26.変装と最終確認
一週間後の当日。
陽が傾き始めた夕刻、レンフェルト公爵家の玄関前に、家門の紋章を持たない地味な黒塗りの馬車が静かに横付けされた。
アイリスとクララが近づいていくと、御者台に座って手綱を握っていた男が軽く会釈をした。
アイリスは以前のお忍びデートの際にも一度見たことがあったためすぐに気づいたが、今の彼を見て、王太子の側近である『ジャック・ベアトリス』だと見破れる者はまずいないだろう。
元の黒髪をジュリアンと同じ濃い茶色に染めていることもあるが、何より最大の理由は、彼がいつもかけている、目元の印象すらぼやけてしまうほど分厚い眼鏡を外していることだ。
あれがないと少しばかり視界がぼやけるらしく、自然と目を細めて眉間にシワが寄ってしまうらしい。
しかしそのせいで、普段の真面目な雰囲気は完全に消え失せ、非常に目つきの鋭い、少し凄みのある別人のような顔つきに変わっているのだ。
……それが素のジュリアンの顔に似ていることは内緒にしておこうと、アイリスは思った。
ジャックと軽く会話を交わしていると、やがて馬車の扉が内側から開き、一人の人物が中から姿を現した。
「やあ、待たせたかな?」
そこにいたのは、キラキラとした光の粒子を振り撒く完璧な王子様のジュリアンではない。
今の彼は、王都へ行った時のように髪を茶色に染めて髪型も少し変え、今日は眼鏡もかけている。
そのうえで黒の詰襟服をきちんと着こなしながらもどこか着崩して見える、目つきの鋭い青年の姿だ。
整った顔立ちはそのままなのに、どこをどう切り取っても、相変わらずオレーシアの至宝とは全く結びつかないと言ってもいい。
アイリスが内心でドギマギしていると、隣に控えていたクララが、感極まったように両手を胸の前で合わせた。
「まぁ……! なんという完璧な役作りでしょう。歩き方から目つき、纏う雰囲気に至るまで、殿下とは全く別の人間にしか見えません。ジャック様も素晴らしい擬態でしたが、さすがはジュリアン殿下です!」
「言っただろう? 昔から偽装するのは得意なんですって」
しかし、偽装はむしろ普段のキラキラ王子の方である。
しかも声のトーンや喋り方は王子様仕様のままなので、余計に混乱する。
そうアイリスは内心で叫んでいたが、当然クララに届くはずもなかった。
そうして、アイリスとクララが乗り込むと、車輪が動き出す。
窓の外を流れる夕暮れの王都を眺めながら、アイリスはそっと息を整える。
これからアイリスは、聖母の仮面の下に、野心家の悪女をもう一枚重ねる。
これまで一枚の仮面を守り続けることだけでも精一杯だったのに、今夜はその下にもう一つ別の顔を持たなければならない。
ちらりと横を見ると、ジュリアンが窓の外を静かに見ている。
その横顔は、キラキラ王太子の時とも、執務室で悪態をついている時とも違う真剣な顔だった。
それを見ているだけで、自然と背筋が伸びた。
――その時、ジュリアンの視線がアイリスへと移動し、ふと彼女の胸元をかすめた。
そこにつけていた蒼水晶のブローチが、馬車の揺れに合わせて小さく光る。
彼は一瞬だけ目を細めたが、何も言わなかった。
ただ、アイリスの手に静かに腕を伸ばすと、自身の手を重ねる。
「っ……」
驚いてジュリアンの顔を見上げると、彼は何も言わずにアイリスの手を軽く、けれど力強く握ってくれた。
言葉はなくとも、その手の温もりと力強さから分かった。
自分がここにいるから安心しろと、彼がそう伝えようとしてくれていることが。
不意打ちのスキンシップに心臓はバクバクと跳ね上がったが、不思議なことに、敵陣へ乗り込む重圧と緊張感が解けていくのを感じる。
アイリスはゆっくりと深呼吸をして、改めて覚悟を決めた。
「さて、最終確認をしておきましょうか」
馬車が王都の喧騒を抜け、静かな郊外の道へと入った頃、ジュリアンが静かな声で切り出した。
「アイリスは、野心を隠し持った悪女。私はアイリスの護衛の『ジン』という設定です。クララとジャックは、私たちが会場内にいる間、ボルトス邸の使用人と接触してできるだけ情報を集めてください。念のため、クララはジャックから離れずに二人で行動するように。もしも異変があったら、二人で先に逃げてくれても構いません。こちらの方は二人でなんとかしますので」
「承知いたしました」
クララに続いて、アイリスもまた返事をする。
「分かったわ、ジン」
少しだけ顎を上げて見下すような高慢な令嬢の表情を作って見せると、ジュリアンは口角を吊り上げ、柄の悪い笑みを浮かべた。
「上出来だ。それじゃあ早速敵陣に乗り込もうか、お嬢様」




