10.王妃とのお茶会
アイリスはジュリアンの執務室という、息のしやすい居場所に馴染み始めていた。
だが、当然ながら毎日サボってばかりはいられない。
今日は王族教育の一環として、王妃フィオナと二人きりのお茶会が設けられていた。
場所は、王宮の美しい庭園に用意されたガゼボだった。
向かいに座るフィオナは、隣国の王女として嫁いできた、息を呑むほど美しい女性だ。
現国王レオナルドとは政略結婚であったが、国中が知るほどに夫婦仲は良好である。
国王レオナルドの凛々しさと、フィオナの優雅な美しさ。
ジュリアンは間違いなく、この二人の良いところだけを抽出して生まれた最高傑作なのだと実感する。
ちなみにフィオナの纏う周囲を包み込むような温かく穏やかな雰囲気は、表舞台のジュリアンにそっくりだった。
「アイリス。最近の教育はどう? あまり無理をしてはいけないわよ」
「お心遣い感謝いたします、王妃殿下。少しずつですが、国の未来を担う重責を学ばせていただいております」
「ふふ、頼もしいわね。さあ、今日は隣国から取り寄せた特別な茶葉と、有名なお店のチョコレートケーキよ。遠慮なく召し上がってね」
目の前に置かれたのは、芸術品のように美しい、見るからに甘そうなケーキだった。
「………」
しかしながら内心で血の涙を流しながらも、何も言わず、完璧な淑女の笑みを浮かべてフォークを取る。
一口入れると、普段のお茶会で出ているお菓子の何倍も甘い。
顔が引きつりかけるが、フィオナがせっかく用意してくれたものだ。
鉄の意志で顔を作ると、再度口に運ぶ。
そして半分ほど食べ終わった時だった。
「楽しそうなお茶会ですね。母上、アイリス」
ふと背後から気配を感じて振り返る。
そこには、春の陽だまりをそのまま具現化したような、眩しすぎるほど爽やかな笑みを浮かべたジュリアンが立っていた。
「ジュリアン。休憩かしら? ちょうどよかったわ、あなたも座りなさいな」
「ありがとうございます。お二人の美しい姿が見えたもので、つい引き寄せられてしまいました」
流れるような動作で、ジュリアンはアイリスの隣の席に座る。
ジュリアンは母であるフィオナに対し、敬意と愛情に満ちた青年の態度を崩さない。
フィオナもまた、自慢の我が子を見る穏やかで優しい眼差しで彼に微笑みかけている。
アイリスは、できるだけ小さく切り分けたチョコレートケーキを優雅に口に運びながら、二人の様子をじっと観察していた。
フィオナがジュリアンに向ける信頼と愛情に、一欠片の疑いもない。
自分の息子が、実は王宮の最上階で、険しい顔になって私腹を肥やす貴族たちの名前を上げながら吠えまくっていることなど、この美しい王妃は夢にも思っていないのだ。
『俺のことを完璧な自慢の息子だと信じ切って疑ってないからな。だから、バレたらかなりマズいんだよ』
先日、彼が自嘲気味に笑って言った言葉が、痛いほど実感として迫ってくる。
もしジュリアンの本当の姿を知れば、この心優しい王妃殿下はショックのあまり気絶してしまうどころか、現実逃避のために意識が戻ってこないかもしれない。
アイリスは、隣で微笑みを浮かべるジュリアンの横顔をそっと見上げた。
彼女の視線に気づいたジュリアンが、ふとこちらを向く。
一瞬だけ、フィオナからは絶対に見えない角度で、ジュリアンはアイリスに向け、口の端を少しだけ吊り上げてみせた。
「……!?」
それは、俺の秘密を知ってるのはここではお前だけだぞとでも言わんばかりの顔だった。
アイリスはドキンと跳ねた心臓をごまかすように、慌てて紅茶のカップを口に運ぶ。
と、ジュリアンの目線が突如、半分から一向に減っていないアイリスのケーキへとすっと移動した。
そのあからさまな視線に気づいたフィオナが、困ったように微笑む。
「ごめんなさいね、ジュリアン。お茶はすぐに用意できたのだけれど、あのケーキはそれが最後の一切れだったの」
「いえ、構いませんよ、母上」
ジュリアンは柔らかく首を横に振ると、
「ただ、少しだけ無作法をお許しください」
と断りを入れてから、アイリスの方へと体を向けた。
「アイリス。もしよければ、君のケーキを少し分けてもらえるかい?」
突然の申し出に、アイリスは目を丸くした。
王妃が侍女に新しい茶を頼んで視線を逸らした、そのほんの一瞬。
ジュリアンは、唇の動きすらほとんど見えないほど小さく囁いた。
「お前、本当は甘いもん好きじゃないんだろ。俺が食べるから寄こせ」
実はアイリスがこの甘ったるいケーキを前に内心絶望していたことを――初めて見抜かれた。
「さあ、切り分けて私の口に入れてくれますか?」
甘い声でそう急かされながらも、目は早くしろという圧を放っている。
その圧に負け、アイリスは申し訳ないと思いながらも、震える手でケーキをフォークで切り分けると、ジュリアンの口元へと運んだ。
ジュリアンはアイリスの手から直接ケーキをパクリと口に含むと、ふわりと花が舞うような極上の笑顔を咲かせた。
「うん、すごく美味しいですよ。君に食べさせてもらったから、余計にでしょうか」
「まぁ、殿下ったら……」
アイリスは顔を赤らめて俯き、必死に恥じらっている純真な令嬢を装った。
いや、実際に恥じらっている。
心の内では、うるさいくらいの大絶叫をしているが、口からそれがこぼれるのを必死に耐えた。
そんなアイリスの葛藤などいざ知らず、二人の様子を見たフィオナは少女のように微笑む。
「まあまあ。本当にあなたたちは仲が良いのね。私までご馳走様って言いたくなっちゃうわ」
「お恥ずかしいところをお見せしました、母上」
ジュリアンは涼しい顔で微笑み返す。
アイリスは完全にオーバーヒートした頭を抱えそうになるのを、どうにか紅茶を飲んで耐え凌ぐのだった。




