40.最強の王子と泣き虫な聖母
「な、なんだ!?」
「ひぃっ!?」
土煙が舞う中乱入してきたのは、ジャック率いる完全武装の騎士団だった。
銀色の鎧がシャンデリアの光を反射し、圧倒的な威圧感で会場を包み込む。
「その場から動くな! 違法オークション、並びに人身売買の現行犯で、この場にいる全員を拘束する!!」
ジャックの号令とともに、騎士たちが怒涛の勢いで雪崩れ込んでくる。
阿鼻叫喚のパニックに陥る参加者たちを前に、アイリスとジュリアンは静かに自らの仮面に手をかけた。
二人が同時に仮面を外した、まさにその刹那。
ビリッ、と空気が凍りついたように、騒乱に包まれていた会場が嘘のように静まり返った。
全員の視線が、中央に立つ二人に吸い寄せられる。
そこに立っているのは、紛れもなく誰もが知る王太子ジュリアンと『慈愛の聖母』の顔をしたアイリスだった。
アイリスの顔からは冷酷な悪女の気配が消え去り、ジュリアンもまた、荒々しい姿を完全に捨て去っていた。
だが、現れたジュリアンは、普段纏っているような温和でキラキラとした王太子とは少し違っている。
罪人を断罪する、氷のように冷たく絶対的な支配者のオーラを放っていたのだ。
「――王太子である私が、実際に違法取引の現場をこの目で確認しました。最早、いかなる言い逃れも許されないと思ってください」
表向きの柔らかい物言いのまま、どこまでも冷酷に響くジュリアンの声に、貴族たちが絶望で顔を引き攣らせる。
静寂が破れると同時に、会場は再び阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
悲鳴を上げて参加者たちが逃げ惑うも、即座に取り押さえられている。
「アイリス様!? まさか、あなたが騎士団を手引きしたのか!」
「どこが慈愛の聖母だ、この裏切り者の悪女め!!」
拘束されながらも唾を飛ばして罵ってくる貴族たちに対し、アイリスは悲しげに目を伏せ、慈愛に満ちた聖母の微笑みを浮かべた。
「……本当は、皆様が自ら過ちに気づき、改心してくださることをずっと祈っておりましたわ。ですが、これ以上罪を重ねられるのを見過ごすわけにはいきません。本当に、残念です」
そう答えていると、突然場違いな笑い声が聞こえてきた。
混乱のさなかにあっても、その声は異様なまでによく響く。
声の方へ顔を向けると、そこにいたのは、騎士によって両腕を拘束されたロゼッタだった。
逃げることも不可能なこの状況であるにもかかわらず、仮面が落ち素顔を晒している彼女の顔には、なぜか美しくも愉悦の笑みが浮かんでいた。
「何がおかしいのですか?」
アイリスは悪女ではなく、元の聖母の仮面でロゼッタと向き合う。
ロゼッタの底知れない赤い瞳には、絶体絶命の窮地に立たされた焦りや恐怖など微塵も存在していなかった。
むしろ、自分が破滅するこの状況すらも極上の娯楽として消費しているような狂気がある。
「ふふっ、あははっ、見事だわ。まさか、この私の目をここまで完全に騙し切るなんてね」
ロゼッタは拘束された状態のまま、アイリスに向かって口角を吊り上げる。
「それにあなたが犬と呼んでいた男が、ジュリアン殿下だっただなんて。近年まれにみる、本当に素晴らしい余興だったんだもの。笑って当然でしょう?」
こんな状況でも楽しそうに微笑むロゼッタの異常性に、アイリスは背筋が凍るような悪寒を覚えた。
だが、絶句している暇はない。
アイリスははっと我に返り、すぐに周囲を見渡す。
ロゼッタや他の貴族たちは捕らえた。
だが肝心の、一番の親玉の姿が見当たらなかった。
騎士たちは参加者の拘束と、ステージ上の青年の保護に追われている。 ジュリアンもまた、混乱する会場の中心で次々と指示を飛ばしていた。
そしてアイリスの視線が、いち早くステージ裏へ一人で逃げ込もうとしているデイモンの姿を捕らえる。
周囲に向かってデイモンの逃亡を知らせようと声を張り上げるが、周囲のざわめきでかき消されてしまう。
その間にも、デイモンの姿は視界から消えようとしている。
アイリスの中で、恐怖よりも正義感が勝った。
彼女はドレスの裾を掴んで勢いよくデイモンの方へと駆け出していた。
そして、薄暗いステージ裏の人気のない廊下へと飛び込む。
「お待ちください、デイモン様!!」
アイリスの声に、逃げかけていたデイモンが弾かれたように振り返った。
「外はすでに騎士団で完全に包囲されていますし、すべての逃げ道も塞がれています。これ以上足掻いても無駄です」
アイリスが毅然と言い放つと、デイモンの顔に浮かんでいた絶望の色が、なぜかピタリと止まった。
彼はアイリスの背後に誰もいないことを確認すると、突如としてその顔に醜悪な笑みを浮かべる。
「……いや、まだ勝機はある」
「え?」
アイリスが怪訝に思ったその直後、逃げていたはずのデイモンが驚くべき速度で反転し、猛然とこちらへ向かってきた。
その右手には、いつの間にかギラリと光る鋭い短剣が握られている。
当然アイリスには、戦うスキルは備わっていない。
逃げ出す暇もなかった。
デイモンの太い腕が彼女の首に乱暴に巻き付き、もう片方の手が冷たい短剣をアイリスの喉元にピタリと突きつけたのだ。
「っ……!」
ちょうどその時、数人の騎士たちが追いついてきた。
「動くな! 少しでも近づけば、この女の首を掻き切るぞ!!」
しかしデイモンの怒声が響き渡り、制圧に動いていた騎士たちの動きがピタリと止まる。
いくら逃がしたくなかったとはいえ、足手まといのテンプレ人質になってしまった。
己の間抜けさと喉元に押し当てられた冷たい刃の感触に、アイリスの顔から血の気が引いていく。
デイモンはアイリスを盾にしてジリジリと後ずさりながら、勝ち誇ったように言い放った。
「ふん、愚かな小娘が自ら極上の盾になってくれるとはな。教えおいてやろう、この奥には私専用の隠し通路があるのだ。貴様を連れて行けば確実な人質になるし、いざという時の盾にもなる」
だが、デイモンがそう言い終えるや否や、
「私の最愛に気安く刃を向けるとは。――万死に値しますよ、下衆が」
氷点下まで冷え切った地を這うような低い声が、追いついてきた騎士たちの間から響いてきた。
声の主は、ジュリアンだった。
けれど、ギリギリのところで丁寧な口調を保っているが、その瞳には相手を八つ裂きにしかねないほどの明確な殺意が渦巻いていた。
「なっ、貴様、少しでも動けばこの女の首を――」
デイモンが怒鳴ろうとして驚愕に目を見開いたのと、ジュリアンが動いたのは同時だった。
瞬きをする間すらなくジュリアンがデイモンの懐に飛び込み、アイリスの首に回されていた腕をボキッと容赦なくへし折った。
「グアァァァッ!?」
デイモンが絶叫して短剣を取り落とす。
ジュリアンはアイリスの腰を抱き寄せて奪い返すと同時に、ガラ空きになったデイモンの胴体に容赦のない蹴りを叩き込んだ。
鈍い衝撃音とともに、デイモンの巨体だけが鞠のように廊下の奥へと吹っ飛び、壁に激突して無様に崩れ落ちる。
あまりにも一瞬の出来事にアイリスが目を白黒させていると、ジュリアンはアイリスを羽毛を扱うような優しさで自分の胸の中へと匿った。
「あ……で、殿下……」
「遅くなってすみません。怪我はありませんか、アイリス」
震えるアイリスの背中を、ジュリアンが片手でしっかりと抱きしめる。
「捕らえろ! 絶対に逃がすな!」
直後、通路になだれ込んできた騎士たちが、壁際で呻いているデイモンに素早く群がり、幾重にも拘束を施した。
一国の宰相が情けない姿で騎士たちに両脇を抱えられ、引きずられるようにして連行されていく。
やがて騎士たちの足音が遠ざかり、薄暗い廊下にはアイリスとジュリアンの二人だけが残された。
静寂が落ちた廊下で、アイリスはジュリアンの腕の中に収まったまま、恐る恐る口を開いた。
「あの……勝手に一人で追いかけて、ごめんなさい。私、結局足手まといになっちゃって……」
しゅんと目を伏せて謝罪するアイリスの頭上から、深く、重い、大きなため息が降ってきた。
アイリスの肩がビクッと跳ねる。
確実に呆れられたはずだ。
そして、絶対に怒らせた。
己の間抜けな行動を考えれば、当然だろう。
だが、自分の不甲斐なさにひどく落ち込み、アイリスがギュッと目を瞑ったと同時に、アイリスを包み込んでいたジュリアンの腕の力が、痛いほどに強くなった。
「……本当に、無事で良かった」
絞り出すような震える声にアイリスが驚いて顔を上げると、ジュリアンの瞳にはアイリスを気遣う感情と安堵の色が浮かんでいた。
けれどその後すぐ、ジュリアンは眉間に深いシワを寄せる。
「お前、自分がどれだけ無茶したか分かってるのか。あのまま首を掻き切られてたらどうするつもりだったんだよ」
「うっ……ごめんなさい……」
「本気で心臓止まるかと思った」
そう言うと、ジュリアンはアイリスの頭にコトンと額を押し付けた。
彼がどれだけ自分のことを心配してくれていたかが伝わってきて、アイリスの視界がじわりと滲む。
アイリスが申し訳なさに謝罪の言葉を口にすると、ジュリアンは顔を上げ、深い声でぽつりと呟いた。
「別に怒ってないし、謝らなくてもいい。それより、さっきは怖かっただろう」
「……っ」
頭を撫でるジュリアンの手つきは、驚くほど優しかった。
その甘く優しい声を聞いた瞬間、限界まで張り詰めていた緊張の糸が、完全に切れた。
これまでずっと押し込めていた恐怖が一気に溢れ出し、アイリスの目から涙がこぼれる。
「ぐすっ、ごめんなさい……怖かった、です……っ」
「ああ、よく頑張ったな。けどアイリスのおかげで、全部終わった」
アイリスはまるで小さな子供のように泣きじゃくりながらも、安心しきったようにコクリと頷き、最強の婚約者の温かい胸にギュッと顔をうずめた。




