34.夜会に散る火花
それから数日が経った。
ジュリアンとは相変わらず顔を合わせているし、言葉を交わせばいつも通り優しい。
けれど――どこか、ほんの少しだけ距離がある。
ブローチの件は、後日もう一度、改めて謝罪した。
ジュリアンは気にしていないと穏やかに笑ってくれたし、実際その言葉に嘘はないように見えた。
それでもどこかおかしい。
けれど何度尋ねても、ジュリアンは、
『アイリスが気にすることは何もない』
と同じ言葉を繰り返すだけで、肝心な部分には触れようとしない。
その曖昧な優しさが、かえってアイリスの胸をチクリと刺した。
そんな微妙なすれ違いを抱えたまま、今夜は王宮で、国内外から有力な貴族たちを招いた大規模な公式夜会が開かれていた。
煌びやかなシャンデリアが光を散らし、音楽と笑い声が渦巻く中、ジュリアンとアイリスは、完璧な『オレーシアの至宝』と『オレーシアの聖母』として並び立ち、腕を組んで優雅に微笑んでいた。
外から見れば、誰もが羨む理想の婚約者同士である。
だが……。
ジュリアンの体温に触れながら、アイリスは苦い思いを胸に抱える。
仮面を被っている今の方がまだ自然に隣にいられるなんて、おかしな話だ。
「ごきげんよう、ジュリアン殿下。それにアイリス様。今宵も実にお美しい」
そんなことを考えていたアイリスの元へ、ふくよかな腹を揺らしながら一人の男が近づいてくる。
保守派の筆頭にして闇オークションの主催者と目される、デイモン・ボルトスだった。
彼は挨拶もそこそこに、早速いつものように話しかけてくる。
「今宵の殿下の顔色は良いようで安心しましたよ。最近は、慣れない政務にお疲れなのではと心配しておりましたので。何かあればいつでもこの老獪を頼っていただきたいものですな」
意訳すると、『若造にはまだ政治は無理だろう。私が実権を握ってやるから引っ込んでろ』ということである。
貴族たちの会話の裏を読む能力をこの世界で身に着けたアイリスは、デイモンの言葉の意味を察して思わず身震いしそうになる。
しかしながら対するジュリアンも、完璧な笑みを崩さず応じる。
「お気遣い痛み入ります。宰相閣下ほど長く国を支えてこられた方に比べれば、私はまだまだですが……閣下こそ、これからは少し肩の荷をお降ろしになってご自愛ください」
その瞬間、デイモンの額にぴしりと細い皺が寄った。
けれどすぐにそれを消し去って朗らかな笑みを浮かべると、ジュリアンも同じように、完璧な王太子の笑みで応じた。
さっきの台詞を素のジュリアン風に言うなら、『お前はもう老いぼれだ。さっさと引退して色々俺に譲れ』になるだろうか。
それでも意味が分かったうえで二人とも表向きは笑っており……やはりどちらも怖い。
アイリスが密かに戦々恐々としている中、ひとしきり笑い合っていた二人だったが、
やがてデイモンがねっとりとした声で話題を変えた。
「それはそうと殿下。最近は王宮の人事が随分と、お若い方々に偏っているとか。経験の浅い者を重用しすぎると、国政が揺らぎますぞ」
「ご心配なく。能力があり、国を良くしたいと意欲のある者を見出して登用するのは、王太子として当然の務めですから」
「なるほど。では、能力やその意欲のない者は自然と淘汰される、と」
「ええ。どれほど地位が高くとも、例外はありません。……例えば宰相職、なども」
その台詞に、アイリスの背筋が尋常ではないほどに冷たく凍りつく。
意訳するなら、『国や民を食い物にする老害は、俺が絶対に潰す。特にお前は』あたりか。
あまりにも直接的な宣戦布告だ。
表の顔の時にここまであからさまなこと言うのは、かなり珍しい。
実際デイモンも驚いたように、一瞬だけだったが目を見開いていたほどだ。
周囲の人間も、二人のいつもとはわずかに違う空気に、なにごとかと目線を向けているのが分かる。
これはあまりよろしくない。
実際には王子派と宰相派が敵対しているのは周知の事実とはいえ、今夜この場には国外の貴族も参加している。
彼らにこの国の諍いを直接見せるわけにはいかない。
ここは、自分が何とかしなければ。
二人の間に見えない火花が散る中、聖母の仮面をしっかりと被ったアイリスは、ジュリアンの腕をそっと引く。
そして――アイリスはふわりと微笑み、二人の間に柔らかな声を落とした。
「殿下、宰相閣下。お二人とも、国のことを真剣に思っておられるからこそ、つい熱が入ってしまわれるのですね。そのお考えは、とても素晴らしいと思いますわ」
まるで冷えた空気に温かな光を差し込むかのごとく、聖母のような穏やかな声と表情に、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩む。
周囲で様子を窺っていた貴族たちの表情にも、ほっとしたような安堵が広がっていく。
誰もが、険悪になりかけた場を聖母が穏やかに収めたのだと受け取ったのだろう。
その緩みを逃さず、アイリスはさらに聖母のごとく清らかに微笑んだ。
「ですが殿下、そろそろ次のご挨拶に参りませんと。それに宰相閣下を長くお引き止めしてしまっては、他の方々にご迷惑ですわ」
その言葉の裏にある意図を、ジュリアンは一瞬で察してくれたようだ。
彼はアイリスへ視線を向けると、静かに頷く。
「……そうですね。君の言う通りだ」
そしてデイモンへ向き直り、まるで敵意を感じさせない完璧な笑みを浮かべる。
「宰相閣下。つい話が弾んでしまい、貴重なお時間を頂戴してしまいました。ご配慮に感謝します」
対するデイモンもまた、仮面の笑みを崩さず応じた。
「いえいえ。殿下とお話しできる機会は、私にとっても光栄でしたのでな。お互い、引き続き良い夜会を」
これ以上火花が散る前に、なんとか切り抜けることができた。
時間にしてはわずかだったが、あの精神がゴリゴリ削れる緊張感あふれる場にいたせいで、既にアイリスはどっと疲れていた。
しかしまだ夜会は中盤に差し掛かったばかり。
内心では気合を入れ直すように自分へ喝を入れながら、にこやかにごきげんようと告げ、デイモンへ優雅にカーテシーを披露する。
だが、アイリスが姿勢を戻したその寸前。
彼女の横を通り過ぎようとしていたデイモンが立ち止まり、周囲には聞こえないような極めて小さな声で囁いた。
「……娘からも聞いておりますよ。今後とも、どうかよろしくお願いいたしますね、アイリス様」
それは、宰相の懐に入り込んだアイリスに対する、探りとも歓迎ともとれる不気味な挨拶だった。
まるで蛇に見つかった蛙のように背筋が粟立つ。
だが、今のアイリスはただ守られているだけの令嬢ではない。
「――ええ、こちらこそ。……お互いに、有益な関係を築ければよろしいですわね」
アイリスは聖母の顔を崩さないまま、これまでの彼女とはまるで違う、ぞくりとした冷たい声をデイモンだけに聞こえるようにそっとこぼした。
「実に楽しみです」
そう言い残し、デイモンは夜会の喧騒の中へと消えていった。




