。そう怒らないで。せっかくの美しい顔が台無しよ?」
「殿下の本日の予定は分刻みでございます。即刻戻りましょう。午前は帝国法学の講義、先生がお待ちです。午後は隣国の特使との接見、夜は宮廷詩人の講読……」
「ま、まぁ。多忙を極めますのね。ロイ、このお話はまた今度。……クロエ、少しは手心を加えてくれてもよろしくてよ?ちょっと気晴らしに散歩に出ただけじゃない……」
不満げに去りゆく王女の背を見送り、クロエがちらりとロイへ視線を投げた。
そして、去り際に背中で親指を立ててみせる。
「ここは食い止めた、早く行け」という、かつての戦友ならではの無言の合図。
「クロエも、忙しそうだな」
『でも、面倒見の良さは相変わらずね。安心したわ』
王城の影へと消えていく二人の背を眺めながら、幻影のナナミが穏やかに目を細めた。
微笑みとは言い難いナナミの笑みがあまりに生々しく、胸の奥の傷口がじくじくと疼き出す。
「ねえ、ロイ。今日の夕飯、一緒にどう?クロエも後で呼んでおくから。久しぶりにゆっくり話でもしようよ」
シルリアが、混じり気のない純粋な好意を向けてくる。
かつて、焚き火を囲み、貧しい食事を笑いながら分かち合った夢の時間。
戻りたいと、魂が悲鳴を上げる。
しかし、戻ることは許されない。
あの中に、彼女がいないという事実に、心が耐えられる保証などどこにもなかった。
「……悪い、シルリア。どうも最近、胃の調子が優れなくて。食欲がないんだ」
『まぁ、ロイ。見え透いた嘘ね。二人と久しぶりに食事を楽しんでくればいいのに。どうせ帰っても味のしないパンを齧るだけでしょう?』
宙に浮遊する半透明のナナミが、心配そうに顔を覗き込む。
透き通った指先が、ロイの頬に触れようとして音もなく、抵抗もなく、すり抜けた。
触覚の不在。
冷酷な現実を突きつけられ、ロイは思わず項垂れそうになるのを必死に堪えた。幻を見ていることを悟られてはならない。彼はた無理やり視線を逸らし、目の前のシルリアを直視した。
「本当に大丈夫?一度アリアに診てもらった方が……」
シルリアが、懸念を露わにして身を乗り出す。
「いや!本当に大丈夫だ!ただの、そう、食べ過ぎというか、そんな感じなんだ!また今度、必ず誘ってくれ!じゃあな!」
逃げるように翻身し、ロイは足早にその場を離脱した。
背後に残された、シルリアの困惑に満ちた視線と幻影のナナミが吐き出した、切なげな溜息の余韻。
「……ロイ」
独り残されたシルリアは、滴る汗を拭いながら、遠ざかる勇者の背影を見つめ続けていた。
世界を救った最強の男の背中は、あまりにも薄く、透明で。
今にも陽光に溶けて消えてしまいそうなほど、深い孤独に彩られていた。




