31.大切な宝物(ジュリアン視点)
アイリスの自室へと足を踏み入れると、そこには以前ジュリアンが勧めたのと同じ、最高級羽毛布団が敷かれたベッドがあった。
アイリスの言っていた通り、あれは快適で、ジュリアン自身の睡眠の質も格段に良くなった。
アイリスにとその礼を言わないといけないなと思いながら、ベッドへ向かって歩みを進める。
その途中だった。
ジュリアンの視線が吸い寄せられるかのように、部屋の窓辺に置かれた小さなサイドテーブルの上で止まる。
そこにあったのはガラスでできた特製ケース。
中には、ある宝飾品が鎮座していた。
月明かりに照らされてキラキラと輝いているのは、間違いなく、ジュリアンがアイリスへと贈った蒼水晶のブローチとそっくり同じ物だった。
踏み砕かれたはずのそれが、傷一つない状態で、まるでこの部屋で一番大切な宝物であるかのように大切に飾られていたのだ。
「どういう、ことだ……?」
ジュリアンが驚きのあまり歩みを止め、思わず声を漏らした瞬間。
腕の中で、アイリスがと小さく呻いて目を覚ました。
「アイリス?」
「……で、殿下」
アイリスは重い瞼を何とかこじ開け、今の自分の状況を理解しようと瞬きを繰り返す。
そして、自分がジュリアンの腕の中でお姫様抱っこされたまま部屋に運ばれていることに気づくと、一瞬で耳まで真っ赤に染めた。
「ひゃっ!? で、殿下、お、降ろして……」
恥ずかしさからじたばたと逃れようとするものの、極度の疲労と眠気のせいだろう。
手足がうまく動かずに力が入らないようだ。
ジュリアンはそんな彼女を落ち着かせるように、さらに腕の力を少しだけ強めて抱き直した。
「いいから暴れるな。そのまま眠ってろ」
「で、でも……」
ジュリアンはアイリスを宥めながらも、内心では先ほど見た窓辺のブローチのことが気になって仕方なかった。
しかし今は、限界まで頑張った彼女を休ませるのが先だ。
追求するのは明日にしようとジュリアンが言葉を飲み込んだが。
「あのっ、これだけは、言わせてください……」
アイリスは泥のように眠ってしまいたいであろう限界の状態で、それでも必死にジュリアンの胸元をぎゅっと掴む。
「無理して喋らなくてもいい」
けれどアイリスは首をふりふりと横に振り、泣きそうな顔で必死に言葉を紡ぐ。
「あ、あの、ブローチの件、なんですけど、あれは……クララに用意してもらった、イミテーションです……! 本物は……壊すわけ、ないです。だって、あれは……私が学園を卒業する時に、殿下が私のために選んでくれたものだから……っ」
ジュリアンは、わずかに目を見開いた。
まだまどろんでいるような表情のまま、アイリスはぽつりぽつりと言葉をこぼす。
「すごく、嬉しかったんです……。いつもの美しいだけの贈り物じゃなくて……私が、一度だけ綺麗だと言ったものを、覚えてくれてて……王族教育に不安を持つ、私を励ますために、すごく悩んで選んでくれたのが、伝わってきたから……」
ジュリアンは思わずごくりと息を呑んだ。
彼女は、ジュリアンの励ましの意図にしっかりと気づいていたらしい。
「だから、ちゃんと……部屋で、飾ってるんです……」
アイリスの目がゆっくりと閉じ落ちていく。
「あれは……私の……宝物、だか……ら……」
アイリスは必死にそれだけを伝えると、とうとう限界を迎えたように再び意識を手放した。
完全に眠ってしまったアイリスを腕の中に抱き抱えたまま、 ジュリアンは、しばらくの間、言葉を失って固まっていた。
静かな寝室の中に、ジュリアンの息を呑む音だけが響く。
彼は低く、ひどく甘い溜め息を吐き出すと、ようやく動き出した。
腕の中のアイリスを、壊れ物を扱うようにそっとベッドへと寝かせる。
だが、眠る顔を見つめながら、彼の足はその場に縫い留められたかのように動けなかった。
やがて、掠れた声でポツリとこぼす。
「なんだよ、それ……反則にも程があるだろうが」
あの場で蒼水晶を踏み砕かれた瞬間、胸の奥を抉られたような痛みを覚えたのは事実だ。
けれど、壊されたと思っていたものは、壊れていなかった。
むしろ彼女は、本物を誰にも触れさせず、自分の部屋で大切に守ってくれていた。
アイリスは、いつもこうだ。
自分では大したことではないような顔をして、こちらの心を容赦なく揺さぶってくる。
こんなものを見せられて、こんな言葉を聞かされて平然としていられるほど、ジュリアンはできた人間ではなかった。
何か一つでいい。
この胸を満たして暴れる感情を、彼女に触れることで確かめたい。
そんな理性を焼き切るような衝動が、ジュリアンの奥底から込み上げてくる。
しかし、今夜の彼女がどれほど無理をして限界まで戦ったのかを知っている。
だからこそ、ギリギリのところで踏みとどまった。
だが、完全に理性を保てたわけではなかった。
「ずるいよな、アイリスは」
ジュリアンは堪えきれなくなり、身を屈めると、眠るアイリスの額にそっと唇を落とした。
夜会の中で、アイリスはロゼッタに対し、『あの方は私にすっかり骨抜きにされている』と言い放っていたが。
「間違ってない。俺は本気で、アイリスに骨抜きにされてるからな」
誰に聞かれることもない密室で、ただ一人の愛しい婚約者に向けて、静かに降参の笑みを浮かべる。
その後ジュリアンは名残惜しそうにもう一度だけ彼女の額にキスを落とす。
これ以上ここにいると色々と抑えきれなくなりそうなので、未練を断ち切るように何とか足を動かしてアイリスに背を向ける。
部屋を出る瞬間には、もう完璧な王太子ジュリアンの顔である。
扉の外で待機していたクララに、
「よく眠っています。今日の報告はまた後日にしましょう」
そう言って爽やかに微笑みかけ、ジュリアンは屋敷を後にした。
そして公爵邸からの帰り道。
熱を冷ますために、馬車の中ではなく、ジャックのいる御者台に座り、ジュリアンはぼんやりと夜空を眺めていた。
「……それで。さすがに寝ているご令嬢に手は出していませんよね?」
「…………」
ジュリアンは答えず、空を見つめ続ける。
「その無言は、肯定しているようなものですよ。いくら婚約者相手とは言ってもですね、節度は保って――」
「……出してない。手は」
ジュリアンが言い訳のようにポツリとこぼすと、ジャックは呆れたように片眉を上げた。
「手『は』出していない、ですか。それはつまり、他の何かはされたということですね? 唇ですか?」
「っ!」
「なるほど。では殿下の性格から鑑みるに、頭を撫でるとか……いえ、それは普段からやっていることですね。それに撫でる、だと手を出したことにはなります。だとすると今のあなたの反応から察して、例えば唇で……しかしいきなり許可なく相手の唇に、ではありませんよね。となると思わず額か頬にしてしまったと」
「…………」
有能すぎる側近の鋭すぎる推察に、ジュリアンは今度こそぐうの音も出ず、完全に沈黙した。
そして、これ以上何かを言われないように、あるいは、赤く染まってしまった己の頬を見られないようにと、片手で顔を覆い隠して内心で悶々とする。
今までは、彼女を大切に思い、時には甘やかし、可愛い反応を愛でるだけの余裕があった。
保護者のような慈愛すら持っていたはずだ。
だが、今の自分はもうダメだ。
先ほどの彼女の寝顔や、不器用な本音を思い出すだけで、そんな生温い感情はすべて吹き飛んでしまう。
完全に自覚してしまったこの感情は、ただ可愛いと微笑ましく愛でていられるような余裕のあるものではない。
今すぐにでも彼女を腕の中に閉じ込めて、一切の不安も重圧も感じさせないほどに限界まで甘やかして溺愛し尽くしたいという、強烈で熱い愛情だ。
彼女が不安になるようなものは全て排除して、あの頬が溶けるほど甘い言葉を囁き続けたい。
ただ隣で安心しきって笑っているだけの、最高に甘やかされたお姫様にしてしまいたいのだ。
だが、それは彼女が望んでいることではない。
『重い荷物も半分こにしたい』と真っ直ぐに言ってくれた彼女の覚悟を、勝手な過保護で奪うわけにはいかないのだ。
かといって、アイリスの性格を考えると、今ここでジュリアンが加減もせずに本気の熱量を叩きつければどうなるか。
彼女はそれに耐えきれずにジュリアンから逃げ出して、布団の国に引きこもってしまうだろう。
だからこそ、嫌でも今は自制するしかないのだが。
完全に己の恋心を自覚して自らの感情を持て余すジュリアンは、深いため息を夜風に溶かすのだった。




