18.聖母様の作戦
お忍びデートから帰還した翌日の朝、レンフェルト公爵邸のアイリスの自室では、いつものように朝の儀式が行われるはずだった。
「お嬢様、朝です。起きてください!」
「嫌だ、起きたくないー! 一生このモフモフの中で生きていくの!」
特注の超高級羽毛布団にスッポンのようにしがみつくアイリスを、クララが物理的な力で引っぺがす。
ベッドから引きずり出されたアイリスは、「表情筋が……」と文句を垂れるところを、クララが宥めて……というのがお決まりだったのだが。
今日のアイリスは、クララが部屋に入った時点で、既に自ら布団から抜け出していたのだ。
一体何があったのかと驚くクララを前に、アイリスは真剣な顔つきで向き直った。
「クララ。私、決めたわ」
「何をですか? まさか本気で王族教育を放り出して、布団と結婚するおつもりですか。侍女としては全力で阻止させていただきますが」
「違うわよ! 私……殿下のために、違法賭博と闇オークションの黒幕の尻尾を掴みたいの!」
アイリスの力強い宣言に、クララは着替えを用意しようとしていた手をピタリと止めた。
「あの、違法賭博に、闇オークション、黒幕、とは? ……お嬢様、朝から急に物騒な単語を並べてどうされたのですか。殿下とのデートで一体何があったんです?」
「実は、昨日馬車の中で、殿下から王都で起きている失踪事件についてお聞きしたの」
アイリスはジュリアンの裏の顔は伏せ、彼が違法賭博について独自に調査を進めていること、そしてデイモンが違法賭博と闇オークションの黒幕である可能性が高いことを、淀みなくクララに説明した。
「そんな国家規模の陰謀があったのですね」
恐ろしい裏事情を聞いても、クララは顔色一つ変えずに冷静に状況を理解した。
続けて、アイリスを呆れたように見つめる。
「ですが、なぜお嬢様がその黒幕の尻尾を掴むなどと仰るのです。まさか殿下ご自身が、お嬢様に捜査の協力を頼んだわけではないですよね」
「そ、それはそうだけど……」
「ならばいけません」
予想通り、クララは厳しい声でそう言い放った。
「お嬢様はただでさえ王妃教育で心身ともに疲労されておいでです。それに、人身売買が絡むような裏社会の陰謀に関わるなど、危険すぎます。レンフェルト公爵家の令嬢として――そして何より私自身が、お嬢様をそんな危ない目に遭わせるわけにはまいりません」
クララの語気は強かった。
普段は小言ばかり言っているが、それはすべてアイリスを心から大切に思っているからこそだ。
アイリスもそれは痛いほど分かっている。
だからこそ、アイリスは臆することなくまっすぐにクララを見つめ返した。
「心配してくれるのは嬉しいわ。ありがとう、クララ。……でもね」
アイリスはゆっくりと、けれどどこか静かな熱のこもった声で言葉を紡ぐ。
「殿下は私に、隣で笑っていてくれれば十分だって言って、私を巻き込まないようにしてくれたわ。でも、だからこそ何もしないわけにはいかないの」
馬車の中で言われたジュリアンのあの言葉は、アイリスの胸をどうしようもなく熱くした。
ただ守られているだけなんて嫌だったのだ。
「私だって苦しんでいる人がいるなら助けたいし、何より殿下の力になりたいもの。だって私は――ジュリアン殿下の婚約者なんだから」
真っ直ぐなアイリスの言葉に、クララはしばらく無言で彼女を見下ろした後、やれやれと言いたげに深く深いため息を吐いた。
「本当に、恋する乙女というのは無鉄砲なものですね」
「こ、恋なんてしてないわよ! ただの尊敬と、婚約者としての義務感よ!」
「はいはい、そういうことにしておきます。……ですが、どうしても動くとおっしゃるなら、せめて殿下には事前にお伝えしておくべきではありませんか?」
クララのもっともな指摘に、アイリスは大きく首を横に振った。
「だめ、絶対に言えないわ。だって昨日の殿下の様子を見たら、話した時点で問答無用で止められるのが目に見えているもの。説得しようとしても、絶対に聞いてくれないと思う」
相手は自分を危険から遠ざけようと必死なのだ。
真っ向から提案しても、あの過保護な婚約者が首を縦に振るはずがない。
「それに、私はただ無策に危ない橋を渡る気はないわ。その下準備として、まずはあなたにこのことを話したんだから」
アイリスはここで、ニコッと笑う。
「私からいきなり宰相派に探りを入れたら不自然なことは分かってる。だからクララ、あなたの持つ、使用人同士の繋がりを貸してほしいの。奥様方や令嬢に仕える侍女たちの独自の情報網なら、男社会である騎士団や殿方たちの耳には入らない。これなら殿下にもバレずに動けるわ」
「女性たちの裏の繋がりは、殿方の情報網からは完全に切り離されていますからね」
アイリスは頷くと、ずいっとクララの方へ顔を近づける。
「でね。近々、王妃様主催の、未婚の令嬢を集めた大規模なお茶会が開かれるでしょう?その派閥に関係なく多くの令嬢が参加するあのお茶会が、絶好のチャンスなの」
「どうされるおつもりですか?」
「事前にこっそりとこんな噂を流してちょうだい。『オレーシアの聖母であるアイリス様は、現在のいがみ合う二つの派閥の対立を深く憂いており、なんとか宰相派閥の令嬢たちとも仲良くなりたいと望んでおられる』とね」
「あっ……!」
クララがポンッと手を叩く。
「なるほど。誰にでも優しい聖母であるお嬢様なら、いかにも考えそうな内容です」
同じ派閥の令嬢たちは『聖母様が敵にすら慈愛を向けようとしているから、邪魔をしてはいけない!』と考えて、遠巻きに見守るだろう。
そしてその噂を知っていれば、いきなりアイリスが宰相派の令嬢たちに近づいていったとしても、あからさまに怪しむことはないはずだ。
「お茶会の最中、私が少し疲れたからとか適当に理由をつけて、宰相派閥の令嬢たちが集まっていそうな場所に移動するつもりよ。そこでうまく彼女たちの輪に入って、何とか会話を繋いでみるから」
基本的にアイリスは、前世時代から話をするのは苦手であり――特に聖母である今は喋ったらうっかりぼろが出そうなのであまり話したくない――代わりに人の話を聞くのは得意だ。
というか、適当に相槌を打ちつつニコニコしていれば、気分を良くした相手が勝手にぺらぺらと喋ってくれるのである。
これは敵対する令嬢たち相手でもきっと通じるはずだ。
「おそらく闇オークションには、デイモン様周辺の貴族も関わっていると思うの。だからそのおこぼれに預かっている貴族たちなら、親から『今度どこかで特別な夜会がある』とか『珍しい商品が手に入る』なんていう話を聞きかじっているかもしれないでしょう? その自慢話から、オークションの正確な日時や場所のヒントを絞り出すのよ!」
そう言うと、クララは深く感心したようにため息をつき、頷いた。
「承知いたしました。では私からその噂を自然に流しつつ、ついでに『自己顕示欲が強く、お喋りな宰相派の令嬢』の候補者一覧と、彼女たちが食いつきやすい話題をまとめた攻略法を作成いたしましょう。お嬢様はお茶会で、なんとしても彼女たちから情報を引き出してください。ですが」
ここでクララは一度言葉を切ると表情を引き締め、かつてないほど真剣な眼差しでアイリスを射抜いた。
「もしもロゼッタ・ボルトス様がおいでなら話は別です。あの方がいる場では、皆お顔色を窺って自由に喋れなくなります。深入りはなさらないでくださいませ」
その名前を聞いた瞬間、アイリスは思わず恐怖で布団に潜り込みそうになった。
ロゼッタは言わずもがな、宰相デイモンの娘であり、宰相派の令嬢たちのまとめ役だ。
ジュリアンよりもさらに濃い黄金の髪と、まるで血のように鮮やかな真紅の瞳を持つ、いかにも悪役令嬢めいた派手な美貌の持ち主である。
彼女とは何度も顔を合わせてはいるが、アイリスは彼女のことが苦手……というより、本気で怖い。
ロゼッタはその場に立っているだけで周囲の空気を塗り替えてしまうような、張り詰めた迫力を纏っているのだ。
ジュリアンの素のオーラと近いようで、その本質はまるで違う。
正直に言えば、デイモン本人を相手にするよりも、本能的にはよほど恐ろしい相手だった。
「分かったわ。ロゼッタ様がいたら、無理はしない」
むしろ、彼女を前にして長時間聖母の仮面を被り続けられる自信はなかった。
アイリスは改めてクララを見つめる。
「でも、色々考えてくれてありがとう、クララ!」
「侍女として当然の務めですから。ただし」
喜ぶアイリスに、クララは真剣な顔つきでピシャリと告げた。
「お嬢様の役目は、あくまでお茶会で、情報を引き出すまでです。それ以上の危険な真似は決してしないと約束してください」
「ええ、分かっているわ。約束する」
ジュリアンに黙って動くことに、少しだけ胸が痛まないわけではない。
けれど、危険な場所へ行くわけではなく、あくまでもお茶会で交流を深めて話を聞くだけだ。
アイリスの迷いのない真っ直ぐな瞳を見て、クララは小さく息を吐きつつも、どこか嬉しそうに口角を上げた。
「万が一約束を破って危険な真似をした場合は、罰としてお嬢様の愛するその特注羽毛布団を没収しますからね」
「そ、それだけは絶対に嫌……! 命に代えても約束を守るわ!」
「命より布団が重いのですか。まあいいでしょう」
呆れたように肩をすくめると、クララはパンッと手を打ち鳴らし、いつもの厳しくも有能な侍女の顔へと切り替わった。
「さあ、そうと決まれば王族教育の準備です。殿下の足を引っ張らないよう、表の顔も完璧にこなしていただきますからね」
クララにはっぱをかけられ、アイリスは気合を入れて頷いた。
ただ守られているだけのお荷物にはならない。
オレーシアの聖母の底力を見せてやる。
王妃主催のお茶会へ向けて、アイリスとクララによる『令嬢スパイ大作戦』の幕が上がった。




