5.布団の国への帰還
ジュリアンによって王家の馬車で送られ、レンフェルト公爵家の屋敷に帰り着くと、両親が満面の笑みでアイリスを出迎えてくれた。
「おかえりなさい、アイリス!」
「ごめんなさい、お母様。遅くなってしまって。その……殿下と少し、お話をしてて」
一応遅くなる旨は伝えてはいたが、普段よりも一時間は遅い。
しかし、アイリスの母であるケイトリンは、小言を言うどころか嬉しそうに頬を緩めた。
「ええ、聞いているわ! ジュリアン殿下が『もう少しアイリスとの時間を楽しみたい』と仰って、引き留めてくださったそうじゃないの!」
「……え?」
思わず間抜けな声が漏れたアイリスに対し、今度は父であるジョセフが、ほっほっと人の良さそうな笑みを浮かべて頷いた。
「『夜会が終わった後、二人きりで、王宮の最上階の執務室から王都の美しい星空を眺めたい』とは。ジュリアン殿下も、なかなかどうして情熱的でロマンチックなお方じゃないか」
「星空……?」
どうやらジュリアンは、アイリスの帰りが遅くなる理由をレンフェルト公爵家には「婚約者同士、もう少し二人きりで星空を見て過ごしたいから」と伝えていたらしい。
確かに場所は執務室だったが、逢瀬の理由に微塵もロマンチックな要素は含まれていない。
そもそも、開け放たれた窓から見えたのは美しい星空などではない。
アイリスが見ていたのは、夜の闇よりもずっと気怠げで、すべてを拒絶するような重苦しいオーラを放ち、酒を煽るジュリアンの姿だけである。
「本当に、お二人の仲が深まっているようで何よりだわ。さすがは『奇跡のつがい』ね!」
完全に勘違いをして喜ぶ両親だが、今のアイリスにとって、二人の誤解などどうでもよかった。
なぜなら今日は、王都でも最高峰の職人が仕立てた、特注の超高級ふかふか羽毛布団が届いているはず なのだ。
職人の元まで足を運び、実際に見本品にも触ってみたが、雲のように軽く、マシュマロのように柔らかい究極のモフモフがそこにはあった。
まさに天国。
あの布団に包まれるために今日一日頑張ったようなものだ。
これからすぐにお風呂に入って、最高級の香油でいつも以上に念入りに体を清めて、一塵の汚れもない神聖な状態で、モフモフの海へダイブする予定である。
アイリスが限界寸前の表情で玄関ホールを見渡すと、一人の女性が早足でやってきた。
アイリスより二つ年上の侍女、クララ・ベアトリスである。
伯爵家の三女である彼女は、いつでもハキハキとした頼りになる女性だ。
アイリスの本性を完全に把握し、毎朝ベッドにしがみつくアイリスを物理的に引っぺがして完璧淑女に仕立て上げている、猛獣使いならぬ陰キャ使いのプロフェッショナルである。
「お帰りなさいませ、お嬢様。お顔の色からして限界が近いですね」
「クララ……!」
「ご安心ください。お風呂の準備も、極上の香油のブレンドもバッチリ終わっております。そして何より……ご所望だった『あの子』も、ベッドの上でふっかふかに膨らんでお嬢様をお待ちですよ」
クララが放ったその言葉に、アイリスの瞳にパァァッと光が宿った。
「すぐにお風呂に行くわ!」
アイリスはドレスの裾をひっつかみ、急いで浴室へと向かった。
クララの完璧なサポートにより、アイリスは猛スピードで湯浴みを済ませ、最高級のローズの香油で肌を整える。
そして一塵の汚れもない、真に神聖な状態へと仕上がったアイリスは、輝く瞳で自室のベッドへと飛び込んだ。
「き、きたぁぁぁぁぁーーっ!!」
アイリスの歓喜の絶叫が、寝室に響き渡る。
特注の超高級羽毛布団……それはまさに、天上の雲をそのまま切り取ってきたかのような、究極のモフモフだった。
「軽い! 柔らかい! なのに温かい! ああ……最高……生きててよかった……!」
アイリスは布団に全身を包み込み、そのままベッドの上をごろごろと転がり回る。
「これは人をダメにする! 私、もう一生この中から出ない! 明日からの王妃教育なんて全部ボイコットして、この布団と結婚するー!」
すっかり本性丸出しの顔に戻って至福の時を味わうアイリス。
その傍らでクララが、
「はいはい、明日の朝までは存分に布団と戯れていてもらって構いませんので」
と呆れたように笑いながら、翌日のドレスの準備をしている。
「それで、お嬢様。本日のジュリアン殿下との星空デートは、いかがだったのですか?」
「!?」
クララの突然のフリに、布団の中でゴロゴロしていたアイリスの動きがピタリと止まる。
さすがに秘密の共犯協定のことなど、言えるはずがない。
「え、あの、その、窓から一緒に星を見て、殿下が『君の瞳に映る星空が一番綺麗だ』って、私の手を握って、それから二人で並んで……」
しかし、前世の少女漫画の知識と、これまで実際に表のジュリアンにされたことを思い出して記憶を総動員したとはいえ、実は恋愛経験ゼロのアイリスがひねり出せる捏造エピソードには限界があった。
これ以上語ればボロが出ると判断したアイリスは、サッと布団を顔の下まで引き上げ、少し恥じらうように見せかけた声色を作る。
「こ、ここから先は……私とジュリアン殿下だけの、二人だけの秘密だから」
「あら」
その言葉にクララは手を止め、ふふっと微笑ましそうに目を細めた。
「そうですね。お二人は婚約者同士なのですから、これ以上お聞きするのは野暮というものでしょう。失礼いたしました」
あっさりと引いてくれたクララに、アイリスは心の中で安堵の息を吐き出す。
同時に、極度の緊張から解放されたことで、一日中張り詰めていた疲労がどっと全身に押し寄せてきた。
「はあ。今日はもう色々と限界……というわけで、おやすみなさいクララ」
「お嬢様。まだ明日の朝食のご希望を聞いておりませんよ」
「あ、そうだったわね。ええと……」
布団から顔だけを出したアイリスは、今日一日のストレスを思い出し、脳が求めるままに答えた。
「そうね、胃粘膜が焼けるような真っ赤な激辛スープと、それから……」
「却下です。いつも通り胃に優しい朝食にしておきますね」
「……私の激辛」
アイリスは前世からずっと、辛い料理が大好きだった。
世界一辛いと言われる唐辛子を、生のまま食せる舌と消化器官を持ち合わせているほどで。
しかしながらクララの容赦ない返しに、アイリスは悲しげに呻きながら再び布団の奥底へと潜り込んだ。
「それでは、ゆっくりお休みくださいませ」
クララの声と共に、ドアの閉まる音が聞こえる。
一人きりの、完全な安全地帯。
特注の超高級羽毛布団の温もりに包まれながら、アイリスはほっと息を吐いた。
――思い返せば、今日の夜会は本当に散々だった。
建国記念の夜会というだけあって、集まっていた貴族の数は普段の比ではない。
そのうえ、王宮内でも大きな影響力を持つ宰相デイモンは、終始、笑顔の裏に棘を隠したような言葉をジュリアンへ投げかけていた。
若くして様々な改革を進めようとするジュリアンのことを、彼は快く思っていないらしい。
そもそもデイモンには、以前から黒い噂が絶えない。
汚職、不正な金の流れ、裏社会との繋がり……。
けれど、どれもこれも決定的な証拠は出てこない。
誰もがデイモンは何かやっていると感じていながら、誰一人として尻尾を掴めずにいるのだ。
そんな彼を何とかしようとしているジュリアンの姿勢を、アイリスも知っていた。
だからこそ、デイモンはあんなにもジュリアンに執拗なまでに攻撃してくる。
隣にいたアイリスにも、それは嫌というほど伝わってきた。
アイリス自身もまた、デイモンから「随分と愛想だけはよろしいようで」などと嫌味を言われ、聖母の微笑みを保つだけで精一杯だったのだ。
きっとジュリアンも、中庭に出てきたあの時、すでに限界だったのだろう。
と、ふとジュリアンの言葉が蘇る。
『俺の前でだけは、もう自分を作らなくていい。無理して笑う必要もないし、泣き叫びたいなら好きにしろ』
まさかジュリアンと秘密を共有することになるなんて思わなかった。
けれどこの仮面の下の自分を隠さなくてもいい相手が新たにできたことは、思いのほかアイリスの心を軽くしていた。
同時に、ジュリアンにも、少しは肩の力を抜ける場所があればいいのにと思った。
少なくとも、窓枠で酒を煽るよりは、ふかふかの何かに身を預けてストレスを緩和させる方が体にも絶対にいい。
……例えば執務室の椅子に置けるようなクッションとか。
モフモフの布団の感触と、少しだけ温かくなった胸の奥の余韻に身を委ねながら、アイリスは、泥のように深い眠りへと落ちていくのだった。




