10-1「碧き追想」
ルミーナ王国、深海神殿。
重厚な海水に隔てられ、現世の喧騒が決して届かぬ静寂の聖域。
特別な許可を得た者のみが足を踏み入れることを許された空間にて、勇者ロイは空虚な灰の瞳を蒼いステンドグラスへと向けていた。
深海にまで差し込む光は、分厚い硝子を透過することで幾重にも屈折し、ゆらゆらと頼りない波紋を石畳に描く。
弱く淡い光彩が、彼の瞳を鬱蒼とした深海色へ染め上げていく。彼自身の心臓が冷たい海の底に置き去りにされているかのように。
隣には誰もいない。
ただ冷え切った空気と、深海特有の気を抜けば飲み込まれてしまいそうな重圧だけが肌に張り付く。
ロイは乾いた唇を開いた。
誰に聞かせるわけでもない。
あるいは、この空間のどこかに潜んでいるかもしれない幻影に向けてか。
曖昧な輪郭のまま漂う、覚えている限りの「真実」を、独り言のように語り始めた。
あの日、あの最果ての島で、ロイの身に起きた本当のことを。
***
世界が、燃え尽きた後の灰のように白く濁っていた。
息がうまくできなかった。
肺腑は破れた鞴のようにヒューヒューと嫌な音を奏で続け、呼吸をするたびに焼け付くような激痛が脳髄を駆け巡る。
血管を巡る血液がすべて鉛に変わってしまったかのような重たさに、指一本動かすことさえ叶わない。
マーメイドパージュを着けていたおかげで即死は免れたようだが、命の灯火が消えそうに揺らめいている感覚がわかった。
歪む視界の端、誰かが動く気配があった。
おぼつかない足取り。けれど、決して倒れようとはしない強い意志。そして、そっと自分に赤い玉を握らせてきた。
ナナミだ。
彼女を中心として、温かいのに哀しい光が波紋のように広がり、荒廃した世界を覆っていく。
生命の息吹。再生の産声。
神々しいほどに美しいはずなのに、ロイの心を奇妙な不安で締め付けた。
ふと、視界が遮られる。
同じ光を宿したライラックの瞳が、自分のことを心配そうに覗き込んでいた。
彼女は祈っていた。
何度も、何度も、何度も。
壊れかけた玩具を直そうとする子供のように、必死に、切実に。
唇が祈りを紡ぐたびに、眩い光が崩壊しかけたロイの肉体を包み込むが、意識は泥沼の底から浮上しない。
ぼんやりと、魂が肉体という檻から抜け出し、遥か上空から瀕死の自分たちを俯瞰しているような、奇妙な浮遊感だけがあった。
「ロイ、大丈夫。全て終わったのよ。心配しないで」
「……でも少し、疲れてしまったわね」
鼓膜を震わせる、優しい、優しい声。
ぬるま湯に浸かるように心地よい音色に、強張っていた神経が僅かに緩む。
頭を、柔らかい場所に預けられた。
彼女の膝の上だ。
朝焼けに染まりゆく美しい空を背景に、ナナミの顔が逆光で滲む。
空と同じ、ライラックの瞳だけが煌めいている。
冷たい手が、ロイの汗ばんだ額を、青い髪を、何度も何度も撫でる。
あまりの冷たさが、彼女に残された時間の少なさを雄弁に物語っていた。
ロイの魂は魔王との激戦により限界を超え、剥離しかけていた。
ナナミは気付いていたのだ。
自身の祈る力全てを注ぎ込み、傷ついた魂を繋ぎ止めようとするが、彼女に残された砂時計の砂は無情にも尽きようとしている。
運命の決断は、あまりにも非情であった。
魔法を過度に使うことにより呪いが進行してしまったナナミの肉体は、もはや人よりも魔族に近いものへと変質していた。
引いたように見えた呪痕も表面だけで、実は体の内部を根のように巣食っていたのだ。
魔王ゼロという魔族の「核」が消滅した今、魔獣や魔族と同様、彼女もまた世界の理によって排除され、塵となって消えゆく運命にある。
自身の崩壊は、もう止められない。
どんな高位の奇跡の祈りも、理の前では無力だった。
だから、彼女は決めた。
最期の魔法を、大切な人の魂を守るために使うことを。
「あなたは魂の傷が癒えるまで夢を見るのよ。とても幸せな夢」
指先から、甘やかな光が溢れ出す。
現実の苦痛を遮断する強固で優しい麻酔のような。
奇跡の力で眠りへと誘い、魔法の力で幻覚を見せると言う、決して交わらないはずの光と闇の二つをかけ合わせた、彼女にしか成し得ない究極の技。
応えようとしても、喉が痙攣するだけで言葉にならない。
そんなロイの焦燥をなだめるように、彼女は必死に語りかけ続ける。
今にも泣き出しそうな顔を、満面の笑顔で覆い隠して。
「なんでもいいのよ、夢の中ではあなたの願いが何でも叶うの。そうね……例えば、ツクヨの国で温泉に入り放題っていうのはどう?」
彼女の視線が、遥か東の空へ向けられる。
「あーあ、残念ね。ミコトと、ちゃんと友達になっておけば良かったわ。一緒にお団子を食べたり、恋の話をしたり……普通の女の子みたいに」
「ノルディア雪原国で、温かい暖炉を囲みながら、エールを飲んで美しい雪景色を見る夢でもいいわ」
北の空を想い、彼女は目を細める。
「あそこのオーロラは綺麗だったもの。凍える寒さの中で温かい毛布に包まって眠れたら、きっと素敵だったでしょうね」
「ナンバル=ムウで、大自然の揺り籠に抱かれて癒される夢もいいわね」
南の風を感じるように、髪が揺れる。
「きっとしばらくしたら、またピィが目覚めてくれるわ。騒がしい声で、あなたを笑わせてくれるはずよ」
「ルミーナ王国に帰って、王女様と結婚して、富と名声を手に入れてもいいのよ」
少しだけ、唇を尖らせて。
「……でも、あの女はあまりオススメしないわ。気が強そうだし、あなたを尻に敷くに決まってるもの。……いいえ、嘘よ。あなたが選ぶなら、誰だって祝福するわ」
「イル=シャル国で、未知の遺跡を冒険する夢もいいわね」
砂の国の熱気を懐かしむように。
「あら、これは私の願望かしら。責めないでちょうだい。もっと砂の書庫を読み漁っておきたかったのよ。あなたの知らない物語を沢山教えてあげたかった」
「偉業を果たした勇者様だもの、セレスティア聖教国で勲章をもらってもおかしくないわ」
聖なる輝きを思い浮かべて。
「かっこいい聖騎士になってみるのもいいんじゃない?白いマントを翻すあなたなんて、青い髪が映えて素敵だと思うの」
「ハナレア諸島のトワイライトカーニバルで、朝までダンスを踊るのもいいと思わない?」
西の海に沈む夕陽を背に。
「あなた、意外とダンスが好きなんだものね?今度こそ、足を踏まない子を選ぶといいわ」
ポロリ、と。
ロイの灰色の瞳から、一筋の雫が溢れ落ちた。
ナナミが語る夢は、どれもこれも眩しくて、楽しそうで。
けれど、全ての語り口が「彼女がそこにはいない」ことを前提としているようで。
自分だけが置いていかれる迷子のような心細さに、胸が張り裂けそうになる。
「私とっても幸せよ。あなたに出会えて、アストリアを救えて」
「沢山泣いて、沢山笑って……精一杯、これから先のあなたの物語を紡いでいってね」
動かない口で、空気を震わせる。
おいていくな。いかないでくれ。ひとりはいやだ。
声にならない絶叫は、喉の奥で虚しく消える。
ナナミは困ったように、聖母のように微笑むばかり。
「どうしても寂しいと言うのなら、幽霊になってでも会いにいくけれど」
彼女の輪郭が、光の粒子となってほどけ始める。
指先の感覚が、徐々に希薄になっていく。
「でも……叶うのなら」
彼女はゆっくりと顔を近づけ、ロイの額に最後の口づけを落とした。
羽毛が触れるよりも淡く、切ない感触。
「お願い、私のことは忘れ……」
風が吹いた。
言葉は途切れ、光の奔流にかき消される。
彼女の体があった場所には、もう誰もいない。
ただ、彼女が大切にしていた分厚い本が乾いた音を立てて草原に落ちただけ。
忘れて?忘れないで?
彼女は最期に、何と言ったのだろう。
その答えを聞く術は、もう永遠に失われてしまった。
意識が、白く塗りつぶされていく。
ナナミのかけた奇跡と魔法が発動し、ロイの精神を優しく、強制的に「幸福な夢」の繭へと閉じ込めていく。
***
そこから先の記憶は、深い霧の中にある飛び石のように断片的だ。
現実と夢の狭間で、幾つもの光景が明滅する。
仲間たちの叫び声。
駆け寄ってくるジーク、シルリア、クラリス、ナック、クロエ。
彼らの顔は涙と泥でぐしゃぐしゃで、必死にロイの名を呼んでいた気がする。
体を引きずられ、揺れる視界の中で、誰かが必死に励ましてくれていた気がする。
次に覚えているのは、黄昏色に染まったハナレア諸島のアルバの家。
巫女アルバの悲痛な面持ち。
「魂が剥がれかけている」
「応急処置は、きっとあの子がしたんだね……。本当にすごい子。でも彼を繋ぎ止めるには、常軌を逸した治癒の祈りが必要だ」
そんな会話が、水底から聞こえる音のようにくぐもって響く。
各国の巫女たちが異例にハナレア諸島に集まり、ロイを取り囲んで祈りを捧げている光景もあった。
彼女たちが奏でた祈歌は心地よく、ロイを更なる夢の深淵へと誘う。
ロイはずっと幸せな夢を見ていた。
ナナミが生きていて、隣で笑っていて、ピィが騒いで、仲間たちと馬鹿話をして。
痛みなど何一つない、黄金色の楽園。
時折、夢の裂け目から現実の激痛や、仲間たちの懸命な看病の様子が垣間見えたが、ロイの心は頑なに「目覚め」を拒絶していた。
しかし、時間は無慈悲に進む。
剥がれかけていた魂は、巫女たちの敬虔な祈りと仲間たちの献身、世界中の人々の祈りによって、やがて器へと定着し始めた。
肉体の傷が、魂の傷が、塞がっていくのと共に、ナナミがかけた「幸福な夢」の魔法も効力を失っていく。
残酷な覚醒の時。
瞼を開けた瞬間、色彩が失われた灰色の天井が目に映った。
隣には、誰もいない。
錯乱した。
喉が裂けんばかりに絶叫し、腕に刺されていた栄養剤を引き抜き暴れた。
「なんで夢から醒ました!」
「あっちにはナナミがいたんだ!」
「戻してくれ!俺をあの世界に戻してくれ!」
見舞いに来ていた聖女たちが悲鳴を上げ、押さえつけようとする屈強な体躯の村人たちを、衰えた体で跳ね飛ばす。
悲しい顔をしたまま微笑むアルバは、この世界に怯え狼狽える無様なロイを、決して止めようとしなかった。
ただ静かに、幼児のように泣き叫ぶ勇者の背中を、手でさすり続けた。
飛び出しかけていた魂を無理やり器に戻した副作用による、精神の崩壊。
魂と肉体の乖離。
ロイが「勇者ロイ」として正気を取り戻すには、それからさらに長い月日を要することとなる。
旅路を、逆から辿るような日々だった。
仲間たちに支えられ、ロイはぼんやりした意識のまま再び世界を巡った。
観光ではない。魂のリハビリテーションのための巡礼だ。
ハナレア諸島では、波の音を聞きながら、ちぎれた精神の糸を一本一本結び直した。
セレスティア聖教国では、高位神官たちによる浄化の儀式を受け、魂にこびりついた「死の匂い」を洗い流した。
イル=シャル国では、砂漠の熱風に吹かれながら、生の実感を肌に刻み込んだ。
ナンバル=ムウの大樹の下で、失われた生命の循環の歌を説かれ。
ノルディア雪原国の凍てつく寒さで、感覚を取り戻し。
ツクヨの国で、ミコトと共に鎮魂の祈りを捧げた。
行く先々で、人々は「英雄」を歓迎した。
世界を救った救世主。魔王を倒した伝説の男。
向けられる称賛と歓声が大きければ大きいほど、ロイの心には冷たい風が吹き荒れた。
この平和は、誰の犠牲の上に成り立っているのか。
隣で微笑んでいるはずの少女がいない世界で、何が「英雄」か。
永い、永い、治癒と巡礼の日々。
肉体の傷は癒え、魂の定着も完了し、表面上はかつての生気を取り戻した勇者へと戻った。
だが灰の瞳の奥には、決して埋まることのない巨大な空洞が口を開けていた。
そうして、季節が一巡りする頃。
だいぶ正気を取り戻したロイは、ようやく故郷であるルミーナ王国へと帰還したのだった。
「……これが、あの日あったことだ」
ロイは語り終え、深く息を吐き出した。
ステンドグラス越しの蒼い光が、彼の横顔に濃い影を落とす。
手元には、あの頃のままの古びた本と、煌めくマーメイドパージュ。
それだけが、あの冒険が、あの恋が、幻ではなかったことを証明する唯一のよすがだった。




