7.変わらない内面
あれから数日が経ったが、アイリスの生活は特に何も変わらない。
毎朝愛しのお布団に張り付いて「嫌だ、起きたくないー!」と泣き叫ぶのを、クララに物理的に引っぺがされ、食事をとらされて服を着替えさせられて化粧を施される。
その頃には完璧な淑女に仕上がっており、そのままアイリスは王宮へと通う。
その日は、厳しい王族教育の合間、ジュリアンと廊下で鉢合わせた。
だがお互いに周囲の目があるため、交わす言葉はあくまでこれまで通りの婚約者としてのものだけだった。
「アイリス。今日の君もとても美しいですね。あまり根を詰めすぎないよう、時には休むことも忘れないでください」
「ありがとうございます、殿下。殿下のお気遣いで、私の心はすっかり癒されましたわ」
すれ違いざま、ジュリアンが甘く微笑んでアイリスの体調を確認するように、わずかに頬に手を伸ばして触れる。
そして顔を上げて離れる間際、少しだけ身を屈め、アイリスの耳元に――周囲には絶対に聞こえない低くかすれた声で――囁いた。
「限界なら後で執務室に息抜きに来い。今日は一日そこにいる」
「……っ」
それは、紛れもなく裏の方の声だった。
あまりにもびっくりして心臓が止まりそうになったが、彼なりの気遣いのようだ。
その言葉に甘え、後ほどアイリスが執務室に足を運んでみると、そこには王太子の礼装を着崩し、執務机の前で山のような書類と格闘しているジュリアンの姿があった。
机に肘をつき、もう片方の手でペンの後部をトントンと机に叩きながら、気怠げに書類を睨みつけている。
その少し猫背になった姿勢と不機嫌そうに細められた目は、完全にスイッチを切っている証拠だ。
ジュリアンはアイリスの姿を認めると、片手をひらひらと振って出迎えた。
「来たか。悪い、俺は今ちょっと忙しくて構えないが、適当に好きにしててくれ」
「お、お気遣いありがとうございます。では、その、あの隅っこで縮こまっておきますね」
アイリスは迷うことなく、前回もスタンバイしていた、入り口近くの壁と観葉植物の隙間へと直行した。
そして、そこにピタリと張り付いて立ち尽くす。
その瞬間、ジュリアンは書類から目を上げて吹き出した。
「そこが好きなんだな」
「はい。隙間は落ち着きます」
ジュリアンはアイリスにソファに座ることを無理強いはしなかった。
代わりに、自分の執務机の前にあった来客用のふかふかの椅子を持ち上げると、アイリスのいる壁際まで運んで置いた。
「立ってると疲れるだろう。せめてこれに座っとけ」
「……ありがとうございます」
「あとこれ」
「えっ?」
アイリスが驚いて目を見開く。
ジュリアンは椅子を置いただけでなく、どこから取り出したのか、膝掛けをアイリスにポンと放り投げたのだ。
さらにサイドテーブルをアイリスの手が届く距離まで動かし、そこには冷えた果実水とクッキーまで用意してくれていた。
「水も菓子も適当に飲み食いしていいぞ。無くなったら遠慮なく声をかけてくれ。お代わり持ってくるから」
構えないと言っていた割に、妙に至れり尽くせりである。
「あ、あの、殿下、お忙しいのに、ここまでしていただかなくても……」
「ん? ああ、気にするな。俺が勝手にやってることだ」
ジュリアンはさも当然のことのように言う。
「ここにいる間くらい、快適に過ごしてもらいたいしな。お前は何も気にせず、ただ休んでればいい」
アイリスは一瞬だけ目を丸くしたが、やがてふっと口元を綻ばせた。
「……では、あの、お言葉に甘えて、遠慮なく休ませていただきます」
「ああ、ゆっくりしてけ」
アイリスが膝掛けをぎゅっと抱きしめて微笑むと、ジュリアンもどこか満足げに口角を少しだけ上げ、自分の執務机へと戻っていった。
アイリスはその椅子に丸くなるように座り、ブランケットを膝に置いてから椅子と気持ちを同化させる。
そのまま何も考えずに、ぼんやりと宙を見つめる。
執務室に響くのは、ジュリアンが書類にサインするペンの音と、時折彼が首や指をポキポキと鳴らす音だけ。
お互いに何も喋らない。
しかし、それが不思議なほど心地よかった。
誰の視線も気にしなくていいし、完璧に微笑む必要もない。
ただそこにいるだけで許されるこの空間は、王宮の中でアイリスにとって唯一呼吸ができる場所だった。
十分ほどそうして過ごし、すっかり英気を養ったアイリスは、パンッと小さく両頬を叩いた。
「殿下、ありがとうございました。それでは戻ります」
「無理はするなよ。いつでもきていいからな」
立ち上がり、一瞬で隙一つない淑女の顔に戻ったアイリスに、ジュリアンは書類から視線を外すとそう告げる。
アイリスはそっと執務室を後にし、足取りも軽く王族教育へと戻っていった。
そうして時間を共有するうちに、アイリスは気づいた。
表の完璧な姿の時も、裏の気怠げな姿の時も、ジュリアンが本質的には国と民を想う次期国王であることに変わりはないのだと。
例えばある書類に目を通した瞬間、
「……どこの馬鹿だ。こんな税率で通したら、冬を越せない家が出るに決まってるだろう」
と、腹の底から湧き上がるような怒りとともに吐き捨てながら、一部の貴族が提出した理不尽な増税案に容赦なく却下のサインを叩き込んでいる姿も見た。
同じような書類を何枚も処理した後は、怒りが収まらないのか、万年筆を指先で猛スピードで回しながら、私腹を肥やそうとする貴族たちへの怒りをぶつけるように、
「あいつらは腹の贅肉でも国庫に納めてろ!」
と天井に向かって盛大に吠えて苛立ちを紛らわせてはいたが。
壁際でぼんやりとそんなジュリアンを眺めながら、アイリスは婚約者として彼の隣で過ごしてきた六年間を思い返していた。
学生時代、ジュリアンは誰よりも早く登校し、下校時刻ギリギリまで図書室に残って各国の法典や歴史書を読み漁っていたと教師に聞いたことがある。
武術の鍛錬でも決して妥協せず、手にマメを作りながら黙々と剣を振るう姿を、アイリスは何度も遠くから見てきた。
彼があらゆる分野で完璧と称されるのは、決して天性の才能だけで得たものではなく、血を吐くような努力の賜物だったのだ。
昔、あまりにも自分を追い込む彼に、どうしてそこまで頑張れるのかと、純粋な疑問をぶつけたことがあった。
その時ジュリアンは、いつもの神々しい微笑みではなく、少しだけ遠くを見るような真剣な眼差しで答えた。
『私が上に立つことで、この国の隅々まで……光が届かない場所で生きている人々の生活まで含めて、少しでも良くしたいんです』
あの頃は、ジュリアンのことを自分には一生手の届かない、聖人君子みたいだと思って尊敬していた。
だが、今は違う。
裏側を知ってしまったからこそ、作られた偶像ではない彼の人間らしさが見える。
その上でなお、本気で国を想う姿に、以前よりもずっと深く、確かな尊敬の念を抱き始めていた。
壁際の椅子に座ったまま、そんな思いでじっとジュリアンの姿を見つめていると。
「……なんだよ、俺の顔に何かついてるか?」
視線を感じたらしいジュリアンがふと顔を上げ、眉間にシワを寄せて険しい視線を向けてくる。
「い、いえ! 何でもありません!」
アイリスはビクッと身震いして全力で首を横に振った。
その怯えきった様子を見て、ジュリアンは短く息を吐く。
「あー、一応言っておくが、怒ってるわけじゃないからな。あんまり怯えないでくれ」
少しだけバツが悪そうにそう言い残し、ジュリアンは今度こそ書類へと視線を戻した。
あの凄まじい目つきが、怖くないと言えば嘘になる。
けれどアイリスの心の中の恐怖は、不思議と薄らいでいく。
代わりに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。
この人が自分の婚約者でよかった。
そしてこれから先、微力ながらも国を支える礎になれるように頑張りたい。
アイリスは心の底からそう思えた。




