29.悪女の証明
「ごきげんよう、バーンズ男爵」
「ア、アイリス様!? な、なぜ私のような者のところへ……!?」
会場にアイリスがいることはすでに知れ渡っている。
しかし、雲の上の存在である王太子の婚約者から直接声をかけられたことに、男爵は目玉が飛び出そうなほど驚愕していた。
アイリスは男の動揺など意に介さず、酷薄な笑みを浮かべて囁く。
「ねえ、あなた。多額の借金があるそうね。だから……お金が喉から手が出るほど欲しいのでしょう?」
「えっ? は、はい! それはもう!」
「なら、これを差し上げますわ。借金の返済の足しになさいな」
アイリスはそう言うと、慈悲深い笑みを浮かべ、自身の胸元を飾っていた美しい蒼水晶のブローチを外すと地面にことりと置く。
――それは、ジュリアンの瞳の色と同じ、希少な蒼水晶が使われたブローチである。
この蒼水晶はただ美しいだけでなく、非常に脆く、雑に扱えばすぐに割れてしまう性質を持っている。
それゆえに加工が極めて難しく、一流の職人しか扱えないため、目が飛び出るほど高価な品なのだ。
そして、アイリスが学園の卒業時にジュリアンが贈った物であり、同時に王都の社交界なら誰もが知る、ジュリアンからアイリスへと贈られた愛の証だとも言われている。
本当は周囲が勝手にそう騒いでいるだけなのだが、それでもアイリスにとっては、かけがえのない宝物だった。
――ただし、持ってきたのはイミテーションである。
だが、一見してそれが分からないほどに精巧な出来なので、誰も気づく様子はない。
もちろん、目の前のバーンズ男爵もそうだった。
「こ、これを私に!? しかし、これは王太子殿下からの……」
「構いませんわ。どうせ、あの方の愛など私には不要ですもの。さあ、遠慮せずに拾いなさいな」
男爵は「おお……!」と卑しい歓喜の声を上げ、膝を折り、一攫千金の希望の光にすがりつくように、床のブローチへ向かって勢いよく手を伸ばす。
そして男の指がブローチに触れようとした、まさにその瞬間。
パァァン!
硬質な音と共に、男爵の目の前で蒼水晶が粉々に砕け散った。
アイリスが、自らの履いている鋭いヒールで、ブローチを容赦無く踏み砕いたのだ。
「あ…………え?」
男爵は伸ばした手の先でキラキラと輝く残骸を前に、完全に呆然自失の表情で固まった。
それを見ていたアイリスは、扇で口元を隠し、己の非道な行いに対してわずかに唇を歪める。
けれど悪女の演技は、意地でも継続させる。
「あら、ごめんなさい。足元がよく見えなくて踏み潰してしまいましたわ」
「な、なぜ…… どうしてこんな酷いことを……!」
「酷いこと? 私があなたに情けをかける価値があると、本気で思っていたの?」
男爵の絶望した顔を見下ろしながら、アイリスの胸の奥で心臓がバクバクと早鐘を打っていた。
自分は、なんて酷い悪役令嬢なのだろう。
アイリスは内心でブルブルと震えていた。
相手は、違法な高利貸しで多くの人々を追い詰め、賭博場や闇オークションへ人を流していた疑いのある男だ。
同情すべき相手ではない。
けれど、目の前で希望を踏み砕く行為が正しいとは、アイリスにはどうしても思えなかった。
気分がすっきりするどころか、胸の奥がずしりと重くなる。
それでも今ここで迷えば、ロゼッタに見限られ――ひいては、あの闇に近づく道が閉ざされてしまう。
だからアイリスは、震えそうになる指先を扇の陰に隠し、冷酷な眼差しを保ったまま、足元の残骸かに視線を向ける。
念のため、イミテーションを用意してきて本当によかった。
思いついたきっかけは、前世で見てきた数々のスパイ映画の知識を思い出したから。
敵陣に潜入して寝返ったと見せかける際、かつての忠誠の証や大切な人からの贈り物を目の前で壊させられる踏み絵系のイベントは、絶対に避けては通れない王道テンプレの一つなのだ。
心の中で、これを用意してくれた有能な侍女に感謝していると、ふと後に立つジュリアンと視線が合う。
ジュリアンは、床に散らばった蒼水晶の残骸とアイリスを交互に見比べ、目を見開いて完全に固まっていた。
その本気で驚愕している顔を見て、アイリスはサーッと血の気が引いた。
――これがイミテーションだとジュリアンに伝えるのを、すっかり忘れていたのだ。
潜入の準備や根回しで頭がいっぱいで、そこまで気が回っていなかった。
いくら作戦とはいえ、婚約者から贈られた本物の宝石を目の前で踏み砕かれたと思えば、ショックを受けるのは当然だ。
だが、今それについて言及するわけにはいかない。
後で必ず謝罪しないと……!
そう思いながら、這いつくばったまま絶望に染まる男爵をもう一度見下ろす。
そうしてアイリスは、踵を返してテラス席へと戻った。
一連の光景を見ていたロゼッタは、アイリスが戻るや否や、愉悦に満ちた笑みを浮かべて両手を叩いた。
「素晴らしいわ、アイリス様! 見事なまでにあの男を絶望の底に叩き落としたわね。……でも、殿下からの愛の証を壊してしまって、後で何か言われるんじゃないかしら?」
ロゼッタが楽しげに尋ねると、アイリスは艶然と微笑んだ。
「ご心配には及びませんわ。あの方は、私にすっかり骨抜きにされておりますもの。言い訳などいくらでもできますし。あの方もこの国も、全て私の手のひらの上ですから」
野心に満ちた悪女の顔を見た瞬間、ロゼッタの瞳に明確な歓喜と、同類への信頼の色が宿った。
「認めてあげますわ。あなたは間違いなく、こちらの世界の住人ね」
ロゼッタはアイリスの隣の席を自らの手で引き、極上の笑みを浮かべて彼女を誘った。
「さあ、こちらへいらして。……これからは、私と親交を深めましょう?」
こうしてアイリスの一世一代の大芝居により、見事に最大の敵であるロゼッタの信頼を勝ち取った。
闇オークションへの招待状こそまだ手に入らなかったものの、宰相派の奥深くへと入り込むことに成功したのだ。




