35.避けられていた理由
夜会の後、アイリスは執務室へ向かうジュリアンに、なんとなくそのままついてきてしまっていた。
もともとジュリアンは夜会が終わった後、執務室に戻って残務をこなすのが日課となっている。
今日はデイモンやその他多くの参加者との接触でどっと疲弊していたため、アイリスは早くお布団に帰りたかったはずなのだが……それでも、なんとなく彼から離れがたくて足が向いてしまったのだ。
ジュリアンの方も、後ろをついてくるアイリスに、帰れともついてくるなとも何も言わなかったため、結果として二人はそのまま執務室へと入ることになった。
扉が閉まってすぐ、ジュリアンはアイリスから数歩離れた窓辺まで歩を進める。
そして立ち止まって彼女の方へ顔を向けると、気まずそうにポツリと謝ってきた。
「……悪い、アイリス。さっきは迷惑かけたな」
何のことか分からずアイリスがぱしぱしと目を瞬かせたら、ジュリアンはバツが悪そうに視線を逸らす。
「夜会でのデイモンとのやり取りだよ。俺が少し熱くなったせいで、気を遣わせて助け船を出させた」
「ああ、あの時のことですか」
アイリスは笑って首を横に振った。
「気にしないでください。きっと殿下も、最近は色々と忙しくて疲れていたんですよ。それに、デイモン様のお相手ってものすごく精神がすり減りますから」
「ああ……まあな」
けれど、ジュリアンの歯切れは妙に悪かった。
それにこの部屋では彼はもう素のジュリアンのはずなのに、いつものように胸元を乱暴に緩めることも、琥珀色の酒をグラスに注ぐこともしない。
ただ少し離れた場所に立ったまま、無言でわずかに俯いている。
部屋の中には、なんとも言えない重い空気が流れていた。
さすがにこれは絶対におかしいとアイリスは考える。
なので彼女は小さく息を吸い込むと、思い切って聞いてみることにした。
「あの、ジュリアン殿下。……殿下は何でもないって言っていましたけど、最近、やっぱりおかしいですよね?」
「っ、いや…… そんなことはない」
あからさまにアイリスの視線を避け、そっぽを向くジュリアン。
その姿を見て、アイリスはポツリとこぼした。
「……私のせい、ですか?」
「は?」
「殿下は違うって言っていましたけど。あの別邸に潜入した日以来、ずっとおかしいです。なら、私が原因だとしか思えません」
ジュリアンが目を丸くしているのにも構わず、アイリスは唇を噛み締めて言葉を紡ぐ。
「私、あの日の帰りの馬車で寝落ちしてしまいましたから……もしかして寝ぼけてとんでもなく失礼なことを口走ったとか、よだれを垂らしたとか、そもそも単純に私が重かったとか」
「いや、何言って……」
「やっぱり作戦のためにあんなことをしたのは、不快、でしたよね……。偽物だってことを事前に言い忘れていたのも、本当に申し訳なかったと思っています。ですが……」
ジュリアンが何かを言いかけるのを遮り、アイリスは勇気を出して彼の方へ一歩近づくと、不安げに彼を見上げた。
「私、何か殿下に嫌われるようなこと、しましたか? 何かしたのなら、はっきりと言ってほしいです。ちゃんと謝りたいですし……謝罪しても許せないというなら、それでも構いません」
嫌われているのかもしれない。
怒らせたのかもしれない。
そう思うと胸の奥がぎゅっと苦しくなって、アイリスの瞳がわずかに潤んだ。
「でも、嫌っていたとしても…… 理由も分からず、ただ目を逸らされるのは、少し、寂しいです……」
その震えるような、真っ直ぐな言葉が落ちた瞬間だった。
「っ――――!!」
ジュリアンはまるでひどい痛みを堪えるように低く呻き、片手で顔を覆って天を仰いだ。
頭を抱えるジュリアンの姿を見て、アイリスは血の気が引いた。
もしや自分は、また余計なことを言ってしまったのではないか。
……これ以上、彼を不快にさせるわけにはいかない。
「ご、ごめんなさい、出直します――!」
と震える声で告げ、アイリスが逃げるように踵を返しかけた、その時。
「嫌うわけないだろう。むしろ逆だ……」
ジュリアンの口からそんな言葉が漏れ出た。
高らかに響く王太子の声でも、不遜ながらもよく通る本来の低い声でもない。
ジュリアンにしては珍しく弱々しい声だったが、それでも確かにそう聞こえた。
一瞬聞き間違いかと思って、アイリスの動きがピタリと止まる。
「えっと……? 逆、ですか?」
嫌われていない?
むしろ逆とはどういう意味だろうか。
アイリスが戸惑いながらもジュリアンを見つめていると、彼は顔を覆っていた手をゆっくりと下ろす。
そこに現れたのは、アイリスが恐れていたような、怒りや呆れを含んだ顔ではなかった。
耳の先まで赤く染め、切羽詰まったような、けれどどこかひどく熱を帯びた瞳でこちらを真っ直ぐに見つめる……これまで見たこともないような、余裕をなくしたジュリアンの顔だった。
直感的に、これ以上踏み込んだらなんとなくまずいと、危機回避センサーが警報を鳴らす。
そのあまりにも強烈な視線に射抜かれ、アイリスは一瞬で顔を熱くした。
恥ずかしさで頭が真っ白になり、本能的に後ずさろうとした。
しかし、不思議と足が動かない。
恐怖で竦んでいるのか、それとも、今まで見たことのない彼の本気の顔から目が離せないのか、自分でも分からない。
アイリスが頭の中でぐるぐると混乱の渦に飲み込まれている間にも、ジュリアンが一歩、アイリスへと距離を詰める。
そしてジュリアンは一度、苦しげに息を吐いた。
「……悪かったよ」
「え?」
「あれは完全に俺が悪い。お前に不安な顔をさせるつもりなんてなかったのに……一番させたくない顔をさせた」
悔しそうにそう言って、ジュリアンは乱暴に前髪をかき上げる。
「本当に、悪い。ブローチのことも、あの日のことも、怒ってなんかいない。むしろ……」
ここでジュリアンは言葉を切ると、力なく笑った。
「前は、アイリスのこと、余裕な顔をして可愛いって言えてたし、普通に甘やかすことができた。当然、あれも全部本気だったけどな」
「で、殿下……?」
「でも……今はダメだ」
どう返せばいいのか分からず、アイリスはその場に立ち尽くす。
そんな彼女に、ジュリアンは絞り出すような声で告げる。
「今の俺は、アイリスのやることなすこと全部が破壊力が高すぎて、まともに直視する余裕すらなくなったんだよ。あの夜からずっとだ」
「っ……」
「アイリスが俺のために必死で頑張ってくれたことや、俺の贈ったものを『一番大切な宝物』だと言ってくれたこと。その全部が、どうしようもなく愛おしくて、少しでも触れたら、自分が何をしてしまうか分からなくて怖かったんだ」
ジュリアンはさらに一歩近づき、熱の増した青い瞳で彼女を真っ直ぐに見つめ返した。
「だから……頼むから、これ以上無自覚に可愛い顔で、寂しいなんて言わないでくれ。本当に色々もたない……」
すでに二人の間にはほとんど距離がなく、目と鼻の先、手を伸ばせば簡単に触れられるほどの位置にある。
それでも、ジュリアンは手を伸ばしてこない。
これほど熱を帯びた瞳でこちらを見つめているのに、彼の手は行き場を失ったように、きつく拳を握りしめられたまま震えていた。
『少しでも触れたら、自分が何をしてしまうか分からなくて怖かったんだ』
その言葉が、アイリスの頭の中でリフレインする。
自分が避けられていると勘違いしていたのは、彼が必死に抑え込んでいた結果だったのだ。
それにしても……もしそのタガが外れてしまったら、ジュリアンは一体どうなってしまうのか。
アイリスの脳裏に、前世の恋愛系の漫画やゲームに出てきた、あんな展開やこんな展開が駆け巡る。
顔から火が出そうになりながら、アイリスは怯えたように身を縮め、どもりながら恐る恐る尋ねた。
「あのっ……も、もし、その……色々もたないとは……もたなかったら、えっと、ど、どうなるんですか……?」
すると、ジュリアンは一つ深呼吸をして、大真面目な顔で答えた。
「――全力で甘やかす」
「へっ?」
「俺の持てるすべての愛情と権力を使って、アイリスの頭の先からつまさきまで、全力でどろっどろに甘やかす」
「ど、どろっどろに甘やかすって……ぐ、ぐた、具体的には?」
「まず、王族教育も受けなくていいようにする。社交も全て俺が肩代わりして、アイリスを最高級の羽毛布団に一日中くるんで、好きなだけ激辛料理を食べさせながら、三食昼寝付きでひたすら撫でて可愛がり続ける。移動したくなったら、俺が布団ごとどこへだって運んでやる。軽いとこでいくとまずはこのあたりだな」
それは、布団が大好きで引きこもりたい令嬢にとっては、恥ずかしい反面、まさに天国のような生活の提示だった。
「そ、それは……少しだけ、魅力的すぎる生活かもしれません……」
思わず本音が漏れた瞬間、アイリスはハッとして口元を押さえた。
「い、いえ! 違います! 最高級羽毛布団と激辛料理と三食昼寝付きという部分に、ほんの少し心が揺れただけで……!」
アイリスが思わず本音を漏らすと、ジュリアンは深くため息を吐いた。
「そもそも俺の性分なんだろうな。一度懐に入れた相手は、とことん囲い込んで甘やかさないと気が済まないっていうか……」
ジュリアンのその言葉を聞いて、アイリスの脳裏に、諸々の出来事がフラッシュバックする。
観葉植物の育ち方や、暴れ馬への度を越した可愛がり方と溺愛っぷり。
アイリス専用に整えられた執務室の一角や、どんどん増えていくアイリス好みの辛いお菓子や茶葉のストック、最近ではアイリスのためにと本まで用意されている。
つまり……あれらが、ジュリアンの本気の愛情表現のやり方なのだ。
いや、むしろまだ本気ではないのかもしれない。
だってさっきジュリアンが挙げたどろどろ甘やかし計画の内容ですら、彼にとってはまだまだ軽い感じらしいから。
なら、ジュリアンの本気を受け止めたら、やはり完全に骨抜きにされて、一人では何もできなくなってしまうのではないか。
アイリスが一人で納得して戦慄していると、ジュリアンは自嘲するように目を伏せた。
「……けど、アイリスが『重い荷物も半分こにしたい』って言ってくれただろう。だから、俺の勝手な独占欲や過保護で、その覚悟と努力を奪うわけにはいかないと思って、必死に我慢してたんだよ」
ジュリアンの言葉に、アイリスははっとした。
彼はただの独占欲で彼女を縛りたいわけではない。
ジュリアンの隣に立つために頑張りたいというアイリスの意思を尊重してくれていたからこそ、自分の甘やかしたいという欲求を必死に抑え込んでいたようだ。
「けどまともに顔を見たら、その決意ごとベッドに丸抱えして甘やかしてしまいそうになるから、必死に視線を逸らしてたんだ」
ひどく甘い声で種明かしをされ、アイリスはようやくすべてのすれ違いの理由を理解した。
ジュリアンの究極の過保護欲から守られていたという事実が胸の奥にすとんと落ちた瞬間、ここ数日ずっと胸を締めつけていた不安が、嘘のようにほどけていく。
代わりに込み上げてきたのは、どうしようもないほどの安堵と気恥ずかしさだった。
正直こんなことを言われてどうしたらいいのか……。
考え抜いた挙句、アイリスは真っ赤な顔のまま、意を決してジュリアンに向かってある宣言をした。
「……半分こにするって言ったのは、本当です。私は殿下の隣に立つために、これからも戦います。でも……その……」
アイリスは上目遣いで彼を見つめ、恥ずかしそうにモジモジと視線を彷徨わせる。
「……甘やかされるのは、その、嫌い、ではないので……行き過ぎでないなら、殿下の好きにしてもらっても、いい、です……」
「っ――――!!」
その言葉が落ちた瞬間、ジュリアンの顔が今度こそ限界を迎えたように真っ赤に爆発した。
「そういう無自覚なところが一番心臓に悪いって言ってるんだ……!」
ジュリアンはアイリスの肩を乱暴に抱き寄せると、そのまま彼女の頭を自分の胸元にギュッと押し付けた。
「ひゃっ……!」
「あーもう、知らない! これからは遠慮なく甘やかすから覚悟しろ!」
少しだけ乱暴な口調でそう言いながらも、その手つきは壊れ物を扱うように優しくて。
どうやら本気を出すらしいジュリアンのどろっどろの甘やかしの予感に、アイリスは恥ずかしくも幸せな悲鳴を上げるのだった。




