3.従者の絶叫
永遠にも思えた地獄の夜会が、ようやく終わりを告げる。
本当なら、馬車に飛び乗って愛しのお布団の国へ直行したいところだ。
しかしアイリスは夜会終了後、すぐに自分からジュリアンへこう申し出た。
「殿下。もしよろしければ、これから少しだけお話しできませんこと?」
周囲には人がいるので聖母の顔のままそう言うと、ジュリアンはわずかに首を傾げる。
「今からですか? 私は構いませんが、アイリスは今夜は少しお疲れでは」
声も表情もいつもの完璧な王太子を装っていたが、アイリスを案じてくれている気持ちは本物のように見えた。
けれど互いの秘密を見てしまった以上、すべてを明日に先延ばしにしたところで、どうせ布団の中で延々と考え続けるに決まっている。
だからこそ、今夜ぐっすり眠れるように先に問題を解決しておきたかった。
そんなわけで、アイリスはジュリアンの執務室へとやってきたのだが。
「あー、本気で疲れた。あの宰相、あの後も隙あらばずっっっと俺に絡んできて……暇なのか!?」
執務室のドアが閉まった瞬間、ジュリアンは神々しい大天使の仮面を即座にかなぐり捨てた。
完璧に整えられていたタイを引き抜き、脱ぎ捨てたジャケットと共に乱暴にソファへ投げ捨てる。
やっぱり普段と違ってちょっと怖い……と涙目になりかけたアイリスだったが。
「アイリス、水でいいか? それとも酒か? 紅茶がいいって言うなら淹れるが」
「いえ、その、み、水で……」
そう答えると、なんとジュリアンは、わざわざアイリスのために水を注いで持ってきてくれたのだ。
「ん」
短くそう言って渡されたグラスを、アイリスは消え入りそうな声で礼を言いながら受け取った。
「っ……ありがとう、ございます」
一口流し込むつもりが、あまりの喉の渇きに、その場に立ったまま勢いよく飲み干してしまう。
すると、すぐさま二杯目が注がれた。
態度はぶっきらぼうに見えるが、もしかするとそんなに怖くないのかもしれないと思うと、こぼれそうだった涙が少しだけ引っ込んだ。
とはいえ、まだ動揺が収まったわけでもない。
とりあえず気持ちを落ち着かせようとアイリスは執務室の隅へ移動し、壁と観葉植物の隙間にそっと体を預ける。
一方のジュリアンは真っ直ぐ棚へ向かい、しまっていたボトルとグラスを取り出し、琥珀色のウィスキーを並々と注ぎ、それを水でも飲むかのように一気に煽る。
「あっつー……」
暑苦しそうにシャツの二番目のボタンまで外し、すぐに二杯目を注ぎ足すと、今度は窓を大きく開け放ち、あろうことか窓枠に片足を上げて無造作にドカッと腰掛けた。
王族としてあり得ない、極めて危なっかしくて行儀の悪い姿だ。
窓枠に腰掛けたまま夜風を浴び、二杯目の入ったグラスを揺らすその目つきは、どの角度から見てもキラキラ王子の欠片も残っていない。
アイリスは再び恐怖を覚え、震えながらその光景を直視していた。
まさか、あのオレーシアの至宝が。
触れるだけで病が治りそうとまで言われた完璧な王子様の中に、こんな姿が隠されていたとは。
「というか、なんでそんな端っこにいるんだよ。別に取って食ったりなんてしないから、もっとこっち来いって。話しにくいし」
「む、無理です……ここが落ち着くんです……!」
壁と観葉植物の隙間にぴたりと張り付いたまま、アイリスは首を振る。
薄暗い隅っこは、布団の中に次いで落ち着く絶対領域なのだ。
そんな彼女を見て、ジュリアンは大きくため息をついた。
「まあ、お前がそこが落ち着くって言うんならいいか」
少なくとも、無理やり引きずり出すつもりはないらしい。
アイリスがほんの少しだけ安堵した、その時だった。
コンコン、と短いノックの音が響き、返事も待たずにドアが開く。
「殿下。夜会がお開きになったからといって、そのような行儀の悪い真似はやめてくださいといつも言っているでしょう」
こめかみを押さえながら現れた分厚い眼鏡の青年の顔に、アイリスは見覚えがあった。
ジュリアンの幼馴染であり、従者を務める侯爵家の次男、ジャック・ネルランドだ。
しかし、アイリスは驚愕した。
ジュリアンのこの本性を目の当たりにしても、ジャックは全く驚いていない。
むしろ慣れ切った様子で、深々とため息をつきながら歩み寄ってくる。
「また飲んでるんですか」
「今日はこれで最後にする」
「あの宰相とのやり取りに苛ついているのは分かりますが、酒に逃げるのは感心しません」
「……分かってるって」
「なら自重してください。大体あなたはですね――」
ジャックから次々と繰り出される容赦のないお説教に対し、たじたじになりながらもおとなしく話を聞くジュリアン。
アイリスが息を殺して壁と同化している間にも、二人のやり取りは続く。
「というか『ここから王都を眺め、民を思うため』なんて立派な建前で、王宮最上階の端に執務室を作ったせいで、毎日山のような書類を運ばされる私の身にもなってください!」
ジャックが頭を抱えながら声を荒らげる。
対するジュリアンは、わずかにバツが悪そうな、申し訳なさそうな表情を滲ませた。
「……まぁ、そこは悪かったと思ってるよ。いつも書類運びばっかさせてさ」
ぽつりとこぼれたジュリアンの素直な謝罪にジャックは少しだけ目を丸くし、やがて呆れたように、けれどどこか柔らかい息を吐いた。
「いえ。私も色々と言い過ぎましたね。あなたの王太子としても重圧は理解しています。……特に最近は、王都の治安も妙な動きを見せていますしね」
「あー、あれな」
ジュリアンが面倒くさそうに首の後ろを掻く。
そのやり取りの意味は、観葉植物の陰に縮こまったままのアイリスにはよく分からなかった。
ただ、ジュリアンの目が一瞬だけ鋭く細められたことになぜか少しだけ引っかかったが――それが何なのかを考える前に、彼の口調はあっさりと元に戻っていた。
「あ、でも執務室をここに作った理由、あの建前も全部が嘘ってわけじゃないからな」
「で、本音は?」
「王宮の中心から離れてるから、面倒な貴族や役人が寄り付かない。あと、この姿を思う存分解放できる」
「やっぱりそれが一番の理由じゃないですか。もし誰かに見られでもしたら、殿下の完璧な名声に傷がつきますよ」
「その時は火消しを頼む」
「嫌ですよ」
言い合いというよりは、気心の知れた悪友同士の掛け合いのようだ。
しかしながらそんな二人の声を聞きながら、アイリスは壁際で一人、血の気を引かせていた。
やはり今のジュリアンの姿を見てしまった自分は、消されるかもしれない。
……けれど処分されるにしても、せめて布団の中で眠るように逝きたい。
ガタガタと震えながら、観葉植物の陰にさらに身を潜めるアイリス。
そんな彼女の存在に全く気づいていないジャックは、大きく息をついてからジュリアンに向き直った。
「はぁ、もういいです。それよりも、今日は随分と早いお戻りですが、アイリス様のエスコートはどうされたんですか。まさか一人で馬車に乗せて帰らせ……」
そこまで言いかけて、ジャックの言葉がぴたりと止まった。
彼はようやく気づいたのだ。
執務室の入り口付近、観葉植物の陰で、壁のシミと同化しようとしている『オレーシアの聖母』の存在に。
「…………え?」
ジャックはその一音だけを発したあと、完全に固まった。
そして、ウィスキー片手に一切動じない主と、部屋の隅でガタガタ震えている完璧淑女を交互に見比べる。
眼鏡も、動揺のためか大きくずれている。
やがてジュリアンが二杯目を飲み干したところで、ようやくジャックはぎこちなく首を動かした。
「で、殿下……? まさか、すべてアイリス様に……?」
ジュリアンはあっさりと頷く。
「ああ。バレた」
「はぁぁぁぁーーーー!?」
ジャックの絶望に満ちた絶叫が、王宮の最上階に響き渡った。




