27.聖母の裏の顔と狂犬
王都の郊外にひっそりと佇む、デイモン家の所有する豪奢な別邸の前で降り立ったアイリスは、落ち着かせるようにゆっくりと深呼吸をする。
体の震えが止まったところで、後ろにジンに扮するジュリアンを従えて屋敷の中へ足を踏み入れた。
「……あれは」
「なぜ、王太子派の筆頭であるアイリス様がここに!?」
会場に姿を現した瞬間、中にいた参加者たちの間で、動揺がざわめきが波のように広がる。
それに今日のアイリスは、柔らかい雰囲気を身にまとっているいつものアイリスとはまったく様子が違う。
表情はどこか冷淡で、ドレスも、聖母の雰囲気に合ったいつもの淡い色ではなく、夜の闇に溶け込むような深い群青色のドレスだ。
その後ろには、威圧感を放つ黒服の護衛役であるジュリアンが影のようにピタリと付き従っていた。
一見すると、疑惑の視線も何もかもを全く意に介さず歩いているアイリスだが……。
周囲の刺さるような警戒の視線に、アイリスのメンタルゲージは早くも赤ゲージが点滅している。
なにせ完全にアウェーなのだ。
前を見ても右を見ても左を見ても敵しかおらず、まるで魔窟にでも紛れ込んだようだ。
胃が痛くなるのを感じながらも、それでもアイリスは表面上は冷ややかな、見下すような微笑みを崩さずにフロアをゆっくりと歩く。
すると会場の奥から、招待主であるロゼッタが優雅な足取りで近づいてきた。
「よく来てくださったわね、アイリス様」
「ふふ、ごきげんようロゼッタ様」
「ずいぶんと雰囲気が違うようで驚いたわ。本当にあのオレーシアの聖母と同じ人物なのかしら?」
「お茶会のような退屈な場では、相応の愛想の良い仮面が必要ですもの。でも、今夜のような特別な集まりでは、そのような無駄な優しい仮面を被る必要はないかと思いまして」
アイリスが妖艶な微笑を浮かべて答えると、周囲で聞き耳を立てていた令嬢や令息たちがざわめく。
誰もが知る完璧な聖母とはまるで違う、高慢で隙のないその立ち振る舞いに、会場の誰もが彼女から目を離せなくなっているのをアイリスは感じる。
「……なるほど。いい顔をするようになったわね」
ロゼッタは満足げに笑うと、ふとアイリスの背後に立つ男へと鋭い視線を向けた。
「ところで、その後ろの野蛮な男は何かしら? ここは特別な夜会よ。どこの馬の骨とも知れないような下品な人間を入れるつもりはないわ」
ロゼッタが顎でしゃくると、別邸の警備にあたっていた大柄な男たちが数人、即座にジュリアンを排除しようと動き出した。
屈強な男たちが一斉に襲いかかってくる様に、アイリスの内心は悲鳴を上げたが、顔には出さない。
ジュリアンの強さは知っているが、それでも彼のことが心配で、顔は悪女めいた仮面を貼りつけて振り向くものの、不安が滲む瞳をしそうになる。
だがジュリアンは全く動じることなく、迫ってくる男たちに向かって気だるげに息を吐いた。
「ちっ……面倒くさいな」
次の瞬間、ジュリアンの体がブレたように見えたかと思うと、骨が軋むような鈍い音が響き渡った。
先頭の男のみぞおちに強烈な拳を叩き込むと、怯んだ隙に次々と流れるような動きで急所を打ち抜いていく。
そうして素手による最短の手刀と蹴りのみで、数人の大柄な男たちを一瞬にして床に沈めてしまったのだ。
「なっ……!?」
あまりにも圧倒的な暴力に、会場は悲鳴を上げる暇すらなく静まり返った。
ジュリアンは気絶した男たちを無表情に見下ろして首をポキリと鳴らすと、何事もなかったかのようにアイリスの背後へと戻る。
正直、剣すら抜かずに倒せるとは想定外だった。
本当は今すぐ「殿下、大丈夫ですか!?」と駆け寄りたかった。
けれど、今の自分はジンを飼う悪女だ。
アイリスは口があんぐりと開きそうになるのをこらえ、沈黙するロゼッタに対し、余裕の笑みを浮かべて扇を広げた。
「ごめんなさいね、ロゼッタ様。 彼は私のこの顔の時の護衛ですわ。公爵家ではなく、私が個人的に王都の裏通りで拾って雇っている…… 少々柄は悪いですけれど、とても使える『犬』ですの」
そしてアイリスは扇越しにロゼッタを真っ直ぐに見据える。
「いくらロゼッタ様のご招待とはいえ、初めての場所に何の対策もなしに踏み入れるほど、私も愚かではありませんわ」
アイリスが悪女の笑みでそう答えると、ジュリアンはロゼッタに向かって不敵に鼻を鳴らしてみせた。
その無礼すぎる態度にロゼッタの取り巻きたちは色めき立ったが、ロゼッタ本人は面白そうに目を細めた。
殺気を放つジュリアンのその姿は、完全に裏社会のゴロツキそのものである。
声のトーンや目つきから立ち振る舞いに至るまで、彼が光の粒子を振りまく王太子ジュリアンだと見破れる者は、この会場には一人としていないだろうとアイリスは確信した。
「ふふ、なるほど。裏社会のゴロツキを自分の手駒にしているなんて、王太子の婚約者様も随分と面白い趣味をお持ちなのね。……そういえば学園でも、怪我をした汚い野良犬を熱心に手当てして手懐けていたという噂を聞いたけれど。あなたの犬好きは本物というわけね」
「犬は可愛いですのよ。きちんと躾ければ懐いて、主の命令に従う忠実な僕になりますもの」
アイリスは扇を軽く揺らしながら、淀みなく言葉を返しつつ、内心でガッツポーズをとっていた。
この一週間、万が一にも敵陣でボロを出さないよう、起こり得るあらゆる事態や会話のパターンを想定し、お布団の中で必死に『悪女のセリフ集』をシミュレーションして暗記してきていたのだ。
その涙ぐましい(?)事前準備のおかげで、今のアイリスは、ロゼッタの鋭い言葉に対してもアドリブに見せかけた見事な悪役ムーブを演じきれているはずだ。
――それ以外にも、彼女からされるであろう無茶ぶりを想定して、準備している物もある。
アイリスは一瞬だけ、自身の胸元を彩るブローチを見つめた後、ロゼッタに視線を戻す。
ロゼッタは床に転がる警備の男たちを一瞥すると、再びアイリスへと優雅な笑みを向けた。
「いいわ。あなたを歓迎するわ、アイリス様」
そう言うと、ロゼッタはアイリスを、会場の端にある少し隔離されたテラス席へと誘った。




