6.予想外の感情の芽生え(ジュリアン視点)
アイリスを送り届けたその夜。
自室に戻ったジュリアンは、窓辺に寄りかかり、夜風を浴びながら星空を見つめていた。
ジュリアンの脳裏には、今日の婚約者の姿がこびりついて離れなかった。
――アイリスと初めて顔を合わせたのは、彼女が十三歳の時。
十六歳になったジュリアンの婚約者として、正式に王宮へ挨拶に上がった日のことだ。
『初めまして、ジュリアン殿下。レンフェルト公爵家の長女、アイリスと申します。この度は殿下との婚約の儀、大変光栄に存じます』
儚げな可憐さと、息を呑むような美しさを兼ね備えたその容姿は、まるで職人が作った精巧なビスクドールのようだと思った。
そのうえ、まだ幼さが残っているにもかかわらず、非の打ち所がないほどに完璧な令嬢だった。
『これからよろしくお願いしますね、アイリス』
『はい、ジュリアン殿下。微力ながら、殿下のお支えとなれるよう精一杯努めさせていただきますわ』
それからの六年間、アイリスは、周囲の期待を一度も裏切らなかった。
どんな場でも微笑みを絶やさず、身分を問わず誰にでも優しく接する。
いつしか彼女は『オレーシアの聖母』と呼ばれるようになり、誰もがジュリアンの隣に並ぶにふさわしい唯一の存在だと称えた。
ジュリアンは、政略結婚とはいえ、大切な伴侶として一生守り抜こうと決めていた。
ただ、それは恋というより、信頼できる婚約者への敬意に近かった。
彼女とは、良くも悪くも波風の立たない関係になるはずだったのだ。
だが、今日。
その関係は、いとも容易く、しかも斜め上の方向へとぶち壊された。
「あいつ、俺と張れるくらい猫かぶってたんだな」
ジュリアンは窓の外を見つめたままそう呟くと、思わず笑いだす。
中庭で『人間がいないモフモフの安全地帯に帰してー!』と顔を真っ赤にして泣き叫んでいた姿。
執務室の壁と観葉植物の隙間に張り付き、『隠れて気配を消すことだけは得意なんです』と、どこか誇らしげに胸を張っていた姿。
とにかく布団が好きらしく、帰りの馬車の中でも、ひたすらに布団への愛を語っていた姿。
どれもこれも、この六年間で一度も見たことのないアイリスの顔だった。
「……それにしても、あの顔はズルいよな」
『俺の前でだけは、もう自分を作らなくていい』と告げた時。
アイリスはいつも見せている慈愛に満ちた微笑みではなく、心底嬉しそうな、ふにゃりとした気の抜けた笑顔を見せたのだ。
あの瞬間の彼女の無防備な笑顔は、ジュリアンの目を引き付けた。
妙に放っておけない気持ちに駆られて、柄にもなく素で頭を撫でていた。
自らの衝動的な行動を思い出し、ジュリアンは照れ隠しのように乱暴に自分の頭を掻き回す。
もちろん、これまでも周囲に仲の良い婚約者をアピールするため、公の場で彼女の手を取ったり、甘い言葉を囁いたりといったスキンシップを取ることは日常茶飯事だった。
しかしそれは、あくまで計算された演技に過ぎない。
あんな風に、純粋な衝動のままに触れたことなど、ただの一度もなかったというのに。
「…………」
自分の中に芽生えた名状しがたい感情に、ジュリアンは言葉にならないまま空を仰いだ。
六年間、アイリスはずっとあの息の詰まる仮面を被って、ジュリアンの隣で無理して笑っていたのだろうか。
そう思うと、胸の奥がチクリと痛んだ。
お互い重すぎる期待に応えるために、息を殺して生きてきた似た者同士だ。
彼女が今日見せた、泣いて怒って、布団への愛を叫ぶあの人間臭い素顔が、ジュリアンにはたまらなく魅力的に映った。
だからこそ、ただの政略結婚の相手ではなく、彼女のことをただのアイリス・レンフェルトという一人の人間として、もっと深く知りたい。
そして彼女にとっても、自分の隣が布団の国に負けないくらい、息のしやすい場所になればいい。
そんなことを考えながら、ジュリアンはどこか優しげな笑みを浮かべた。




