2.剥がれた化けの皮
「…………」
「…………」
時間が、止まった。
静まり返った中庭で、二人は完全に固まった。
――尻餅をついて半泣きになっているオレーシアの聖母と、気怠げな姿勢のままで鋭い視線を飛ばしているオレーシアの至宝。
数秒の、永遠にも似た沈黙の後――。
ジュリアンはだらしなく崩していた姿勢を正し、目にも止まらぬ速さで壁から体を離したかと思うと、一瞬で髪型を元のように手で整える。
そして何事もなかったかのように、花が舞うようないつものキラキラスマイルを浮かべた。
「やあ。こんなところにいたんですね、アイリス。随分と探しましたよ」
「え、ええ、殿下……」
しかし、さすがに無理があった。
どう考えても、たった今の光景を見なかったことにはできない。
引きつった声を上げるアイリスの前で、ジュリアンはあくまで完璧な王子様の笑顔を崩さず、優雅に右手を差し出してきた。
「手を貸しましょう。怪我はないですか?」
「あ、ありがとうございます、大丈夫、です……」
アイリスは戸惑いながらも、震える手でその大きな手を取る。
ふわりと軽い力で引き上げられ立ち上がると、至近距離にオレーシアの至宝の顔があった。
思わず喉の奥から、ひぃぃぃっという情けない声が漏れる。
頭では分かっている。
ジュリアンを見習って、アイリスも完璧な淑女として対応すべきだと。
『まあ殿下、髪が少し乱れておりましてよ? 暗がりで木々の枝にでも引っ掛けてしまわれたのかしら?』
とでも白を切れば、きっと丸く収まる。
しかし、あまりにも予想外の事態に、どうしても仮面がうまく張り付かない。
息がかかりそうなほどの距離で見つめてくる美しい青い瞳の奥に、先ほどの凶悪な顔がフラッシュバックする。
もういっそのこと、「風にあたって少し寒気がするので帰ります!」とでも叫んで逃げよう……!
そう決意して、ジュリアンから手を離そうとした時だった。
離れかけたアイリスの手を、ジュリアンの指が引き止めた。
「え? 殿、下……? あの、手が……」
キラキラと微笑むジュリアンの顔が、ゆっくりと、さらに近づく。
ジュリアンは彼女の耳元に唇を寄せると、甘く穏やかな声色から一転、地を這うような低い声で、短く囁いた。
「アイリス……見たよな、今の」
「ひょぇぇぇっ!?」
情けない悲鳴が、夜の闇に響き渡った。
アイリスはぶんぶんと首を振りながら、後ずさろうともがく。
「み、見てないです! 何も見てません! 目つきが悪かったとことか怖い顔になってたとことか、ものすごい低い声で悪態ついてたとことか、何も!」
「全部見てるじゃないか」
低く鋭いツッコミが飛んできた。
そのドスの効いた声に、アイリスの中で張り詰めていた完璧淑女の糸がぷつんと音を立てて千切れた。
「あーもう無理っ! 無理無理無理! 私もうこれ以上頑張れない! ただでさえ毎日毎日毎日人間だらけで目立ちまくって息が詰まるのに、その上完璧な王子様の素がこんなに怖いなんて聞いてない……っていうかもうお布団帰りたい! モフモフに包まれたい。あ、そうだ、やっぱりこれ夢なんだ、さっきはつねる力が弱すぎただけ、そうに決まってる!!」
極限のパニックに陥り、ついに公爵令嬢の仮面をかなぐり捨てて泣き叫ぶアイリス。
その見事なまでの限界っぷりを目の当たりにして、ジュリアンが呆気に取られたように目を丸くした。
「は……? なんだその口調……それに普段と違って落ち着きなさすぎだろ。もしかしてそっちが素か」
「お家帰る! もう一人にして! お布団の国に帰してー!」
「布団の国? 何言って……」
「ふかふかで安全で、誰も話しかけてこない楽園です! 私は今すぐそこへ帰還したいんです!」
「よく分からんがとにかく落ち着けって!」
ジュリアンはアイリスの手を離すと、暴走する彼女を宥めるように両肩へ手を置いた。
普段よりも影を帯びたように見えるその目が怖くて、アイリスはなおも叫ぶ。
「うぅ……どうせ私がこれ以上騒がないように、証拠隠滅のために海に沈めるんですよね!?」
「はあ!? そんなことするか! 俺をなんだと思ってる!」
「だ、だって殿下はこの国の最高権力者になるお方ですよ!? なのに秘密を知った私を野放しにするはずないじゃないですか! 海じゃないなら川ですか湖ですか、血の海ですか!?」
「勝手に物騒な想像をするな! いいからその暴走した思考を一回止めろ!」
そう言ったあと、ジュリアンは小さく息を吐き、アイリスの肩を掴む力をほんの少しだけ緩める。
それから視線は合わせたまま、今度は先ほどよりも柔らかい声で続ける。
「とりあえず、どこにも沈めないし、お前を怖がらせるようなことはしない。だから落ち着け」
「……はい」
まだ頭の中は混乱しているが、今すぐにこの世から滅されることはないと分かり、アイリスの呼吸もゆっくりと落ち着いていく。
それを確認した後、ジュリアンはほんの少しだけ目元を緩めた。
「よし、いい子だ」
まるで小さい子供を褒めるような言い方だったが、不思議と嫌悪感はなかった。
だがジュリアンが、
「さて、そろそろ夜会に戻った方がいいんだろうが……」
と言いかけた途端、アイリスの顔が一気に青ざめる。
さっきチャージした気力は、既に下限値に近い。
するとアイリスの様子をじっと見つめていたジュリアンは、意外にもこんな提案してきた。
「……色々話したいことは山積みだが、もし本当に限界なら、今日はとりあえず体調不良ってことにして帰ってもいいぞ。あとの挨拶回りは俺が一人でしとくから」
「えっ」
その甘すぎる提案に、アイリスは一瞬「うそ、やった!」と歓喜しそうになった。
けれど、今日は国にとっても重要な建国祭の夜会だ。
王太子の婚約者として、まだこなさなければならない大事な公務が残っている。
逃げたい。
帰りたい。
今すぐお布団に飛び込みたい。
しかし、自分に課された責任や役割を途中で投げ出すことだけはしたくなかった。
アイリスは小さく、けれどしっかりと首を横に振る。
「……いえ、大丈夫です。お心遣い感謝いたしますわ、殿下」
そう答えて深呼吸を一つすると、アイリスは完全に『オレーシアの聖母』としての、慈愛に満ちた微笑みをジュリアンに向けてみせた。
見事な仮面の切り替えに、ジュリアンは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに納得したように短く息を吐く。
「分かった。けど、なにかあったらすぐ言えよ」
「はい」
アイリスが頷くと、ジュリアンも瞬時に太陽神のごとき微笑みを顔に貼り付け、いつものようにアイリスの腰を優しく抱き寄せた。
「それでは夜会へ戻りましょうか、私の愛しいアイリス」
そして二人は完璧な笑顔を引っ提げて、光り輝く夜会のフロアへと戻っていった。




