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聖母令嬢はお布団に帰りたい ~完璧王太子に素顔がバレたら、全力でお世話されそうです~  作者: 春樹凜
悪女と狂犬

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28.悪女と悪女



 そこはロゼッタとアイリス、そしてお互いの護衛役が一人ずつ背後に控えているだけの、外界から切り離された空間だった。


 席に着くや否や、ロゼッタはグラスに注がれた琥珀色の果実酒をアイリスの前に滑らせた。


「さあ、まずは歓迎の祝杯を上げましょう?」


 甘い香りが漂う酒を勧められ、アイリスは一瞥しただけで、グラスには一切手を触れずに微笑み返した。


「せっかくですけど、お断りいたしますわ」

「あら。歓迎の品なのに? 安心なさい、毒は入っていないわよ」


 ロゼッタが不満げに眉を寄せると、アイリスは「ええ、分かっておりますわ」と涼しい顔で頷いた。


 おそらくこれはアイリスに対する試しだ。


 何も入っていない酒すら飲めないほど私を恐れているのか、という格下扱いして精神的な優位に立つための罠である。

 かといって素直に飲んで何かしらが入っていても嫌だし、怯えて飲まなくても、ロゼッタに主導権を握られるだけだ。


 ここが正念場だと、もはや何度目か分からない言葉で自身を鼓舞し、アイリスは目を細めて微笑んだ。


「何も入っていないことは存じております。ですが……あなたはまだ、私を完全には信用していらっしゃらないでしょう? そんな状態で出されたものを口にするほど、私もお人好しではありませんの。なにせ私は慈愛の溢れた聖母ではありませんので」


 アイリスが扇越しに真っ直ぐに見据えてはっきりと告げると、ロゼッタは一瞬驚いたように目を丸くする。


 やがてクスクスと肩を揺らして笑い出した。


「ふふっ……あははは! ええ、あなたの言う通りだわ。私はまだ、あなたを信用していないのよね。とはいえ、中に何も入っていないのは真実だけど……いい判断だと思いますわよ」


 ロゼッタは自身のグラスを手に取り、ゆっくりと一口含むと、再びアイリスへと冷酷な視線を向けた。


「だけどアイリス様。あなたが本当に聖母の皮を被った野心家だというなら……一つ、私に面白い見世物を見せてくださらない?」

「見世物? どういう意味かしら」


 ロゼッタはすっと冷酷な視線をフロアの一角に向けた。


 そこには、取り巻きを引き連れて大声で下品に笑っている、恰幅の良い男の姿があった。

 ロゼッタはフロアの一角に目をやり、つまらなそうに唇を歪める。


「あの男は、バーンズ男爵。うちの派閥の末端にしがみついている小物よ。こちらの金回りの一端を任せていたのだけれど、もともと借金まみれで、お金に目がないの。その上騎士団に尻尾を掴まれかけるっていうへまをしておきながら、助けてほしいだの金が必要だのと、みっともなく私に泣きついてくるの」


 ロゼッタは、まるで道端の泥でも見るように目を細めた。


「頭は悪いし、使い道もないし、本当に目障り。面白みもなくて退屈なのよね」


 ロゼッタはアイリスへと視線を戻し、真綿で首を絞めるような、底冷えする微笑を浮かべた。


「だから……あなたがあの男を完膚なきまでに絶望させて、私を満足させてみてくれないかしら?」


 なんという無茶ぶり。


 本当は小心者のアイリスには、ハードルが高すぎる。

 お布団でシミュレーションしたパターンにはない、あまりにも残酷な展開だ。


 しかし、標的として名指しされたバーンズ男爵という男には、アイリスも覚えがあった。


 実は先日、違法な利子で人々を借金漬けにし、賭博場や闇オークションへと引きずり込む手引きをしていた高利貸しがいたのだが、その一人が、このバーンズ男爵だったということをジュリアンから聞いていた。


 すでに証拠も集まりかけていて捕まえるのは時間の問題だとも。


 つまり、違法賭博にデイモン家が関わっているのは間違いない。


 だが、いくら極悪人で、いずれ捕まる運命の男とはいえ、アイリス自身の手で絶望させるなんて……。


 どうすればいいのかとアイリスが考えを巡らせながら息を呑んだ、その時だった。


 背後に控えていたジュリアンが、微かに舌打ちをし、アイリスを庇うように一歩前へと出ようとしたのだ。


 ジュリアンの瞳が、自分が代わりにやると、明確にそう語っているようだった。

 彼としては、アイリスにこれ以上手を汚させるような真似はさせたくなかったのだろう。


 だが、それではダメなのだ。

 護衛が片付けてしまっては、アイリス自身の証明にならない。


 覚悟はとうに決めている。

 

 それに今、思いついたこともある。


 アイリスは密かに小さく息を吐きながら胸元のブローチをそっと撫でると、凍えるほどの冷たい声で言った。


「下がりなさい。主人の前にしゃしゃり出るような犬に躾けた覚えはなくってよ」


 アイリスは冷たく言い放ち、扇でピシャリとジンの胸元を制した。


 内心では、こんなひどい言い方をしてごめんなさいと土下座する勢いで謝り倒す。

 アイリスはジュリアンの顔を見上げ、ほんの一瞬だけ、強い意志を込めたアイコンタクトを送った。

 私に任せてください、と。


 その視線を受け取ったジンは、わずかに目を見開いた後……やがて元の位置へと一歩下がった。


それを確認してから、アイリスはロゼッタに向かって妖艶な笑みを浮かべてみせる。


「少し、見ていてくださいませ」


 アイリスは扇を広げると、標的であるバーンズ男爵へと、優雅な足取りで近づいていった。



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