20.聖母と悪女
早々に帰ったと聞いていたはずなのに、まさかのロゼッタ・ボルトスの登場に、完全に油断していたアイリスは内心恐怖を抱く。
間違いなくこの宰相派閥の令嬢たちのトップに君臨するボスキャラだ。
周囲にいた令嬢たちは、ロゼッタの姿を見た途端、血の気を引かせて青ざめた。
「ロ、ロゼッタ様! ち、違いますの、決してロゼッタ様を蔑ろにしてこちらに寝返ろうとしたわけでは……!」
「分かっているわ。怒っていないから安心なさい。けれど」
ロゼッタは優雅に微笑み、閉じた扇でシッシッと令嬢たちを払う仕草をした。
「私はアイリス様と少しお話があるの。あなたたちはもう、あちらへ行きなさい」
「は、はい……! 失礼いたします!」
蜘蛛の子を散らすように令嬢たちが逃げ去り、ガゼボの中にはアイリスとロゼッタの二人きりになってしまった。
途端に、空気がピンと張り詰める。
アイリスが内心で大パニックに陥るのも無理はない。
さらに言えば、彼女は普段お茶会に参加しても、常に会場の中心の特等席で取り巻きを侍らせているだけで、自分からこんな庭園の端までわざわざ足を運んでくるようなタイプの令嬢ではない。
――まさか帰ったと見せかけて、アイリスが宰相派の令嬢たちに接触している可能性を考え、わざわざ様子を見に来たのだろうか。
ロゼッタはアイリスの正面に座ると、真っ直ぐにアイリスの瞳を見据える。
敵対勢力同士なので、二人きりで顔を合わせたことは一度もない。
だがこうして面と向かうと感じる。
相変わらずロゼッタが放つオーラは圧倒的で、ものすごい迫力がある。
正直この場から逃げ出したい。
気を抜いたら体が勝手にぶるぶると震えそうになる。
それでも、アイリスはぐっとテーブルの下で拳を握り締めると、柔らかな微笑みを向ける。
ロゼッタは、品定めするようにアイリスの顔をじっと見つめ、やがて温度を全く感じさせない瞳のまま、ふっと赤い唇を吊り上げた。
「相変わらず隙一つない慈愛の笑顔ね。さすがは『オレーシアの聖母』と呼ばれるだけはあるわ」
「もったいないお言葉ですわ、ロゼッタ様。私など、まだまだ至らぬところばかりですのに」
アイリスが頬に手を当てて奥ゆかしく目を伏せると、ロゼッタは、まあいいわと言ってから改めてしっかりとアイリスに向き直り、言った。
「回りくどい話が嫌いだから単刀直入に聞くけれど。あなた、『敵対勢力とも仲良くなりたい』と仰っていたみたいだけれど……それ、本気なのかしら?」
探るような、ズバッと核心を突く鋭い問い。
この聞き方は実に彼女らしい。
アイリスはドキドキしながらも、聖母の笑みを崩さずに頷いた。
「ええ、もちろんですわ。王子派と宰相派で敵対しているのは知っていますけれど、同じ国の貴族同士、いつまでもいがみ合うのはよくないですわ。やはり、手と手を取り合うべきだと思っておりますの」
「……ふふっ、あはははは!」
アイリスの答えを聞いたロゼッタは、おかしそうに声を上げて笑った。
「手と手を取り合う? まあ、なんて耳障りの良い綺麗事。いかにも聖母様が口にしそうな台詞ですこと」
「綺麗事ではありませんわ。国をより良くしたいという思いは、どちらの派閥の皆様も同じはずですもの。歩み寄る努力は必要ですし、きっとできますわ」
アイリスが引かずに慈愛の言葉で返すと、ロゼッタはぴたりと笑いを止め、スッと冷ややかに目を細めた。
「歩み寄る、ね。あなたの愛する王太子殿下も、そのように仰っているのかしら?」
「ええ。ジュリアン殿下は国と民を深く愛しておいでですから、無益な対立など決して望んではおられませんわ。私も同じ思いですもの。ですから、こうして誠意をもって歩み寄っていけば、必ず明るい未来が開けると信じておりますの」
「微笑み合うだけで手と手が取れるなら、私の父も、あなたの愛しの殿下も、とうにそうしているはずよ。違うかしら?」
ロゼッタの放つ圧倒的な威圧感に、アイリスは思わず息を呑んだ。
するとここで畳みかけるように、ロゼッタが言葉を続ける。
「あなた、まさか本当に純粋な笑顔一つで、この派閥の壁を越えられるとでも思っていますの? だとしたら、随分とおめでたい頭ですこと。お飾りの聖母様には、現実の政治は少し荷が重すぎるのではないかしら」
嘲笑を含んだその声に、アイリスの心臓がさらにバクバクと早鐘を打つ。
何かを言わないといけない……そう思うのに、言葉が形にならない。
アイリスが限界なのを察したのか、ロゼッタは分かりやすく失望の色を浮かべる。
「つまらないわね。せっかく少しばかり期待して様子を見に来てあげたのに、聞こえてくるのは退屈な教科書通りの返答ばかり。本当にただの無害なお人形だったなんて、がっかりだわ」
「お人形だなんて……。私は、本気で、皆様と……」
「もういいわ」
アイリスの言葉を遮り、ロゼッタはひどくつまらなそうにため息をついた。
そして優雅な動作で扇を開くと、席を立ち上がろうとする。
「あなたのおままごとに付き合っている暇はないの。せいぜいその綺麗な理想を抱いたまま、愛しの殿下の後ろで大人しく微笑んでいらっしゃいな。――ごきげんよう、アイリス様」
正直想定外ではあったが、今、黒幕と目されるデイモンの愛娘であるロゼッタと二人きりで接触しているこの状況は、生かすべきだ。
けれど……。
見限られ、背を向けられそうになったその瞬間、アイリスは悟る。
……このまま聖母の仮面を被っていても、これ以上彼女には近づけない。
デイモンの娘という、最大の黒幕の懐に付け入るこれ以上ないチャンスだというのに。
もしここで彼女を逃せば、次にいつ接触できるか分からない。
それなら彼女の興味をこちらに惹きつけるのに、最もふさわしいやり方は――。
アイリスは頭を限界までフル稼働させる。
考えろ、考えろ、この場をひっくり返せる、一撃必殺になりうる方法を。
そして、思考を限界まで煮詰めたアイリスは、ふと、目の前のロゼッタを見つめる。
彼女の見た目、雰囲気、それらを含めて一言で表すのなら、最も適した言葉はおそらく――『悪女』。
――腹を括れ、アイリス。
アイリスは自身にそう言い聞かせ、恐怖心を無理やり押し込める。
そして底力を振り絞り、即興の演技に打って出た。
「――というのは、建前ですけれど」
スッ、とアイリスはその顔から、聖母の柔らかな笑みを意図的に消す。
代わりに浮かべたのは、少しだけ退屈そうで、冷ややかな色の混じった微笑だった。
瞬間、この場を去ろうと踵を返しかけたロゼッタの動きが止まる。
彼女の瞳が、驚きからかわずかに大きく見開かれる。
ロゼッタの反応を確認したアイリスは、聖女がまるでしないであろう表情をなんとかキープしたまま、気だるげに息を吐く。
「四六時中『清く正しい聖母』でいるのにも、正直少し息が詰まってきましてよ。いくら王太子殿下の婚約者とはいえ、清廉潔白なだけの王子派の皆様とのお茶会は……少々、退屈すぎますの」
そしてアイリスは薄く目を細めると、声を潜めた。
「ですから、ロゼッタ様たちのような、もう少し刺激的な方々ともお近づきになりたいのです。私がジュリアン殿下を後ろで操って国を動かす将来のためにも、ね。……そう言ったら、お笑いになる?」
それは、聖母の皮の下に、野心と裏の顔を隠し持っているという、強烈な匂わせだった。
余裕のある悪女めいた笑みを真似るのは難しいかと思ったが、案外なんとかなった。
目の前に、お手本をするのにもってこいの人物がいるおかげだろう。
当然内心はずっと悲鳴を上げているが、ここが正念場だ。
帰ったら絶対に布団にダイブ、布団にダイブ……とうわごとのように頭の中で繰り返しながら、アイリスはしたたかな悪女の笑みを張り付け、ロゼッタの視線を真っ向から受け止めた。
ロゼッタは完全に予想外と言いたげに、手にした扇を口元から外してアイリスを見つめた後――やがて、ひどく楽しそうな、獰猛な笑みを浮かべた。
「本当に驚いたわ。まさかあなたの中に、そんな毒が隠されていたなんて」
ロゼッタは再びアイリスの正面の席に腰を下ろすと、その瞳を爛々と輝かせた。
「最高じゃないの。ただ殿下に庇護されるだけの無害な聖母様ではなくて、玉座の裏から国を食い物にしようと企む悪女だったなんてね。そういうお話なら大歓迎よ。俄然、あなたに興味が湧いてきたわ」
「ふふっ、私たち、いいお友達になれると思いません?」
いかにも悪役令嬢めいた台詞をスラスラと並べてみせたアイリスだが、内心は冷や汗ダラダラで悲鳴を上げていた。
胃の痛みに耐えながら悪女の顔で微笑むと、ロゼッタが楽しげに唇を舐める。
「ええ、本当に。次期国王を操る未来の王妃様と、宰相の娘である私……私たちが手を組めば、この国を裏から自由にできるでしょうね。素晴らしい提案だわ」
そして彼女は身を乗り出し、アイリスにだけ聞こえるような小さな声で囁く。
「ねえ、アイリス様。今度、仲間内だけの特別な集まりがありますの。退屈な王子派の夜会とは違う、極上の刺激が味わえるわ。……よろしければいらしてくださらない?」
それは、限界ギリギリのアイリスが土壇場で張った罠に、宰相の娘という大物が食いついた瞬間だった。
アイリスはテーブルの下で汗ばむ手を握りしめながら、涼しい顔で口角を上げる。
「ええ、喜んで。とても楽しみにしておりますわ」
「では後日、招待状を送るわね」
「でしたらクララという侍女に預けてくださいな。私の可愛い子飼いでしてよ?」
暗に、そのクララはアイリスの裏の顔を知っているということを匂わせると、ロゼッタが満足げな笑みを残してガゼボを去っていった。
彼女の後ろ姿を見送りながら、アイリスはようやく、肺に溜まっていた息を細く吐き出した。
ここまでするつもりはなかったものの、作戦の予想以上の大成功に内心で喜びの声を上げた、その時だった。
ふと、頭上からチリッとした視線を感じ、アイリスは視線を感じた方角へとそっと目を向ける。
それは、ガゼボから少し離れた先にそびえ立つ王宮の上層階――ジュリアンの執務室がある方角だった。
前世からのお布団好きで引きこもり生活にもかかわらず、なぜかアイリスの視力は驚異的に良かった。
だからこそ、見えてしまったのだ。
……開かれた執務室の窓辺から、こちらをじっと見下ろしているジュリアンの姿が。




