44.ご褒美の一日
――そして、現在。
「アイリス、寒くはないか?」
「は、はい……とても、あったかいです」
「なら良かった。ほら、お腹空いてるだろう。口開けろ」
「うっ、あ」
「あーん」
「っ、あ、あーん」
アイリスは今、ジュリアンが王宮内に用意させたアイリス専用の特別室で、雲のようにふかふかな最高級の羽毛布団に包まれていた。
しかもその布団は最近新しく出たばかりのもので、アイリスが試してみたいと思っていた品だった。
おそらくクララにでもリサーチしたのだろう。
極上の微笑みを浮かべてアイリスの世話を焼いているのは、他でもない、ジュリアンだ。
彼は現在、アイリスが愛してやまない激辛おやつを指でつまみ、至近距離からアイリスの口へと直接運んで『あーん』をしている真っ最中である。
アイリスがもぐもぐと咀嚼し、少しでも喉が渇いた素振りを見せれば、絶妙な温度に保たれたお茶や、冷たい果実水がサッと口元に運ばれてくる。
部屋の温度が少しでも変化したと察すれば、ジュリアン自らこまめに窓を開け閉めし、ふかふかの布団を薄掛けのものに取り替えて温度調節を行う徹底ぶりだ。
少しうとうとしてくると、すかさず頭をふかふか枕の上に置き、布団越しにアイリスの体を優しくトントンしてくれる。
それだけではない。
ジュリアンはアイリスの髪を優しく梳いて丁寧に整えたり、アイリスの手に高級な香油を塗り込みながらマッサージをしてくれたりと、ありとあらゆる手段で彼女をケアしていく。
少しの移動の際には、
「さすがに布団ごとは持ち上げにくいな」
と言いながら、薄手のブランケットでアイリスをくるみ直し、当然のようにお姫様抱っこで運ぶ。
退屈そうにしていればすぐさま本を持ってきて、アイリスが文字を目で追わなくてもいいように読み上げてくれる。
……まさに、呼吸以外のすべてを代行してくれる至れり尽くせりの、甘やかしフルコースである。
彼はあの巨大派閥が崩壊したことによる山のような事後処理の政務を、わずか数日で文字通り徹夜で粉砕し、強引に丸一日の休暇をもぎ取ってきたのである。
――すべては、アイリスを全力で甘やかすためだけに。
最初のうちは、緊張感の方が強くて全然安らげていなかったのだが……。
さすがは甘やかしのエキスパートのジュリアンである。
彼の触れ方や声のトーンはどこまでも優しく、安心感に満ちていた。
そのため、まだ半日も経っていないというのに、アイリスの精神は早くもジュリアンの甘やかしに完全に陥落しつつあった。
温かくて、心地よくて、何も考えなくてよくて、このままずっとこうして甘やかされていたい――恐るべき手腕である。
何より、アイリスのお世話をしているジュリアン自身が、心の底から楽しそうで、表の完璧な王太子の顔以上にキラキラと輝いているのだ。
その嬉しそうな顔を見ていると、アイリスまで少し嬉しくなってしまう。
だが、至近距離で見つめ合うアイリスは、気がついてしまった。
笑顔を浮かべるジュリアンの目の下に、うっすらとしたクマができていることに。
「……あの、ジュリアン殿下。せっかく殿下もお休みを取れたのですから、私の世話ばかりしないで、殿下も休まれた方が……」
アイリスが心配して声をかけると、ジュリアンはきょとんとした後、ふわりと微笑んだ。
「俺はいいんだ。こうしてアイリスを甘やかしているだけで、疲れなんて全部吹っ飛ぶからな。それにアイリスが心地よさそうにしてくれているのが、俺にとって一番の癒しなんだよ」
「うっ……」
あまりにもストレートな表現に、アイリスはむず痒くなって頬を熱くした。
しかし。
そうは言うものの、絶対に疲れているはずである。
とはいえ、アイリスが休めと言っても、きっと聞いてくれない。
どうすれば……。
とここで、ある考えを思いつく。
――そうだ、つまり自分が、ジュリアンも一緒に休めるような甘やかしをおねだりすればいいんだと。
アイリスは羞恥心に身をよじらせながらも、ギュッと布団を握りしめ、上目遣いで彼を見上げた。
「あ、あの。では……その、もう少しだけ、甘やかしていただいてもいいですか?」
「もちろんだ。何をしてほしい?」
甘やかせるのが楽しくて仕方ないと輝いた目を向けてくるジュリアンに、アイリスは思い切ってそれを口にする。
「そ、添い、……添い寝を、してほしい、です!」
「…………」
予想外のおねだりだったのか、ジュリアンは時間が止まったかのようにピタリと固まった。
そして彼の首筋から耳の先、そして整った顔全体へと、じわじわと熱を持つように朱色が広がっていく。
ジュリアンの反応を見て、アイリスは慌てて言葉を足す。
「え、ええと、もちろん変な意味ではなくて! 殿下が隣にいてくれたら、もっと安心してゴロゴロできるなって……!」
アイリスが慌ててベッドの端に寄り、自分の隣のスペースをポンポンと叩く。
必死な弁明を聞いたジュリアンは、口元を手で覆って天を仰ぎ、何かを必死に堪えるように深呼吸をした。
「ああ、そういうことか」
手のひらの奥で、小さく呟かれた声。
ジュリアンはほっとしたような、それでいて、どこかほんの少しだけ残念そうな顔をした。
だがそれも一瞬のことで、彼はすぐにいつものニコニコとした極上の笑顔を浮かべる。
「アイリスがそう望むなら、喜んで」
ジュリアンは靴を脱ぐと、アイリスの隣にそっと横たわった。
そして、布団の中で固まっているアイリスを見て、ふっと柔らかく笑う。
「……本当は、俺の方が甘やかされてるのかもしれないな」
「え?」
「アイリスがこうして隣にいて、安心した顔をしてくれるだけで、俺は救われる。だから、これは俺にとってもご褒美なんだなと」
優しい声でそう言われ、アイリスは布団の中で息を詰める。
胸の奥がじんわりと温かくなるのと同時に、心臓が隣のジュリアンに聞こえそうなほどに、うるさく音を立てる。
けれど、不思議と逃げたいとは思わなかった。
「……私も、です」
ジュリアンがわずかに目を見開く。
アイリスは布団を握りしめながら、しどろもどろに言葉を続けた。
「殿下が隣にいてくれると、その、すごく安心します。安心するのに、心臓はドキドキして……でも怖いわけじゃなくて。えっと、うまく言えないんですけど」
自分でも何を言っているのか分からなくなりながら、アイリスは真っ赤な顔で小さく笑った。
「とにかく今、私、すごく幸せだなって思ったんです」
その瞬間、ジュリアンの呼吸がわずかに止まった。
「……アイリス、それは」
低く掠れた声で何かを問いかけようとして、けれど彼は途中で言葉を飲み込むと、熱を帯びた顔を隠すように片手で目元を覆う。
「いや……なんでもない」
「?」
「今聞いたら、たぶん俺が都合よく受け取りたくなる」
「つ、都合よく……?」
意味を理解しきれずに目を白黒させるアイリスを前に、ジュリアンは手を離すと困ったように笑った。
「アイリスが幸せなら、俺も十分だってことだ」
その笑顔に、アイリスの胸がさらにドキンと跳ねる。
わずかに赤くなった顔を隠すように布団を顔の半分まで上げたアイリス。
そんな彼女にジュリアンは顔を向けると、まるで大切な宝物でも見るかのように、目を細めて柔らかく微笑んだ。
見つめられているだけで熱で溶けてしまいそうな瞳に、アイリスが内心でパニックを起こしていると、ジュリアンはふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、まだ礼を言ってなかったな。前にアイリスに勧められた寝具一式、ものすごく良かった。おかげで最近は寝付きがいいんだ」
「っ!? 殿下にもあの素晴らしさが伝わっていてよかったです! ですが、今回殿下がここに用意してくださったこのお布団も、私が愛用しているものに負けず劣らず素晴らしいです。 やはりお布団は世界を救うんです。 さあ、殿下もぜひともこの最高級の感触を味わってみてください!」
布団への愛が顔を出したアイリスが、顔を隠していた布団から身を乗り出して熱弁を振るう。
ジュリアンは声を出して笑い、「そうだな」と優しく相槌を打った。
「じゃあ、アイリスがこの最高の布団で夢の世界に旅立てるように、眠るまで子守唄でも歌おうか」
そう言うなり、ジュリアンが布団の上からアイリスのお腹のあたりを、絶妙なリズムで優しく叩き始めた。
ジュリアンが静かに紡ぎ出したのは、オレーシア地方に古くから伝わる子守唄だった。
まるで温かいミルクに蜂蜜を溶かしたような、低く甘い声。
それが耳元で優しく振動し、アイリスの鼓膜だけでなく心臓の奥まで直接響いてくる。
子守唄なんて幼子みたいな扱いをしないください……そう抗議しようとしたアイリスだが、あまりの心地よさに何も言えず、意識が急速にまどろみ始める。
だがジュリアンのことだ。
アイリスが眠ったからといって、自分も隣で大人しく休むとは到底思えない。
きっと、寝苦しくないか布団を掛け直したり、髪が頬にかかっていればそっと払ったり、喉が渇いた時のために飲み物を用意したり、果ては寝顔を眺めながら瞬きもせずに見守り続けたりするに違いない。
このままでは寝落ちしてしまう……!
慌ててアイリスは目をこれでもかというほどに大きく見開くと、声を上げた。
「で、殿下、そ、それはしなくていいので! 普通にお話ししましょう! 私、今はそっちの気分っていうか、その方が眠れそうというか!」
「ん? そうなのか。分かった」
アイリスが慌てて止めると、ジュリアンはぽつりぽつりと、他愛のない日常の話を始めた。
「そういえば、あの激辛の店に、新作が出たらしい」
「それ本当ですか!?」
「ああ、だから今度、また食べに行こう。それから、ジャックの奴が……最近胃薬の減りが早くて困るとぼやいていた」
「そういえばジャック様、よくお薬飲んでいますもんね」
「んで、それを聞いたクララが……特製の胃薬を煎じてくれたらしいんだが、それがまたとんでもなく苦いらしくて…… 」
穏やかな声音で紡がれる、平和な日常の会話。
だが、その声は次第にゆっくりと、静かになっていく。
「……クララが、わざと苦くしたんじゃないかって……ジャックが……」
「ふふっ。クララなら、やりかねませんね。だけど効き目はこの私が保証します」
「.ああ……そう、だな……。ジャックも……休ませて、やらないと……」
「はい。殿下も、ジャック様も、それにクララも、本当にたくさん頑張ってくれましたから」
「……でも、俺、より、アイリス一番……頑張って、くれて……」
最後にそう小さな声がこぼれ落ちた後、言葉が完全に途切れた。
アイリスがそっと隣を見ると、ジュリアンは安心しきった顔で、静かな寝息を立てていた。
やはり彼も限界だったようだ。
目の下にクマを作ったまま、無防備な寝顔を見せるジュリアン。
アイリスはほっと安堵の息を吐き、布団の中からそっと手を伸ばして、彼の前髪を優しく撫でた。
ジュリアンが休んでくれたことに安心すると、アイリスにも強烈な睡魔が襲ってくる。
過保護な婚約者の規則正しい寝息を子守唄に、アイリスもまた、最高級の羽毛布団の中で幸せな夢の世界へと落ちていくのだった。




