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辺り一面、緑色だった。
時折ゴーという風のような音が鳴ると、緑に砂金をぶちまけたような煌めきが生まれ、見えない何かに体表をトロリと柔らかく撫でられる。重さを一切感じさせない、上等な羽根布団に全身を包まれるような心地良さだった。ぼんやりした意識の中、ヴェンジーは空のような海のような空間にうっとりと身を任せる。
なんて素敵な夢だろう。
彼女が与えられた部屋のベッドも恐縮するほど贅沢だが、独り寝用のそれにここまでの規模はない。シーツだってシミ一つない白であって、こんなムーディな柄ではなかった。
だから、今の彼女は飛び切り癒される夢の中で微睡んでいるに違いない。一体いつベッドに入ったのか、思い出せないけれど……眠りにつく前に何かあったような気がすしたが、思考力がうまく働かなくて思い出せない。
「……ったでしょ!」
砂金の煌めきの波間に、突如ヒステリックな怒鳴り声が差し込んでくる。水面の上から届いたように、夢の世界をビリビリと震わせた馴染みのある声は、希薄に沈み込んでいたヴェンジーの意識を急浮上させる。
姉エグジーが戻ってきているのだろうか?
多忙な姉と一緒にいられる時間は極端に短い。遠いようで近いような今の声が現実から聞こえてきたものならば、自分は早く起きねば……あの声は、本気で怒った時のそれだ。旅先で何かあったのだろうか、起きて話を聞かなくては。
身体も心も、きっと胃袋も疲れているだろうエグジー。酷く昂っているその気持ちを落ち着かせたい。懐かしい故郷の味、浅漬けを食べさせてやりたい。一緒にお茶漬けが食べたい。
……浅漬け。
はて、意識を失う前に何かあったような?
そうだ、トムだ。
あの子はどうなっただろう、確か普通の猫でも口にしては不味い浅漬けを口にしたはず……自分は慌てて吐かそうとして、そして、その後。
『……トム!』
初めて発したヴェンジーの声は、今にも壊れそうなガラスの塔を震わせるような、危うく耳障りなものだった。自分の声に驚いて跳ね起きた彼女は、両手で耳を塞ぐ。同時に開いたと思った瞳は一切の光を拾わず、咄嗟に閉じた瞼の裏側からは、夢に見た緑の海も金の砂も消し飛んでいた。寝覚めは最悪だ。
「静かにっ……! ……ああ、起きてしまったようだね。ヴェンジー」
エグジーの怒声とは別の声が彼女を諌めた後、自らに呼び掛けてくる。寝乱れた髪を梳く長い指と、珍しくも少々焦りを含む艶やかなその低音は、確かにブラントのものだった。
姉がいるのは百歩譲って分からなくもないが、何故彼まで自分の枕元にいるのだろう?
耳を覆った両手を下ろし、そろそろと顔を上げる。恐る恐る開いた目は、依然として何も見えなかった。睫毛や開いた瞼に触れる感触があり、さらに顔の上半分が圧迫されている。何か布のような物が巻きつけられ、故意に視界を遮られているらしい。
『……どういうことですか、一体何があったんですか?』
恐る恐る発した声音は、やはり先ほどと同じで耳障りだ。夢うつつではなく、ほとんど覚醒した頭で聞いても、まるで安価なボイスチェンジャーに掛けられたそれのように、耳にした者を不安にさせるザラついた響きが消えなかった。
寝起きの声とも違う。息をするだけでは気付かなかったが、声を出そうとすると、まるで熱湯を呑んで火傷をした時のように喉がヒリヒリした。
「今はまだ無理に喋らない方がいい……済まない、ヴェンジー。私の血が、君の目と喉を焼いた」
『えっ……?』
喋るなと言われたが、反射的に短い驚きの声が漏れる。彼が発した言葉の意味がさっぱり分からなかった。
「このイカれた男はっ、貴女をあの猫に監視させていたのよ! ああーーーもうっ、やっぱり父さん達のところに行かせるんだったわ!」
「エグジー、今は抑えてっ……ほっ、ほら、ヴェンジーも戸惑っている。まずは、冷静に説明をしてあげなくては」
怒髪天を衝く勢いの姉をおっかなびっくりというように宥めたのは、義兄である皇太子のようだ。視界が利かないので今まで気付かなかったが、どうやら彼もいたらしい。
本人に面と向かって言えないが、地味寄りの真面目な性格をしたジャーヴィスは、存在感が今一つ薄い。面食いの姉が選んだだけあって素晴らしい美形であるのに、その存在感のなさのお陰で、少しでも顔を売るために公務で国中を飛び回っているのだ。
その所為で姉と会い辛い現状には正直複雑だが、小市民であるヴェンジーとしては親近感が湧くのも事実だ。長女らしく引っ張っていくタイプであるエグジーに、ぴったりの相手だとも思うが……現実逃避するように、義兄の人となりをつらつら考えている間に、周囲の会話は当事者である彼女を置き去りにして、明後日の方向へと白熱していった。
「魔導生物には独立意思があるからね。確かに視覚を始めとする五感は繋がっているが、私も四六時中意識を向けている訳じゃない……大体、私が作った魔導生物はトムだけじゃないよ」
「まあ、厚かましい! 日本じゃね、隠しカメラや盗聴器仕掛けるだけで犯罪なのよ! ちょっとしか見てない、聞いてないって言い訳は通用しないの!」
「だが、それは異界での話だろう?」
「ストーカーは何処の世界でも犯罪に決まってるでしょ!」
「すとーかー? ……ああ、なるほど……しかし、心外だな。私はその歴代の輩達のように彼女の育てた農作物を盗んだり、故意に猥褻な痕跡を残したりしたことはないが?」
「貴方、何で知って……! 私達の心は読めないんじゃなかったの?」
「ああ、君らの心字は読めないよ。君ら二人は、ね」
「ああっ、ジャーヴィスね!」
「ええぇっ、僕ですか? ちょっと、ブラントっ……勝手に覗き見るのは止めてくださいって、ずっと言ってるでしょう!」
「プライバシーの侵害だわっ!」
「理解出来ない単語を持ち出すそちらにも責任はあると思うがね。大体、その行為に何の意味があるんだ? マードの私が言うのもなんだが、何とも風変りに思うね」
『みんなっ、落ち着いて!』
いい加減黙っていられなくなったヴェンジーは、枕元で喧々囂々言い争いを始めた姉達に向かって、声を荒げた。自分の声ながら怒鳴ると一層耳触りで、そのお陰か三人は一斉に口を噤んだ。
『痛っ……』
だがしかし、同時に喉の奥から鉄かび臭い血の味がせり出してきて、ヴェンジーは低く呻いた。
「これはいけない、こちらを向きなさい……口を開けて」
すると、すぐさま彼女の顎を持ち上げたブラントが、反射的に薄く開いた唇の間から細長いチューブのような物を突っ込んでくる。その先から、液体が舌の上に染み出した。ひりつく喉へと流れ込んできた無味無臭の冷たい感触に、喉の渇きを気付かされたヴェンジーは、それが何か考える前に嚥下してしまった。
「喉の炎症を抑える薬だ、苦くはないだろう? 沁みることもないはずだ」
全てを飲み下した後で小首を傾げた彼女に、繊細な手つきでチューブを抜いたブラントがそう説明してくれる。
「声帯が損傷しているんだ。我々も落ち着くから、君も落ち着いて……喋っては駄目だ」
トーンを落とした声で忠告され、ヴェンジーはこっくりと頷いた。
「ごめんなさい、……ヴェンジー」
横たわっていたベッドのシーツの上に投げ出した自分の手をそっと握り、恥じ入るような口調で謝罪してきたエグジーにも、彼女は気にしていないと首を横に振る。
「……さて、君の身の上に起こったことを説明しよう」
その顔が見える訳ではなかったが、ヴェンジーはブラントの声に向かって顔を上げる。
「どこから話そうか、そうだな……君は昨夜、自室のベランダでアサヅケを作っていたね」
「やっぱり監視してたんじゃない」
けれど、彼が説明を始めた途端に、エグジーが吐き捨てるように遮った。ヴェンジーの手を握っていた手にも、力が籠もる。
「……余計な口を挟んで話の腰を折るのは止めたまえ」
「口を挟まざるを得ないことをするのが悪いのよ」
最初から反りの合わなかった二人だったが、こんな大事な時に余計な喧嘩は止めてほしい。
ブラントに加勢するようで正直微妙な気持ちだったが、ヴェンジーは姉を諌めるようにその手をキュッと握り返した。
「ほらっ、この子も怖がってるじゃない!」
違う、違う、違う!
ヴェンジーはすっかり誤解したエグジーに、首をブンブンと横に振る。声が出せないことが、とてももどかしかった。
「エグジー、とりあえずブラントの話を最後まで聞こう。反論も追及も、後で存分にするといいから」
上手く伝えられない自分に代わって、ジャーヴィスが姉をやんわりと説き伏せた。
姉の隣で控え目に微笑んでいるばかりで、少々頼りなく思えたけれど、やはり次期国王である。ヴェンジーは彼への感謝の念を抱くとともに、つい先ほどまで抱いていた彼の認識を改める。
「……まあ、端的に言ってしまえば、トムというか私が、君を喜ばせようとして裏目に出たんだな」
ブラントが説明を再開するとともに一旦言葉を切ったので、ヴェンジーは小首を傾げた。声を出せない彼女は、ボディーランゲージに頼る他ない。
「ヴェンジー、君にはかねてからトムに餌をやりたいという願望があった。それも手製のね。また、意気揚々と振る舞ったアサヅケが、庭師の同僚にも厨房の下働き達にも不評だったのが地味に堪えていただろう」
想像しなかった彼の指摘に、ヴェンジーはつい呻き声を上げそうになる。唇を噛んで必死に呑み下したが、動揺した心拍数は収まらない。
「私は経口摂取を必要としないマードだが、人間にとって食は三大欲求の一つだ。地球とビランディアでは食文化の違いがあって当然といえ、簡単に割り切れないことくらい分かるよ。星空を見上げながら、好みの合う姉上の帰りを心待ちにする姿が実に不憫でね……せめて出来る範囲で君を元気づけたかった」
さらに続けられた言葉で、おおよそ見当がついた。納得の意を伝えるために、大きめに何度も頷いて見せる。
「お察しの通り、トムに君の手作りのアサヅケを食べさせることで、慰めになると思ったんだよ。私やこの血による魔導生物は食物の経口摂取を必要としないが、何かを口にしても不調をきたすほど軟でもないんだ……吸収はしないが、何でも分解消滅させられる。マードの体液は、人や他の生物にとっていわば強力な酸だから、君がトムの口に手を突っ込んだ時は焦ったよ」
大方落ち着いてきた心臓が、最後の一言で口から飛び出しそうになった。ヴェンジーは大慌てで、自由な手で顔や身体を確認する。
「私が作った眼鏡を掛けていたのが不幸中の幸いだったんだよ。あれが身代わりに分解されて、君の命は助かった……目もじきに見えるようになるし、声も戻る」
幸いだと言う割には、ブラントの声がいつもより幾分暗いように思えるのは何故だろうか?
視界が利かない今、その声に含まれる感情がダイレクトに伝わる気がした。
「では、この子の身体に何も問題ないのね?」
彼が口を噤んだと同時に、不信感を隠しもしない口調でエグジーが追及を始めた。
「……命は、助かったよ」
答えるブラントは、何とも歯切れが悪い。舌先三寸で煙に巻くのが得意なはずなのに、何とも彼らしくなかった。
「ヴェンジーの身体のことです。貴方が決めていいことではないでしょう? エグジーの質問に、隠さず正確に答えてください」
続いて、ジャーヴィスも口を開く。自分達二人よりもブラントと付き合いの長い義兄も、彼の態度を不審に思ったようだ。
「それはもちろん分かっているよ。ただ、心構えが必要だろうと思ってね」
誰かが溜め息を吐いた。ブラントだろうか。
「ヴェンジー……これを聞けば、君は私を許さないかな?」
そして一拍置き、ブラントは常にない後悔を含んだ口調で告げてきた。一切目の前が見えないのに、まるで許しを請うような彼の視線を全身に感じる。
「人間が神から与えられた最大の恩恵を、君から奪ったのかもしれない……それは『死』だ」
その言葉を耳にした時、もともと塞がれていた視界がさらに真っ暗に塗り潰されたように感じた。
誰もが黙りこくった部屋の中で、視覚と声帯を封じられてしまうと、まるで見知らぬ場所に放り出されたような心持ちになった。耳の奥を夢の中で聞いたようなゴーという風に似た音がする……ああ、そうか。これは血管の中を血液が流れる音だ。
「むつっ……ヴェンジー!」
真横から上がったひどく上ずった声が、我知らず現実逃避していた彼女の耳を直撃する。驚いて傾いだ肩を支えてくれたのは、叫び声に近い呼び声を上げた主で、いつの間にか傍らに腰掛けていたエグジーだった。
姉は日本での本名(ビランディアで言うところの聖名)で自分を呼びそうになり、言い直していた。自分と勝るとも劣らず混乱している様子で、薄い夜着越しに彼女の指が柔らかく皮膚に食い込む。綺麗に整えられた爪が、僅かにチクリとした。
「……ヴェンジー」
『死』を奪った?
一体どういうこと?
聞かないと、何がどうなっているのか聞かないと……でも、一体どうやって?
頭上から降り注ぐブラントの声に、咄嗟に上がり掛けた疑問の音をすんでのところで堰き止めたヴェンジーの唇が、ハクハクと閉じては開くを数回繰り返す。膝の上でじわりと汗の浮き始めた冷たい掌を、気姉のそれが気遣わしげに握り込んできた。
「……ヴェンジー?」
次いで上がった訝しげな声も、エグジーのものだった。温かで柔らかな彼女の手をゆっくりと振り解いたヴェンジーは、その掌を右手の人差し指でなぞる。
『トムはどこ?』
筆談を思い立った彼女が最初に問うたのは、先ほどまで脳裏を占めていた疑問のどれでもなく……自身を強力な体液で跡形もなく溶かし掛けた、猫型魔導生物の消息だった。