36.甘やかしの擦り合わせ
『これからは遠慮なく甘やかすから覚悟しろ』
その宣言通り、ジュリアンは本当に即座に行動に移った。
まず、アイリスの頭をポンポンと優しく撫でながら、ひどく満足げな顔で囁いた。
「とりあえず、今日はよく頑張ったな。俺の失言が火種にならないよう立ち回ってくれていたし、宰相を相手に一歩も引かないなんて、お前は偉いよ。最後はちゃんと悪女の面も見せつけてたしな」
「えっと、あ、ありがとうございます……」
「アイリスは最高の婚約者だ。今日だけじゃなくて、いつも本当に頑張ってくれているし」
「あ、う……」
「それに他の貴族への挨拶だって――」
真っ直ぐな言葉で、とめどなく、ひたすらに褒めちぎられ、アイリスは恥ずかしくて何も言えなくなりながらも、内心では素直に喜んでいた。
アイリス自身も褒めてもらえるのは嬉しい。
ジュリアンも喜んでいるし、このくらいの甘やかしなら、全然平気かも……。
――しかし、彼女はジュリアンの過保護の才能を甘く見すぎていた。
ひとしきり頭を撫で終えたジュリアンは、ふいにアイリスの体をひょいっと抱き上げたのだ。
「えっ、きゃっ!?」
「ほら、お前の特等席だぞ」
ジュリアンはアイリスを抱きかかえたまま部屋の隅へと移動し、アイリス専用の小さな椅子に彼女をそっと降ろした。
そしてジュリアンはすぐさまブランケットをアイリスの膝にかけ、
「喉は渇いていないか? 水か、それとも温かい紅茶がいいか?」
と矢継ぎ早に問いかけてくる。
「え、あ、お水で大丈夫です……」
「分かった」
ジュリアンは素早くグラスに水を注ぐと、彼女と視線を合わせるように膝をつき、なんとそのままアイリスの口元へとグラスを差し出してきた。
どうやら、彼自身の手で直接飲ませようとしているらしい。
「ちょ、ちょっと待ってください殿下!!」
さすがのアイリスも、これにはたまらず両手で顔を覆ってストップをかけた。
「なんだよ」
「さっき行き過ぎでないなら甘やかしてもいいって言いましたけど、こんなに矢継ぎ早に色々とやられると、その……心臓が追いつかないというか……! というか殿下、落ち着いてください!」
「いや、むしろさっきより落ち着いてる」
「えっ」
どうやら胸の内をすべて吐き出してしまったことで、これまで限界まで抑え込んでいた甘やかし欲が堂々と表に出てきてだけらしい。
アイリスが真っ赤な顔で固まっていると、グラスを持ったままのジュリアンはきょとんとしたように目を瞬かせた。
「それにしても、これで心臓が追いつかないって……嘘だろう? 俺の中じゃ、これまだ準備運動にも入ってない序の口なんだが」
「じょ、序の口!?」
「そりゃそうだろう。頭を撫でて、抱き上げて運んで、水を飲ませるくらい普通だろう?」
「普通じゃないですよ! そ、それに、私、そ、そもそも人に触れられ慣れていないんです! もう少し軽い感じでお願いします! じゃないと私、倒れちゃいます!」
言いながら、けれど自分が人見知りではなかったとしても、やはりジュリアンの行動はいきすぎな気がする、と思うアイリス。
「…………」
ジュリアンはグラスをテーブルに置き、少し考えるような顔をしたかと思うと、やがてぽんっと手を叩いた。
「倒れられるのは本意じゃないしな。よし、じゃあ今後のために、最適な甘やかしについて具体的なすり合わせを行おう」
「……はい?」
ジュリアンは大真面目な顔で腕を組み、顎に手を当てる。
「まず、アイリスは毎日の王族教育や、それに加えて今は裏の作戦で気を張っている。だから、よく頑張ったという褒めと労いの意味を込めて、頭撫では必須にしたい」
「えっ、あ、はい。まあ、それくらいなら……」
「次に移動時だが。手をつないだり腰を支えたりするのは、アイリスが転ばないように安全を確保するためだが……よく考えたら、いっそ移動の時は毎回俺が運べば、お前は一切歩かずに済むし転ぶ心配もないな。どうだ?」
「どうだじゃないですよ!? 却下です! 毎回お姫様抱っこなんてされたら、目立ちすぎて別の意味で寿命が縮みます!」
「なんだ、だめなのか」
しかし彼は冗談ではなく、本気で言っている。
しかも下心からではなく、純粋にアイリスを甘やかすという謎の過保護理論に基づいているため、タチが悪い。
「じゃあ、体調確認はどうする?」
「た、体調……ですか?」
「できれば、俺が定期的に体温や顔色をチェックしたい。額と額をくっつければ、熱があるかどうかも一瞬で正確に測れるし、至近距離で目を見て疲労度も分かる。これくらいなら平気だろう?」
「っ! 近すぎます! そんなことされたら、熱がなくても顔が沸騰して倒れちゃいます!」
「なんだよ、過労で倒れられるよりマシだろう。……じゃあどうすればいいんだ。お前はどこまでなら俺の甘やかしを許容できるんだ?」
ジュリアンはズイッと顔を近づけ、逃げ腰のアイリスをじりじりと追い詰める。
「ひゃっ……! そ、そんなに詰め寄らないでください……! お姫様抱っこも額コツンも、日常的には心臓が持ちません!」
「ならおやつを食べさせるのは?」
「一人で食べられます!」
「疲れた時に膝枕で休ませるのは?」
「ひ、膝枕!? 無理です! 眠るどころか心臓が跳ねて逆に休めません!」
「じゃあ、執務室に来た時だけでも靴を脱がせて足を揉むのは」
「むむ、無理無理、無理です!!」
「疲れている時は俺がブランケットで包む」
「それは……少し、ありがたいかもしれません」
「ついでにそのまま抱えてもいいか?」
「駄目です! なぜすぐ抱える方向にいくんですか!」
「その方がすぐに体も温まるだろう?」
「そ、それも心臓に悪いです!」
「注文が多いな……」
「っ、殿下の提案が全部極端なんです……!」
不満げに迫るジュリアンに、アイリスはたじたじである。
そんな二人が、執務室の中で謎の押し問答を繰り広げていた、その時だった。
「――お二人とも、一体何をされているんですか」
ガチャリ、と扉が開き、分厚い書類の束を抱えたジャックが、死んだ魚のような目で室内の惨状を見つめていた。
「外にまでお二人の騒がしい声が聞こえていましたよ」
ジャックの冷ややかなツッコミに対し、ジュリアンは堂々と胸を張って答えた。
「今、アイリスを日常生活でどこまで甘やかしていいかの擦り合わせをしていたんだ」
「……は?」
「俺はお姫様抱っこでの移動と、額を合わせての定期的な体調確認や、他にも色々と提案したんだが、アイリスはどれも刺激が強いって言うんだよ」
ジュリアンの大真面目な狂った主張を聞き、ジャックは持っていた書類の束を机にドンッと置き、海よりも深いため息を吐いた。
アイリスは涙目で「ジャック様、助けてください……」と視線で訴えかける。
彼は、彼女に救いの手を差し伸べてくれた。
「殿下。婚約者を大切になさるのは結構ですが、少しは加減というものを学んでください。突然そんな過剰な甘やかしを提案されれば、アイリス様が困惑されるのも当然です。度が過ぎる過保護は、相手をダメにするだけですよ。身に覚えがあるでしょう。少しは抑えていただけませんか」
静かだが、有無を言わせない側近の正論だった。
さしものジュリアンもバツが悪そうに口ごもり、アイリスから一歩距離を取った。
「……分かったよ。じゃあ日常では、少し抑えて善処する」
ジャックの言葉に渋々頷いたジュリアンだったが、その青い瞳にはまだ納得のいかない光が宿っていた。
彼は腕を組んだまま、アイリスへと視線を向ける。
「悪い。お前を休ませて労わりたい気持ちばかり先走った。嫌がることを無理にするつもりはない。だけどアイリス。譲歩はするから、一つだけ条件を飲んでほしい」
「じょ、条件、ですか」
「ああ。普段の生活では、お前の心臓に負担がかからないように俺の甘やかしを極力抑える。その代わり――この一連の騒動が全て片付いて一段落したら、俺が一日、アイリスを全力で甘やかす日を作らせてほしい」
「全力で……」
「そうだ。その日だけは、お前も一切の遠慮も我慢もせず、俺の甘やかしを全部受け入れること。どうだ?」
ジュリアンの提案は、ある意味で非常に理にかなった取引だった。
今のヒリヒリとするような日常では、あまりにも過剰なスキンシップを避けてくれるのはアイリスにとってもありがたい。
それに、全てが終わった後の一日くらいなら、自分でもなんとか受け止めきれるかもしれない。
ましてジュリアンがどんなことをしたいのかはさっき聞いたところだし、布団でゴロゴロしているだけでいいのだったらアイリスにとっても損はないはずだ。
「……そ、それなら……はい、分かりました。お約束します」
アイリスが少し迷いながらもコクリと頷いて了承した瞬間。
「よし。言質は取ったからな」
ジュリアンは、先ほどまでの不満げな表情を嘘のように消し去り、極上の笑顔を浮かべた。
「ひゃっ……!?」
そのあまりにも嬉しそうで、底知れぬ熱を帯びた表情である。
もしかして今、自分はとんでもない約束してしまったのではないか。
普段抑え込む分、その特別な一日に彼の重すぎる愛情と過保護が全て凝縮されて大爆発するのだとアイリスが気づくのは、まだ先のことである。




