39.最後の潜入
決戦当日、ボルトス公爵家の別邸の中庭の最奥で、アイリスはジュリアンと共に、静まり返った開かずの建物の前に立っていた。
恐怖と緊張感で胃を痛めながらも、アイリスは扇を手に取り、冷酷な悪女のオーラを全身に纏う。
参加者は素性を隠すことが義務付けられており、アイリスとジュリアンも目元を覆う精巧な仮面を身につけている。
そのため、今夜のジュリアンはジンとしての眼鏡をかけていないが、仮面のおかげで彼の正体を悟られる心配はない。
アイリスも常に完璧な悪女の表情を張り付けておかなくても済むため、内心少しだけほっとしていた。
蔦の絡まる重厚な扉の前には、闇に溶け込むように二人の屈強な見張りが立っていた。彼らは近づいてくるアイリスたちを油断なく睨みつけ、無言で道を塞ぐ。
すると後ろのジュリアンが懐から黒い封筒を出し、見張りの胸元へと突きつけた。
見張りが招待状が本物かどうかじっくりと検分し、無言で確認を終えると、恭しく一礼してから重々しい音を立てて扉を開いた。
その先にあるのは、地下へと続く長い螺旋階段だった。
「行くわよ」
「はっ」
彼の存在に背中を押され、アイリスはヒールの音を響かせながら地下へと降りていく。
一段降りるごとに、空気が変わっていくのが分かった。
冷たく淀んだ地下の空気に、むせ返るような甘い香の匂いと、アルコールの匂い、そして人の熱気が混ざり合ってくる。
やがて階段を降りきり、重い観音開きの扉を抜けた先――。
「ここは……」
アイリスは思わず足を止め、息を呑んだ。
そこは地下であることを疑うような、巨大で豪奢な空間だった。
天井からは幾つもの巨大なシャンデリアが吊り下げられ、眩いほどの光を放っている。
床には血のように赤い分厚い絨毯が敷き詰められ、壁際には高級な調度品が並んでいる。
集っているのは、着飾った令嬢や貴婦人、腹を揺らした貴族のようないで立ちの男や商人、裏社会の顔役とおぼしき者たち。
彼らは皆一様に仮面で顔を隠し、グラス片手に談笑している。
素性を隠しているという匿名性のせいなのか、声が大きく、下品な笑い声や生々しい欲望がむき出しになっていた。
会場の最奥には、一段高くなった豪奢なステージが設けられている。
ステージ前には、ゆったりとくつろげるベルベットのソファがいくつも並べられていた。
今はまだ重厚なカーテンが引かれているが、間もなくあの場所で様々な物が競り落とされるのだろう。
その異様で退廃的な雰囲気に、アイリスの足がすくみそうになった。
と、背後に控えていたジュリアンがさりげなく一歩前に出て、アイリスの肩に一瞬だけ触れた。
言葉はなくとも、そのわずかな温もりだけで、こわばっていたアイリスの肩からすっと力が抜ける。
アイリスは小さく息を吸い込み、ピンと背筋を伸ばして、欲望渦巻く会場の奥へと足を踏み入れた。
そのまま椅子へと移動して座っていると、ふいに聞き覚えのある声が鼓膜を揺らした。
「あら。本当に来たのね」
声のした方へ振り向くと、そこには普段と変わらない豪華な赤いドレスを纏った女が立っていた。
目元は豪奢な羽根飾りのついた仮面で隠されているが、その声と周囲を圧倒するような空気は、間違いなくロゼッタだ。
「ごきげんよう。あなたが素晴らしい催しだと教えてくださったから、今日を楽しみにしておりましたの」
「ここは退屈な倫理も道徳も存在しない、最高の遊び場よ。あなたもきっと気に入るはずだわ」
ロゼッタは愉悦に唇を歪め、アイリスの背後に立つジュリアンを一瞥した。
「相変わらず、その見目の良い犬も一緒なのね。だけど今日の商品を見たら、彼なんかすぐに捨てて新しいペットに乗り換えたくなるかもしれないわね」
「まあ! それは楽しみですわね」
アイリスは悪女の微笑を浮かべてみせる。
だが、内心ではロゼッタの言葉に冷たい悪寒を感じていた。
胃の奥がせり上がるような感覚を必死に抑え込んでいると、突如として、会場内に低く重々しい鐘の音が鳴り響いた。
カーン、カーン、と響くその音に、会場中のざわめきがピタリと止む。
同時に参加者たちの視線が、一斉に最奥のステージへと向けられた。
「始まるわ」
隣に座ったロゼッタが楽しげに呟くと、ステージを覆っていた重厚なカーテンが、左右にゆっくりと開いていく。
眩いスポットライトに照らされたステージの中央には、恰幅の良い、豪奢な服を着た男が立っていた。
「紳士淑女の皆様。今宵も我が秘密の夜会へようこそおいでくださいました。皆様の尽きることのない渇きを癒すため、本日も極上の品々をご用意しております」
その声、その姿、間違いなくデイモンだ。
仮面をつけていてもすぐに誰だか分かった。
アイリスは扇の柄が軋むほど、ギュッと手を握りしめる。
デイモンが短く挨拶を終えてステージを降り、夫人と思しき女性の隣の席につくと、代わりに仮面をつけた司会者が進み出てきた。
「それでは早速、最初の品をご覧いただきましょう」
司会者が指を鳴らすと、ステージには、見事な装飾が施された古美術品や、隣国から密輸されたとおぼしき希少な宝石類が順番に運び込まれた。
その全てが、桁違いの値段で競り落とされていく。
本来なら市場に出回らないはずの禁制品も、当たり前のように飛び交う異常な光景だ。
アイリスは扇の陰で嫌悪感を抱きながらも、じっと耐えていた。
そして、いくつかの物品の取引が終わった後、司会者がことさら声を張り上げた。
「さあ、ここからは皆様お待ちかね、『特別な品』の出品です」
その声に合わせて、ステージの袖から屈強な男たちに連れ出されてきたのは――外套を羽織らされ、両手を前で拘束された一人の人間だった。
うつむいているため顔はよく見えないが、体格からしてまだ若い青年のようだ。
「さあ、開始価格は――」
ジュリアンたちの調査で、借金を背負った平民やその家族を、夜逃げに見せかけて拉致し、売り飛ばしている可能性については聞いていた。
だが、実際にその場面を目の当たりにし、アイリスの胸に激しい怒りが込み上げてくる。
けれどそれはアイリスだけではなかった。
ふと振り向くと、ただ無表情に控えているだけのように見えるジュリアンがいる。
けれどアイリスには分かる。
背後に立つ彼の気配もまた、氷のように冷え切っていた。
ジュリアンもアイリスと同じように、怒りを限界まで押し殺しているのだ。
「――金貨百枚! 他にございませんか? ……よろしい、落札です!」
そうしてカーン! と、司会者が小さな木槌を振り下ろし、人間の売買という決定的な違法取引が成立した。
その瞬間。
ドゴォォォォンッ!!!
地響きのような爆音とともに、会場の重厚な扉が内側へ向かって吹き飛んだ。




