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聖母令嬢はお布団に帰りたい ~完璧王太子に素顔がバレたら、全力でお世話されそうです~  作者: 春樹凜
完璧な二人の化けの皮

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1.完璧な王太子と公爵令嬢の真の姿



 オレーシア王国には、神が遣わした『奇跡のつがい』がいる。


 一人は王太子、ジュリアン・オレーシア。

 

 黄金の髪に宝石のような青い瞳を持ち、彼が微笑めば幻の花が舞っているかのように錯覚するほどに麗しい。


 人々は彼を『オレーシアの至宝』と呼ぶ。


 もう一人が彼の婚約者で、銀髪に淡い緑の瞳の公爵令嬢、アイリス・レンフェルト。


 若くして淑女のお手本と讃えられ、慈悲深い性格から、『オレーシアの聖母』と崇められている。


 今宵の建国祭の夜会でも、二人が並んで歩くだけで貴族たちはため息をこぼし、令嬢たちは浄化される勢いで見惚れていた。


「アイリス。今日の君は一段と美しいですね。君の瞳に映る自分が、世界で一番の幸せ者に思えて仕方がありません」

「まあ、殿下ったら。そのお言葉だけで、私は胸がいっぱいですわ」


 甘く囁き合って微笑みを交わす姿は、誰がどう見ても非の打ち所のない完璧な婚約者同士。


 ――そう、見えているだけだった。







「もう嫌だ……。無理。人間多すぎて表情筋が死ぬ。早くお布団に帰りたい……」


 会場の光も、星空も月明かりも届かないほど木々が生い茂った、中庭の隅の隅。


 そこで一人、地面に蹲って頭を抱えている令嬢がいた。


 つい先ほどまで、清らかな微笑みで夜会のフロアを彩っていた『オレーシアの聖母』ことアイリス・レンフェルトその人である。


「前世からずっと教室の隅っこで息を潜めて生きてきたのに。なんで転生先が超絶目立つ公爵令嬢なのよ……」


 ――そう、アイリスには秘密があった。


 彼女は、日本で生きた前世の記憶を持つ転生者だった。


 前世の彼女は、人と関わるのが極度に苦手な人間だった。


 落ち着く場所は教室の隅。

 休みの日は引きこもって、お布団と仲良く惰眠をむさぼるのが何よりの楽しみだった。


 それが何の因果か、転生したら超絶美少女の公爵令嬢である。

 華やかな社交界も、大勢の人々に常に囲まれる令嬢の生活も、コミュ障のアイリスにとっては苦行でしかなかった。


 しかし、前世持ちなことは知らないものの、アイリスの性格をよく知っていた家族は、彼女にある時こう言ったのだ。


『勉強も礼儀作法も、文句のつけようがないくらい完璧にこなせば、あとはすぐに布団に帰っていいからね』


 その言葉を聞いたアイリスは奮起した。


 愛しのお布団の国に一秒でも早く帰還したい――その一心で、彼女はマナーも学問も血を吐くような努力で極めた。

 さらに、誰からも咎められる隙を与えない微笑みと、優雅な所作まで身につけた。


 しかしその努力は完全に裏目に出てしまい、アイリスは同年代の令嬢の誰よりも優雅で、教養に溢れた、非の打ち所がない完璧淑女へと仕上がってしまったのだ。

 

 つまり、やりすぎたのだ。


 そのせいで今や、国の至宝たる王太子の婚約者である。


 そもそも聖母などと呼ばれるようになったのも、意図せぬ理由がある。  


 学生時代、ジュリアンと婚約した彼女に嫉妬した令嬢たちが、制服に泥水をかけたり、教科書を隠したり、孤立させようとしたことがある。

 

 だがアイリスは、微笑んでこう返した。


「あなた方の心が晴れるのなら、私は一向に構いませんわ。どうか皆様に平穏が訪れますように」


 本当はただ怖くて、早くその場から解放されたかっただけだ。


 孤立させられた時も、一人にしてくれてありがとうという気持ちだった。


 怪我をした野良犬を助けたこともあったが、人間より動物のほうが気を使わなくて済むからだ。


 試験前にクラスメイトに要点をまとめたノートを配ったりもしたが、「これをあげるから、どうか私には話しかけないで」という、ささやかな賄賂のようなものだった。


 しかし周囲は、彼女のそうした回避行動を、すべて慈愛として受け取った。

 嫌がらせをしてきた令嬢は涙ながらに謝罪し、気づけばアイリスの周りには人が集まり、聖母として崇められている。

 

 毎日浴びるおびただしい数の視線と、分刻みの王妃教育のプレッシャーに、アイリスの胃には確実に穴が開きかけていた。


「……はあ。それに引き換え、殿下は本当にすごいなあ」


 膝を抱えたまま、アイリスはぽつりと呟く。


 偽物聖母のアイリスとは違う。

 

 婚約者であるジュリアンは、どこからどう見ても完璧だった。

 剣術大会では並みいる騎士を相手に優勝し、難解な古代語の文献を一目で読み解いて研究者を唸らせ、社交の場ではその美貌と話術で誰をも魅了する。

 何より、本当は人見知りで引っ込み思案なアイリスにも、彼はいつだって優しく接してくれる。


「あんなに完璧で、優しい人が婚約者だなんて。私は本当に、恵まれてるんだろうなあ……」


 しみじみと、心からそう思う。

 思うのだが。


 ……そのおかげでアイリスに集まる視線も注目も倍増して、こうして毎回息切れしている。


 非の打ち所のない婚約者を持つというのも、なかなかに過酷なのだった。


 とはいえ、こうして誰の気配もない暗がりに身を置いていたおかげで、ささくれ立った精神は少しずつ凪いでいく。

 あと少しだけここで休んだら、また聖母の仮面を被り直してフロアへ戻ろう。


 アイリスがそう思い、ふう、と息を吐いたその時だった。


「アイリス? どこへ行ったんですか?」


 ハチミツのように甘く穏やかな声が、夜の闇を切り裂く。


 婚約者となって早六年、聞き間違えるはずがない。

 ジュリアンの声だ。


 先ほどアイリスは、「少し風に当たってまいりますわ」とジュリアンに告げ、ここへ逃げ込んできた。

 戻りの遅いアイリスを心配して、探しに来てくれたのだろう。


 アイリスは深呼吸をして淑女の仮面を被り直し、暗がりから彼の元へ出ようと立ち上がる。

 そっとドレスについた土を払い、一歩踏み出しかけた。


 しかし。


「……さすがにこんな辛気臭い庭の隅になんていないか」


 耳を疑うような、ひどく低くてドスの効いた声が響いた。


 アイリスの足が、ぴたりと止まる。


 今のは、一体。

 

 周囲を見渡すが、ジュリアン以外の気配はない。


 ならば聞き間違いだろう。

 そうに違いない。

 アイリスの耳はそう判断したのだが。


 彼女がここにいることに気づいていないらしいジュリアンは、髪の毛を苛立たしげにがしがしと掻き、無造作に壁へ背中を預けた。


 アイリスは目を疑った。

 いつも髪の乱れ一つなく、背筋を定規みたいにまっすぐ伸ばし、立っているだけで一枚の絵画のようだと讃えられる人が、今は見たこともないような気怠げな姿勢で壁へもたれかかっている。


 さらに。


「あの狸ジジイ、よくもまあネチネチと……相手するの本当面倒くさい」


 ジュリアンは心底うんざりしたように吐き捨てる。


「さっさとぼろ出してくれよ。そしたら即刻宰相から引きずり下ろせるってのに」


 その声に、普段の甘く穏やかな響きは欠片もない。


 いつもなら幻の花を背負っているような王子が、今まき散らしているのは禍々しい黒いオーラだ。

 青空のような瞳も当社比半分ほどに細められ、ひどく剣呑な光を帯びている。


 ――もしかすると実は今自分は布団の中にいて、これは夢なのかもしれない。


 そう思いたくて、アイリスはそっと頬をつねった。


「……痛い」


 夢ではない。

 目の前のジュリアンも、当然ながら消えてくれなかった。


 ……つまりあれは間違いなく、『オレーシアの至宝』『女神が作り上げた生きる芸術品』『吐息すら神の息吹』とまで称される、ジュリアン本人なのだ。


 アイリスの心臓が、ばくばくと音を立てる。


 なにせ、王子のとんでもない極秘の姿を見てしまったのだ。

 あんなものを見たとバレたら、最悪、王都の海に石をつけられて沈められるかもしれない。

 今のジュリアンには、慈愛の欠片などまるでないように見えたから。


 ならば即時撤退に限る。

 

 アイリスは音を立てないよう、そっと、じりじりと後ずさりをしたのだが。


 ガンッと、背中が、庭師が置き忘れていた大きなスコップにぶつかる。


「ひゃあっ!」


 思わず漏れた悲鳴と共に、ガシャアアン! という派手な金属音が響く。


 アイリスは無様に尻餅をつき、暗がりからジュリアンの目の前へと転がり出てしまった。


「あ?」


 低い声と共に、ジュリアンが地面に転がってきたアイリスを見る。


 ――瞬間、アイリスとジュリアンの目が、ばっちりと合った。



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