あくる日のこと
本の内容が上滑りして全く入って来ない。
文字は追っているのに全くだ。
そんなことが時折起こる。
そもそも私の脳は読書に向かないのかもしれない。
だって、古本屋で読んでいても夏目さんのようにずっと集中していられない。
少し読んでは、目線は夏目さんに向かう。
ぼんやりと、そこの空間に浸るのだ。
西日が店に差し込んで、店の一部だけ色彩を変えた午後。
まるで切り取られた空間に息を止めて、胸に焼き付ける。
額の髪を煩わしげに退ける指の動きとか、瞬く睫毛にしばし見とれて、目を反らす。
なんと、邪な読書だろうか。
本を見てるのか、夏目さんを見ているのか。
自分に呆れてため息が出た。
気が付いてしまったら、なんだか一層文字を追えなくなってしまった。
行儀は悪いが、椅子に両膝を立てて顔を埋めた。
目を閉じると、衣擦れの音と、自分の呼気と、本を捲る音がする。
小さい時、園でお昼寝をするのに目を閉じたら、まっくらがどこまで続いているのか分からなくて怖くなって泣いた。
先生が「ねくじだね」と言って背中をぽんぽんしてくれたのを覚えている。
大きくなるにつれ、そのまっくらを意識しないようになっていったけど、ふとした瞬間にその時のことを思い出す。
子どもの時の方が敏感に感じていた。
今が続かないんじゃないかって恐怖。
無くなったらどうするのって恐怖。
もう起きてこれないじゃないかなって涙が出る気持ち。
当たり前みたいに目が覚めるなんて信じてなかったから、まっくらに眠りに引きづり込まれるのが怖かった。
「葵ちゃん?」
夏目さんが囁くみたいに声を掛けてくる。
意識はちゃんとあったのに、身じろぎひとつしないで待っていた。
ね、狡くなったでしょう。
貴方はいつも本に夢中になってしまうから。
衣擦れの音がして、私の髪に触れた。撫でるように滑る指。
時折頬を掠めるから思わず、くふふと笑ってしまった。
目を開けたら、優しい青灰色が私を見ていた。
「起こしてしまった?」
そんなことちっとも思ってないくせにそんな風に言って笑う。
きっと寝たふりだと分かっていたでしょう?
「もうすこし、そうやって」
目を閉じて、髪を撫でる感触を感じる。
「なでてていてくれたら、また寝れそう」
こもごもした口調で告げると、夏目さんが笑った気配がした。
私も埋めた腕の中でこっそり笑った。
まっくらに気を取られないよう、そうやっていてほしい。
眠りが訪れるまで。
起きたら、まっくらの話をしよう。
夏目さんはどんな話だって、くだらないなんて一蹴せず聞いてくれる。
きっと、目を覚ました時、夏目さんが目を閉じたその瞬間と同じ姿勢で同じように本を読んでいる。
そう信じている。