17.夜の調査と甘い余韻(ジュリアン視点)
アイリスを無事に公爵邸へと送り届けた後、ジュリアンとジャックは、そのまま王宮へは戻らなかった。
馬車を途中で降り、再び地味な平民の服へと着替えた二人は、夜の王都へと紛れ込む。
向かったのは、西地区に点在する場末の酒場だった。
安酒の匂いと喧騒が充満する薄暗い店内の片隅に陣取り、ジュリアンはジャックと二人でエールの入った濁ったグラスを傾けながら、完全に柄の悪い一般客へと成りすます。
もっとも、ジュリアンのそれは全く演技には見えなかったが。
そこで、顔見知りの人間や、違法賭博に手を出していてもおかしくなさそうな訳ありの客たちと巧みに世間話を交わす。
時に酒を奢りながら、怪しい手引きをする人間の人相や、最近姿を消した者たちの噂を少しずつ拾い集めていった。
しかし、いくつか酒場を回ったものの、確かな収穫は得られなかった。
ダレスから聞いた妙な賭け話も、やはり噂としては流れている。
だが、肝心の場所も、仲介人の名前も、誰もはっきりとは口にしない。
誰にも見つかることなく王宮の執務室へと帰還した頃には、時計の針はすでに深夜を大きく回っていた。
「ふぅ……」
ジュリアンはソファに深く腰を下ろし、服のボタンを緩めて息を吐く。
その様子を眺めながら、グラスに水を用意していたジャックが問いかけた。
「殿下。今日は随分と落ち着いていますね」
「そうか?」
「ええ。いつもならこういう調査の後は、もっと苛立っていますから。その証拠に、今夜はあのお酒の入った棚を開けていませんし。外でどれだけ飲んできても、この部屋での最後の一杯は欠かさないのに」
ジュリアンはそこで棚に視線を移し、小さく鼻で笑った。
「今日は別に、そこまで神経が擦り切れるようなことはしてないからな」
「ほう。深夜まで酒場を回り、宰相の黒い影を追うという激務をこなしたというのに、ですか?」
「そっちの疲れは肉体的なものだろ。俺がこの部屋で酒を煽りたくなるのは、息が詰まる仮面被って、デイモンみたいな腹黒い輩の相手をした時だけだ。……今日は、そうじゃなかったしな」
ジュリアンの言葉に、ジャックは小さく肩を揺らして笑った。
「そうですね。今日のアイリス様とのお忍びデート、ずいぶんと……。殿下ご自身も、心からお楽しみのようでしたから」
普段のジュリアンであれば「うるさい、余計なお世話だ」と返しそうなものだ。
だが、今夜の彼は違った。
「ああ。楽しかったよ、すごく」
ジャックから手渡された水を飲み干した後、あっさりと素直に認めたのだ。
闘馬場でヤケクソになって大声を上げていた姿や、激辛の肉まんを頬張り、口の端にソースをつけて無邪気に笑っていた姿。
そして、馬車の中で自分を心配し、何かできることはないかと必死に訴えてきた、真っ直ぐで不器用な瞳。
「普通に、可愛かったよな」
ポツリと、ジュリアンの口から無自覚すぎる本音が漏れ出た。
その言葉に、ジャックはグラスを片付けようとしていた手をピタリと止め、ゆっくりと振り返る。
そして、ドン引きしているような、あるいはこの世の奇跡を見たような顔で主を見つめた。
「で、殿下、今、なんとおっしゃいました……?」
「ん? アイリスが可愛かったって言ったんだよ」
「……いくら場末の酒場で浴びるほど飲んだ後とはいえ、少々酔いが回りすぎではありませんか?」
「……そうかもな」
ジュリアンは照れるでもなく、誤魔化すでもなく、ただ小さく口の端を緩めてそう返した。
酒のせいではないことなど、ジュリアン自身もとうに分かっている。
それに、アイリスと共にいる時間は、驚くほど息がしやすかった。
ただのジュリアンとして笑い、怒り、素の自分を曝け出せる。
それでもアイリスはそんな自分を否定することなく、普通に受け入れてくれる。
彼女の存在そのものが、ジュリアンの心を穏やかに満たしていた。
「なるほど。これは近い将来、殿下が頼りにしているお酒だけでなく――」
ジャックはこれ見よがしに、満面の笑みを浮かべる。
「過度な重圧から生まれたその口と態度の悪さも、綺麗さっぱり見納めになる日が来るかもしれませんね。側近としては非常に喜ばしいことです」
「馬鹿言え。こっちはもう治らないからな」
ジュリアンは笑いながら、呆れたように片手をひらひらと振った。
「残念ながら、骨の髄までこっちがゴリゴリの素になってるからな。諦めろ」
「……十二歳までのあなたは、表の完璧な王太子姿と寸分違わぬ、それはそれは純真で美しい中身をしていらっしゃったというのに。一体どうしてこうなったのやら」
ジャックが頭痛でも堪えるように大袈裟にこめかみを押さえると、ジュリアンは喉の奥でくくっと楽しげに笑い声を漏らした。
「なんだよ、そっちに戻ってほしいのか?」
ジュリアンがからかうように尋ねると、ジャックはこめかみから手を離し、真面目な顔で小さくかぶりを振った。
「いえ。あのまま純真な王子であり続ければ、あなたはおそらく、どこかで心が壊れていたでしょうから」
静かな部屋に、ジャックの穏やかな声が響く。
「口と態度の悪さも、ある意味であなた自身を守るためのもの。今のその姿で、上手く心のバランスを取っていらっしゃるのだと思います。それに、どれほど柄が悪くなろうと、根底にある優しさは昔から変わっていません。私は、今のあなたも決して嫌いではありませんよ」
「……急に素直になるなよ。対応に困るだろうが」
ジュリアンは照れ隠しのようにふいっと視線を逸らしたが、その表情はどこか柔らかかった。
それからソファの背もたれに頭を預け、静かに目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、馬車を降りる際、重い前髪の間から名残惜しそうにこちらを見上げていた緑の瞳。
静寂に包まれた深夜の執務室で、オレーシアの至宝は、甘く心地よい余韻に浸りながら穏やかな笑みを浮かべていた。




