45.逃亡者からの手紙
あの一日中お布団で甘やかされた最高のご褒美の日から、さらに数日が経った。
心身ともにすっかり回復し、アイリスはいつもの、忙しくも平和な日常を取り戻しつつあった。
ただ、以前と明確に違っていることが一つだけある。
それは、毎朝「起きたくない」「ずっとお布団にいたい」とベッドにしがみつくことがなくなったことだ。
自分が立派な王妃にならなければ、ジュリアンにまたすべての重圧を背負わせてしまう。
少しでも彼の重い荷物を半分持てるように、早く王妃教育を終わらせなければ。
そんな熱い気持ちに燃えているアイリスは、毎朝やる気満々でスッキリと目覚め、前向きに公務や教育に取り組んでいる。
もちろん、名残惜しげに羽毛布団を撫でてから起き上がる程度の未練はあるが、それでも以前に比べれば驚くほど前向きに、公務や教育へ取り組んでいる。
……それでも限界まで疲れた時には、ジュリアンの執務室へと逃避するのは相変わらずなのだが。
そんなある日、アイリスが公爵邸の自室で紅茶を飲みながら寛いでいると、クララが一通の封筒を運んできた。
「お嬢様。差出人不明の郵便物が届いておりました。封筒も開き、毒物や危険物の検査は済ませておりますが」
「あら、熱烈なファンレターかしら? なんちゃって」
オレーシアの聖母として、アイリスの元には日々多くの手紙が届く。
冗談めかして笑うアイリスだったが、ふと、クララの表情がいつもより硬いことに気がついた。
「クララ? どうしたの?」
「念のため、手紙の中身も確認させていただきました。即座に燃やしてしまおうかとも思いましたが……。これは、お嬢様が直接確認しておくべきだと判断いたしました」
あの常に冷静沈着なクララが、微かに眉を潜め、歯切れ悪く口ごもっている。
アイリスは急に胸騒ぎを覚え、ゴクリと生唾を飲み込んでから、クララの差し出した封筒を受け取った。
すでに開かれている封筒から、中身の便箋をそっと引き出す。
中から出てきたのは、微かに芳醇な薔薇の香りが漂う、真っ赤な便箋だった。
そこに記されていたのは、流麗な筆跡で書かれた、たった数行の短いメッセージ。
『――あの日はとても楽しい夜だったわね。完璧な悪女の仮面を被った、愛らしい聖母様。 あなたのこと、お父様やあの番犬以上に、心底気に入ったわ。 次はもっと刺激的な盤面を用意しておくから。 ……また一緒に、遊びましょうね』
「――っ!!」
その文章を読んだ瞬間、アイリスの全身の血の気がサッと引いた。
差出人の名前はない。
だが、誰からの手紙であるかは、一目瞭然だった。
あの、底知れない狂気を孕んだ赤い瞳が、アイリスの心臓をぎゅっと鷲掴みにする。
手紙を持つ手がガタガタと震え、アイリスは今すぐ最高級の羽毛布団に潜り込んで現実逃避をしたくなった。
だが――このまま布団へ逃げても、事態は解決しない。
アイリスは震える手をもう片方の手でギュッと握りしめ、己を奮起させた。
こんな不気味な宣戦布告を突きつけられた今、すべきことは現実逃避ではない。
情報を共有するため、共に立ち向かってくれるジュリアンの元へ行くことだ。
「クララ、馬車の用意をお願い。今すぐ王宮へ向かうわ」
恐怖を押し殺して毅然と命じたアイリスに、クララは深く一礼した。
――それから一時間後。
王宮の最上階にある執務室で、アイリスから手渡された真っ赤な便箋を読み終えたジュリアンは、地を這うような、絶対零度の声で呟いた。
「……なるほど。どこまでも俺を苛立たせるのが上手い女だな」
その瞳には、ロゼッタに対する冷酷な殺意のようなものが渦巻いていた。
手紙の内容に対する怒りからなのか、ジュリアンは完全に表の王太子の仮面が剥がれ落ちている。
アイリスがハラハラして背後のクララを振り返ると、常に冷静沈着な彼女も、ジュリアンのあまりの豹変ぶりに一瞬だけ目を丸くして驚いていた。
クララも以前、護衛の姿での彼のガラの悪い口調は聞いている。
あれはただの演技だと思っていたはずだが、今のジュリアンを見て大方の事情は察したようだ。
だが、さすがは有能な侍女である。
クララはすぐに何も見ていないというように表情を戻し、ただ静かにジャックの隣で壁際で控えている。
アイリスが再び視線を戻すと、ジュリアンが立ち上がり、アイリスの目の前へと歩み寄ってきた。
ロゼッタの影を感じ、不安で無意識にギュッと両手を握りしめていたアイリスだが、そんな彼女の震える手を、ジュリアンの大きくて温かい手が優しく包み込んだ。
「ジュリアン殿下……」
「アイリス」
彼はアイリスの肩を抱き寄せると、震える彼女の背中を、自らの胸にすっぽりと隠すように力強く抱きしめた。
「恐れる必要はない。ロゼッタがどんな盤面を用意しようと、アイリスには絶対に指一本触れさせない。俺が必ず、すべて叩き潰す」
それはアイリスを何が何でも守り抜くという、彼らしい底なしの過保護さが詰まった頼もしすぎる誓いの言葉だった。
その温もりと声に、アイリスの胸の奥で暴れ回っていた恐怖がすっと溶けていく。
けれどアイリスはただ守られるだけのお姫様でいるつもりは、毛頭なかった。
アイリスは、自分を包み込むジュリアンの胸の中からそっと顔を上げた。
「殿下、すべてあなた一人で叩き潰すだなんて、駄目ですよ。重い荷物は半分こにするって約束したじゃありませんか」
確かにまだ頼りないし、今回の件では恐怖で泣いてしまったうえに、気力を回復するのにも時間がかかった。
だが、だからこそもっと強くなりたいし、彼の隣に立つために頑張りたいのだ。
アイリスはそんな決意を込め、自分の肩を抱いていたジュリアンの大きな手を両手でしっかりと握りしめた。
「だから次にどんな盤面が来ても、二人で一緒に乗り越えましょう!」
悪女でも聖母でもない、彼女本来の等身大の柔らかな笑みを浮かべて、力強く頷く。
その頼もしい返答に、ジュリアンは一瞬目を瞬かせた後、どこか困ったような、観念したような溜め息を小さくこぼした。
「 俺としては、お前にこれ以上無理はさせたくないんだが。……まあ、そういう約束だったしな」
「はい!」
「なら、頼りにしてる」
ジュリアンが柔らかく笑い返し、彼女の小さな両手を同じくらいの力でギュッと握り返した。
いずれまた、ロゼッタと対峙する日が来るのかもしれない。
けれどその恐怖に負けたくないと言わんばかりに、アイリスはジュリアンの温かい手に自分の手を重ねたまま、まだ見ぬ未来へ向けて、静かに、けれど確かな決意を込めて微笑んだ。
ここでいったん第一部終わりです。
(すみません、一部で終われませんでしたが……二部で終了予定です。またぼちぼちあげていきます。)




