21.優雅な追いかけっこ
ジュリアンの姿を捉え、アイリスは一瞬にして血の気を引かせた。
一体いつからあそこにいたのか。
ロゼッタと今まで二人きりで話していたのを、見られていたのではないだろうか。
せっかくジュリアンに、アイリスがこっそり動いていることを悟られないように動いていたのだ。
それなのに、よりによって一番危険な宰相の娘と接触していたのがバレたら……。
まして、最後に浮かべた悪い顔まで見られていたとしたら、どんな顔をして言い訳すればいいのか分からない。
――逃げよう。
一刻も早く、光の速さでお布団へ!
アイリスは即座に決断した。
作戦の第一段階は十二分に達成したのだ。
これ以上ここにとどまる理由はない。
アイリスは急いで会場の中心へ戻ると、王子派の令嬢たちに、
「本当に気分が優れないので、今日はこれで失礼するわね」
と挨拶を済ませ、そそくさと王宮の出口である馬車寄せへと向かった。
が、王宮の長い廊下を歩きながら、なんとなく嫌な予感がしてふと後ろを振り返る。
すると……遥か後方の廊下の端に、見慣れた金糸の髪が揺れるのが見え、アイリスは思わず二度見してしまう。
執務室のある階からここまで、どう考えても五分以上はかかる距離のはずだ。
それなのにもうこんなに近くまで来ている。
しかも彼は走っているわけではなく、あくまで王太子らしい優雅な歩調を保っている。
しかし、長すぎる足のせいなのか、歩くスピードが異常に速いのだ。
あれは確実に、アイリスをロックオンして距離を詰めてきている以外に考えられない。
遠めでも分かる笑顔が怖い。
あんなに早いのに息切れしていないところも怖い。
どうしよう、追いつかれる……!
アイリスは慌てて歩くスピードを上げた。
本当なら全力ダッシュを発動したいところだが、王宮の廊下には他の貴族や文官たちの目がある。
公爵令嬢として、そして完璧な淑女として、決して優雅さは損なってはならない。
背筋を伸ばし、にこやかにすれ違う人々に会釈をしながら、ドレスの裾の下では足をフル回転させる。
まさに優雅な競歩状態である。
あと少し、あそこの角を曲がれば、馬車寄せだ。
アイリスは必死に足を動かし、ついに王宮の出口へと飛び出した。
「お嬢様、お待ちしておりました。少し早かったですね。お加減でも……」
待機していたクララが、主の姿を認めて馬車の扉の横に立つ。
アイリスは「後で説明するから早く乗せて!」と声に出さずに顔面で訴えかけ、ドレスの裾を掴んで馬車のステップに足を乗せようとした。
――その時だった。
アイリスが乗り込む直前、扉にクララのものではない別の大きな手が伸びてきて、馬車の扉が勢いよく閉められた。
ものすごいスピードだったにもかかわらず、実際にはカチャリと、上品で静かな音しか鳴らなかった。
乱暴な振る舞いで周囲に怪しまれないよう、扉を閉めた何者かが完全に力のベクトルをコントロールして閉めた証拠である。
同時にすぐ背後に、人の気配を感じる。
……誰がいるかなど、確認せずとも明白だった。
けれどこのままでいるわけにもいかない。
アイリスはわずかに体を震わせつつも恐る恐る振り返ると―― そこには予想通り、眩しいほどの満面の笑みを浮かべたジュリアンが立っていた。
分かってはいた。
それでもアイリスは、情けない悲鳴を上げそうになるのを、鋼の精神でなんとか飲み込んだ。
だが心臓がバクバクとうるさく鳴っている。
しかも、ジュリアンの笑顔が怖い。
いつも以上にキラキラとした王太子の笑みを浮かべているのに、底知れぬ圧がある。
そしてアイリスの角度からしか見えないが、青い瞳は完全に据わっていた。
その状態で、ジュリアンは甘やかな声で囁く。
「ねえ、アイリス。せっかく今日は王族教育もお休みなのに、私の顔も見ずにもう帰ってしまうのかい?」
「っ、ジュリアン殿下、ごきげんよう」
周囲には、馬車寄せにいる騎士や他の貴族たちの目がある。
アイリスは引きつりそうになる頬を必死に持ち上げ、聖母の笑顔を作った。
「申し訳ありません。本日のお茶会で少し人酔いしてしまったみたいで……殿下にご挨拶もせず、帰宅しようとしたご無礼をお許しくださいませ」
「人酔い? それは心配ですね」
ジュリアンは普段よりも糖度の高い声でそう言うと、アイリスの腰にそっと腕を回し、自分の胸へと引き寄せた。
途端に周囲から、
「まぁ、殿下ったらお優しい」
「素敵!」
と黄色い声が上がる。
しかし、アイリスの耳元に落ちたジュリアンの声は、ひどく低く冷え切っていた。
「……随分と楽しそうに、宰相の娘と話してたじゃないか」
アイリスは心の中で悲痛な叫びを上げた。
終わった。
見られてしまっていた以上、言い逃れはもはや不可能である。
「あの、本当に疲れてしまったので、本日はこれで……」
事情はまた今度説明するので、とにかく今は帰りたかった。
もう色々と限界なのだ。
けれどジュリアンは、一切引く気はないようだった。
「愛しの婚約者が体調不良と聞いて、一人で帰すわけにはいきません。君のことが本当に心配なんです。公爵邸まで送らせてもらえませんか?」
疑問形の体を取っているが、その実拒否権はない。
アイリスは助けを求めてクララに視線を送った。
しかし、有能な侍女であるはずのクララでさえも、ジュリアンのあまりにも完璧で慈愛に満ちた表情の裏の顔を見抜けなかったらしい。
アイリスの青ざめた顔色――実際はジュリアンが怖くて血の気が引いているだけなのだが――を交互に見比べると、本当に体調が芳しくないと純粋に解釈してしまったようだ。
現在のジュリアンは至近距離で見ても、一分の隙もない完璧な心優しい王太子そのものである。
クララが微塵も疑いを持たないのも無理はない。
ジュリアンからのこれほどの厚意を無下にするわけにはいかないと判断したらしいクララは、深く美しいカーテシーを披露した。
「殿下、お優しいお心遣い感謝いたします。どうか、お嬢様をよろしくお願いいたします」
もう、どうすることもできない。
声にならない悲鳴を上げながら、アイリスは涙目で馬車に乗り込んだ。
ジュリアンもそれに続くと、行きでは一緒に乗っていたクララが同乗することはなく、無情にもバタンと扉が閉まる。
そして、外界の目が完全に遮断された密室になった途端に、ジュリアンの纏う雰囲気がガラリと変わる。
王太子のキラキラスマイルはパラリと剥がれ落ち、ドカッと長椅子に腰を下ろすと、ジュリアンは呆れたような、けれど凄みのある瞳でアイリスを真っ直ぐに見据えて言った。
「さて。どういうことだか説明してくれるよな、アイリス」




