9.愛玩生物への道
――そんな約束を交わしてから、数日後のこと。
その日も彼が淹れてくれたお茶を飲みながら、アイリスは何気なく自分のスペースのすぐ隣に鎮座する、やたらと青々と茂って巨大化した植物を見上げて言った。
「それにしても、この観葉植物、ものすごく立派ですね」
ここに来た最初の日からずっとある植物だ。
本来ならどれだけ成長しても、今の半分ほどにしかならないはずだが、これはアイリスの背丈を超えそうなほどに大きい。
すると、ジュリアンは書類から顔を上げ、「ああ」と少し笑った。
「そいつ、元は王宮の隅で枯れかけてた、ヒョロヒョロの鉢植えだったんだがな」
「枯れかけていたんですか? こんなに立派なのに」
「殿下が可哀想だからといって、わざわざこの部屋に持ってこられたのですよ」
横から、ジャックが呆れ顔で会話に入ってきた。
「そこまでは良いのですが、殿下は水と最高級の栄養剤、それに優しい声かけを、毎日惜しみなく投与し続けたんです。結果元気になりすぎて、ありえない大きさになったと」
「え……」
「殿下は一度保護して懐に入れると、相手の限界を考えずに過剰に色々と与えすぎる悪癖があるんです」
ジャックの抗議に、ジュリアンは、
「別に枯れるよりいいだろ」
そう悪びれずに肩をすくめた。
その光景を見て、アイリスは内心で密かに戦慄した。
アイリスは、ジュリアンに関して語られている逸話について思い出す。
彼の逸話はあまりにも多いので事欠かないのだが、その中の一つに、暴れ馬の話があった。
ジュリアンが学園にいた頃、誰も手をつけられなかった暴れ馬がいた。
気性が荒く、処分されかけていたその馬を、ジュリアンは一瞬で手懐け、そのまま引き取ってしまったのだ。
その後どうなったかといえば――。
飼葉はもちろん最高級品。
しかも産地や収穫時期まで厳選され、その日の気温や馬の体調に合わせて配合まで変えられているらしい。
おやつも、蜂蜜で軽く煮た林檎や、滋養のある木の実を練り込んだ焼き菓子など、下手な貴族の茶菓子よりよほど手が込んでいる。
さらに雨風の当たらない特別仕様のふかふか厩舎で暮らし、床には脚を痛めないよう厚く藁が敷かれ、可能な限りジュリアン自らブラッシングをして毛並みをつやつやに整えているという。
かつての猛々しさは跡形もなく、今ではジュリアンを見るだけで嬉しそうにいななき、すり寄って離れない愛玩動物になっているらしい。
ここで、アイリスの中に明確な不安が生まれる。
巨大化した観葉植物と、すっかり甘やかされ尽くした暴れ馬の末路――それがアイリス自身の未来になるかもしれないと考えると、背筋がぞくりとした。
このままでは、婚約者ではなく、ジュリアンに手厚く世話をされるだけの愛玩生物に成り果ててしまうかもしれない。
なんて恐ろしい。
恐ろしいのだが、適温に保たれたお茶を口に含み、ふかふかのクッションに背中を預けている今の自分は、すでにその未来へ片足どころか膝くらいまで浸かっている気がした。
とはいえ、いつまでもこの環境で休ませてもらってばかりでは申し訳ない。
アイリスは己の中の怠惰な誘惑を振り払うように立ち上がると、たまらずジュリアンの執務机へと歩み寄った。
「あの、殿下。私ばかり休んでいるわけにもいきませんし、さすがに何かお手伝いさせていただけませんか?」
「いいからお前は休憩してろ」
けれど食い下がるアイリスに、ジュリアンは少し困ったように眉を寄せた後、
「……じゃあ、これを頼む」
と、処理済みの書類の束を渋々といった様子で渡してきた。
アイリスはまだ王族教育の途中の身であり、完全に国政の実務に携われるわけではない。
そのため、彼が渡してきたのは、処理済みの書類を日付順・重要度順に綺麗に並べ替えてファイリングするだけという、ごく簡単な雑用だった。
「お任せください!」
アイリスは意気込み、近くに座ると、持ち前の驚異的な集中力を発揮して山のような書類を次々と整理していく。
「終わりました!」
あっという間に仕事を終えてアイリスが報告すると、ジュリアンは目を瞬かせた。
「もう終わったのか?」
受け取った書類の束に目を通したジュリアンは、感嘆の息を漏らす。
「驚いたな。日付順なのはもちろん、案件の関連性まで把握して一番参照しやすい形に束ねられている。文官に半日やらせるより早くて正確だ。お前は本当に優秀だな」
「あ、えっと、見やすい方がいいかと思いまして……」
「俺の主席補佐官として今すぐ引き抜きたいくらいだ。本当に助かった、ありがとう」
簡潔ながらも具体的な評価とともに絶賛され、アイリスは照れくささに頬をかく。
だが。
……ただ紙を順番に重ねただけなのに、いくらなんでも褒めすぎではないだろうか、とも思う。
そんなアイリスの内心を知ってか知らずか、ジュリアンがふっと柔らかく微笑み、受け取った書類を机に置こうとしたその時。
彼の袖が机の端に積まれていた別の書類の山に当たり、数枚の紙がバサリと床に滑り落ちてしまった。
「あ、私が拾います」
「いや、いい」
「このくらいさせてください」
アイリスはしゃがみ込み、散らばった紙をパパッと拾い集める。
その時、ふと書類の束の一部が目に留まった。
文字の羅列なのではっきりとは見えなかったが、『西地区』という地名とともに、『失踪』や『借財』といった単語がちらりと見えた気がした。
しかも、似たような書類が数枚重なっている。
「あの、殿下。西地区って、最近何かあったんですか?」
拾い集めた書類を机に置きながら何気なく尋ねると、ジュリアンは「ん?」と首を傾げた。
「ああ、少し治安が荒れててな。注意喚起を出そうかと思って、最近の報告をまとめさせてたんだ」
「そうなんですね」
ジュリアンの口調はいつも通り穏やかで、そこには何の不自然さもなかった。
「何かあったらいつでも言ってください。私もお手伝いしますから!」
「ああ、ありがとう。アイリスは優秀だから心強いな」
ジュリアンが目を細めて優しく頷いたので、アイリスも「王都の治安管理も大変だな」とすんなり納得し、それ以上深くは気に留めなかった。
「それより、手伝ってくれて助かった。ほら、これ食べて休んでろ」
「あ、ありがとうございます……」
それは、甘いアイシングがかかった小ぶりなクッキーだった。
アイリスは微笑んで受け取り、席に戻ってからクッキーを口に運ぶ。
サクッとした食感と甘みが口の中に広がると同時に、ジュリアンが淹れてくれた紅茶を一口飲み、小さく息を吐いた。
……本当はあまり甘いものは好きではないのだが、いつもアイリスがここに来るたびに出されるお茶菓子は残さず食べるようにしていた。
ジュリアンが用意してくれた善意を、無駄にしたくないからだ。
しかし、書類仕事をしているはずのジュリアンが、ペンを持ったまま、クッキーを口に入れたアイリスの様子をじっと静かな瞳で観察していた。




