32.よそよそしい王子
翌日の夕方、厳しい王族教育をなんとか乗り切ったアイリス。
身も心もボロボロの状態で、クララと共にジュリアンの執務室を訪れていた。
分厚い扉が閉められ、室内が完全に自分たちだけの空間になった瞬間。
「もう、無理です……」
アイリスはふらふらと部屋の隅へ向かいかけたが、その途中で大事なことを思い出した。
まずは、昨日運んでもらったことをお礼しなければ。
それに、ブローチがイミテーションだったことを伝え忘れたまま壊してしまった件も、改めて謝らなければならない。
アイリスはくるりと方向転換し、ジュリアンの前へと向かう。
「気にしないでください。アイリスは最善を尽くしてくれました」
ジュリアンはそう言って微笑む。
その顔を見たアイリスは、なぜか妙な感覚になった。
わずかに首をひねりつつも気のせいかと思い、今度こそこの部屋のベストポジションへと移動する。
相変わらず、隅っこは最高だった。
椅子に座った途端、失われかけていた様々な力がじわじわと回復していくのが分かる。
自室のお布団に次ぐ居心地の良さである。
開け放たれた窓からは気持ちのいい風が入ってくるし、何よりこの部屋の死角にすっぽり収まっている、という安心感がたまらない。
頭の中で隅っこの素晴らしさを力説しながら、アイリスはスライムのように椅子と一体化していく。
一方で初めてこの部屋を訪れたクララは、豪華絢爛な王太子の執務室の隅に、明らかにそこだけ隔離されたようなこぢんまりとした空間――ソファーと小さなサイドテーブル、そのほか諸々――があるのを見て、目を丸くした。
「で、殿下……お嬢様があのような隅っこで丸くなっておりますが、よろしいのでしょうか?」
「アイリスには、あそこで休憩していいと言ってあるんです。いつもかなり疲れていますからね」
ジュリアンは完璧な王太子のキラキラスマイルを浮かべながら、優しくそう答えた。
クララがいる手前、彼は表の顔を崩さない。
「ジャック、アイリスにいつものお茶とお菓子を出してもらえますか」
「…………かしこまりました」
ジャックが一瞬妙な間を開けてから返事をした後、手際よく、アイリスの目の前の小さなテーブルに紅茶とクッキーを置く。
ただのクッキーではない。
この世界で最も辛いとされる唐辛子がたっぷり練り込まれた、アイリス専用の特製の激辛クッキーだ。
「ありがとうございます……生き返ります!」
アイリスは真っ赤なクッキーをかじり、激辛の刺激を受けてほうっと息を吐く。
けれどここでもわずかに違和感を覚える。
こういう時、実際にお茶を淹れてお菓子を持ってくるのはジュリアンである。
アイリスがどれだけ、王子様にそんなことさせられないと訴えても、一度もそれを聞き届けてはもらえなかったというのに……。
ふとアイリスが視線を上げると、ジュリアンとバチリと目が合う。
いつもなら、ここで楽しげに微笑みながら、美味しい? と尋ねてくるところだ。
しかし、今日のジュリアンは違った。
「っ……」
なぜかビクッと肩を震わせると、アイリスからバッと視線を逸らし、どこか落ち着かない様子で明後日の方向を見つめ始めたのだ。
不思議に思って小首を傾げると、ジュリアンの横に立つジャックが、己の主をジト目で睨みつけているのが見えた。
よく分からないが、なんだか部屋の中に妙な空気が流れている。
アイリスは助けを求めるようにクララに視線を送ってみる。
だが、クララはアイリスとジュリアンを交互に見つめ、事情は分からないという顔をしながらも、何も言わずにふわりと微笑み返してきただけだった。
釈然としないものの、気にしていても仕方がない。
アイリスはまあいいかと、もそもそと激辛クッキーを食べ続けた。
その間も、ジュリアンと目が合っては、なぜか彼の方がわずかに視線を逸らす、という謎の現象が繰り返された。
やがてアイリスがクッキーをすっかり食べ終わり、息を吐いた時だった。
「……こほん。さて、昨日の夜会の情報共有といきましょうか」
その声は、いつもの凛々しい王太子の声色で、即座にピリッと空気が切り替わる。
アイリスも部屋の中央のソファへと移動し、ジュリアンの隣に座る。
「まずはジャックとクララ、分かったことがあれば報告してもらえますか」
アイリスたちの正面に座ったジャックが手帳を開き、淡々と報告を始める。
ジャックとクララは、別邸で働く使用人たちや、他の貴族の御者たちと巧みに世間話を交わし、情報を集めていた。
「別邸の古参の使用人から、いくつか興味深い証言を得ました。まず、あの別邸の中庭の奥には、使用人ですら立ち入りを固く禁じられている『開かずの建物』があるそうです」
「建物?」
「外から見ると小さな倉庫のようらしいのですが……屋敷の古い構造を知るその使用人曰く、あの下には、広大な地下室が広がっているとのことです」
「なるほど、地下への入り口ですね。その建物の鍵は誰が?」
「厳重に管理されており、鍵を持っているのはデイモン宰相と夫人、そして一人娘のロゼッタ様だけとのことです」
ジャックの報告に、ジュリアンは鋭く目を細めた。
続いて、ジャックの隣のクララも口を開く。
「さらに数日前、深夜遅くに、使用人たちにも知らされていない謎の荷馬車がその開かずの建物の近くに横付けされ、木箱をいくつも運び込んでいるのを目撃したとのことでした」
「それはかなりきな臭い話ですね」
「目撃した使用人も遠目だったため中身までは分からなかったようですが、警備も異常なほどピリピリしていたとか」
報告を聞き、ジュリアンが思考を巡らせるように顎に手を当てる。
「使用人にすら秘密にする深夜の搬入に、厳重な警備……。わざわざ隠すように運び込むとなれば、ただの荷物とは思えませんね」
「はい。中身が何であるにせよ、あの場所で裏の顔に関わる何らかの準備が進められているのは間違いなさそうです」
クララが答え、ジャックも同意するように重々しく頷くと、部屋の空気が一段と冷たくなる。
「なるほど。まだ断言はできませんが、あの別邸の中庭にある地下空間が、闇オークションの会場そのものか、あるいは出品する品々を隠しておくための保管庫として使われている可能性は、十分にありそうですね」
ジュリアンはそう結論づけると、視線をアイリスへと向けた。
「会場内での成果については、アイリスからジャックたちに報告してもらえますか?」
「はい」
ジュリアンに促され、体力気力共回復したアイリスは、クララたちに向かって凛とした声で説明を始める。
「昨夜、無事にロゼッタ様の信用を得て、一週間後の同じ集まりへと誘われました。まずはそこでさらに親交を深め、最終的に本物のオークションへ誘い出されるところまで持っていきたいと考えています」
「素晴らしい成果です、お嬢様」
「それからロゼッタ様は帰り際、デイモン様にも私のことを伝えると言っていました。一週間後の夜会に宰相本人が現れるかは分かりませんが……私の悪女の噂がデイモン様の耳に入る以上、近いうちに、あちらから何らかの接触を図ってくる可能性があるかもしれません」
アイリスが真剣な顔で推測を語ると、ジュリアンは目を細めた。
「あの狡猾なデイモンが、君の存在をどう判断して動いてくるか……アイリス、何かあったらすぐに私に知らせてください。そして、決して一人では動かないこと。約束してもらえるかい?」
「はい、分かりました」
アイリスが素直に頷くと、ジュリアンはホッとしたように目尻を下げ、いつものように手を伸ばして彼女の頭を撫でようとした。
しかし、その手がアイリスの髪に触れる直前で、ジュリアンははっとしたように動きを止め、不自然な軌道で自分の前髪を掻き上げる仕草へと誤魔化した。
アイリスが不思議に思っていると、ジュリアンはほんの少しだけ耳を赤くして、そっぽを向くように咳払いをした。
その後は一週間後の夜会に向けた細かい懸念点などをすり合わせ、本日の作戦会議は解散となった。
「それでは殿下、私たちはこれで」
「気をつけて帰ってくださいね」
話し合いが終わった途端、ジュリアンはまた少しだけアイリスから自然と距離を取り、よそよそしい態度に戻ってしまった。
最近ではここで、馬車まで送るよと腰に手を回してくるか、あるいはアイリスにしか見えない角度でにやりと笑ったり、小声で軽口を叩いてくるはずなのに。
「今日はこの後、少し立て込んでいて。送ってあげられなくてすみません。また明日」
「あ、はい。お気になさらず……」
忙しいのなら仕方ないが、やはり避けられているように感じる。
アイリスは少しだけしょんぼりしながら、クララと共に執務室を後にした。




