38.甘やかしの圧と決戦前の覚悟
その夜、王宮の最上階にあるジュリアンの執務室には、ジュリアン、アイリス、ジャック、クララの四人が集まっていた。
中央に置かれた応接セットのソファには、アイリスとジュリアンが並んで座り、向かい側にジャックとクララが控えている。
これが最近、四人で秘密の話し合いをする際の定位置となっていた。
そんななか。
「アイリス、今日はお疲れ様でした。さあ、特製の激辛ジンジャーティーです。足元も冷えますからこちらのブランケットを使ってください。それと、背中が痛くならないようにクッションを入れましょう。他にも足りないものやしてほしいことはありませんか?」
「あ、えっ……と、ありがとう、ございます……ですがこれ以上は……」
「遠慮しないでいいんですよ、アイリス」
クッションや紅茶の準備など、やっていることは普段アイリスが執務室にいる時と変わらない範囲のことだ。
だが、なんというか――圧がすごい。
そして、全体的に距離が近い。
隣に座るジュリアンはアイリスの肩が触れるほどぴったりとくっついているし、顔と顔の距離もやたらと近いのだ。
逃げようとしても、極上の笑顔で優しく退路を塞がれている。
思わずアイリスが距離を取ろうと、座った状態で後ずさろうとしたのだが。
読まれていたのか、ジュリアンの手が目にもとまらぬ速さで腰に回り、やんわりと引き戻されてしまった。
「ひぃぇっ!?」
恐怖か緊張か何か分からない、短い悲鳴を上げるアイリス。
けれどジュリアンは全く気にする様子がなく、さらなる至近距離でアイリスの顔を覗き込み、美しい声で囁いた。
「それとも――私のような無骨な男ではなく、あなたが甘やかして楽しめる、愛らしい別の人間がお好みでしたか?」
「ひゃっ!? そ、それはロゼッタ様を騙すための、あくまで悪女の設定上のセリフで」
「なるほど。では、私の甘やかしは嫌ですか?」
「い、嫌、では、ない、ですけどっ……」
「ふふっ。それなら、私が存分に甘やかしてもいいということですよね」
笑顔のまま、見事に逃げ道を塞いで言質を取ってくる。
ちなみに頭なでなでは、先ほどの馬車の中で死ぬほどされた。
表の顔のまま腹黒く迫ってくるジュリアンの気配に、アイリスが完全にたじたじになっていると――。
「殿下、この間の日常では甘やかしを抑えるという擦り合わせはどこへいったんですか」
見かねたらしいジャックのツッコミに、ジュリアンは爽やかな顔で言い放つ。
「何のことでしょうか。これはあくまで日常の範囲内ですし、私は危険な任務をこなしてくれた愛しい婚約者を、純粋に労わりたいだけですよ?」
ちなみに、クララはまだジュリアンの裏の顔を知らないため、ジュリアンは彼女の前では表の顔を崩さない。
当のクララは、最近のアイリスとジュリアンの距離感や雰囲気、それにジュリアンのこの過剰な溺愛っぷりとジャックの呆れ顔を見てはいるものの、二人の間に一体何があったかまでは知らないはずなのだが――。
優秀な侍女は、うちのお嬢様はジュリアン殿下にものすごく激重なベクトルで愛されているんだな、とあらかた察しているようで、現在もジュリアンの暴走を止めることなく、温かい目を向けてきている。
アイリスが涙目で助けを求めるも、クララはお幸せにとばかりにニコリと微笑むだけだ。
さすがにこれ以上は話が進まないと思ったらしいジャックが、深くため息を吐いて助け舟を出してくれた。
「そういうのは事件がすべて終わった後の、特別な一日にとっておいてください」
ジャックの釘刺しに、アイリスも全力で乗っかる。
「そ、そうです殿下! これ以上は私、耐え切れなくなって爆発してしまうかもしれません! それよりも今はオークションの件です!」
真っ赤な顔で必死に訴えると、ジュリアンは少しだけ残念そうに微笑み、ようやくアイリスから距離を取ってくれた。
火照った両頬を両手で軽く叩いて気合を入れ直すと、アイリスは真剣な表情を作って空気を切り替えた。
「……さて。こちらを」
アイリスが先ほどロゼッタからもらった黒い封筒をテーブルの上に置くと、全員の視線が集まる。
ジュリアンがそれを手に取り、封蝋の獣の意匠を指先でなぞった後、封筒を開け、中のカードを取り出した。
そこには、日時と場所だけが簡潔に記されている。
場所を確認した瞬間、ジュリアンの青い瞳が鋭く細められた。
「今回の催しが例のオークションだとするなら、会場はあの別邸にあった建物の地下のようですね」
「それって、クララたちが見たっていう、荷物が運ばれていたあの建物ですか?」
アイリスの問いにジュリアンが頷く。
高位貴族の私有地は、確たる証拠がなければ王家の人間や騎士団であっても強制的な立ち入り調査ができない。
つまり、法的な不可侵特権を利用した最強の隠れ家である。
証拠がなければ絶対に手出しされない。
だから決定的な証拠を押さえるために、この招待状を手に入れられたのは大きい。
ジュリアンは静かにテーブルに広げられていた地図へと視線を落とす。
それはボルトス家の別邸周辺の見取り図と、王都郊外の地図だった。
それとは別に、別邸敷地内の見取り図もある。
これはジャックとクララが例の古くからいる使用人と仲良くなり、まさに今夜手に入れたばかりの物である。
「踏み込むには証拠が足りませんでしたが、招待状があり、アイリスが招待客として正面から中に入れるなら話は別です。それに、王都西にある違法賭博場の拠点もある程度絞れています。当日は、私とアイリスが中に入り、ジャックとクララは外に極秘に配置する騎士たちを、タイミングを見て内部へ手引きしてください」
「承知いたしました」
ジャックが即座に頷き、クララも真剣な顔で一礼した。
「同時刻に、別動隊が王都西の賭博場にも踏み込み、全てを一気に叩きます」
ここでクララが声を上げる。
「殿下、私は手引きと並行して、万一作戦が失敗した際の逃走経路も確実に押さえておきます。最悪の事態に陥った場合でも、お嬢様と殿下が即座に離脱できるように」
「お願いします」
ジュリアンはそう言ってから、アイリスへ視線を向けた。
「アイリス」
「はい」
「ここから先は、本当に危険です。今日までだって十分危険でしたが、次はその比ではありません。本当のことを言うなら、今すぐあなたをここから遠ざけたいし、絶対に安全な場所に匿ってしまいたい」
ジュリアンは苦しげに目を伏せる。
けれどすぐに王太子としての強い光を宿した瞳で、アイリスを真っ直ぐに見据える。
「ですが、ここでデイモンの尻尾を逃せば、また多くの民が犠牲になります。だから……私はあなたに、危険を承知で限界まで踏ん張ってもらいたいと思っています。どうか、最後まで私に力を貸してくれませんか」
アイリスは、その言葉に迷わずこくりと頷いた。
正直に言えば怖いし、今すぐお布団に潜り込んで、何もかも夢だったことにしたい。
それでも、本気で逃げ出すという選択肢はアイリスの中にはなかった。
「分かっています。私も、最後まで殿下と一緒にやり遂げたいです」
彼がこれまで、重い責任と不安を抱え込んでいるのは痛いほど伝わってきている。
だからこそ、アイリスは重く張り詰めた空気を少しでも和らげようと、わざと明るい声を張り上げた。
「みんなを助けて、全てを終わらせて……そして、安全な最高級の羽毛布団で一日中ダラダラ過ごすために! 頑張りましょうね!」
そのあまりにも俗っぽく、けれど彼女らしい力強い決意表明に、ジュリアンは一瞬きょとんとした後こらえきれないように吹き出した。
「そうですね。私も早くあなたを全力で甘やかしたくてうずうずしています」
彼が柔らかく笑うのを見て、アイリスの胸の奥にあった恐怖がほんの少しだけ和らぐ。
テーブルの上には、黒い招待状。
その先には、今まで追い続けてきた闇が待っている。
そして――闇オークションへの扉は、ついに開かれた。




