16.王都の闇と婚約者の本音
今回から少しずつ、王都の裏側にも触れていきます。
とはいえ、アイリスとジュリアンの距離もちゃんと縮まっていきますので、見守っていただけると嬉しいです。
止まっていたのは、王家の紋章が入った豪華なものではなく、お忍び用に装飾を省いた、黒塗りの目立たない馬車だった。
ジャックは気を利かせたのか、馬車の中には同乗せず、いつの間にか御者の隣にスタンバイして周囲の警戒に当たっていた。
馬車が動き出し、外の喧騒が遠ざかる。
アイリスは帽子を外し、今日のデートを思い返してほくほくしていたが、向かいのジュリアンは腕を組んだまま夕暮れの街並みを険しい顔で見つめていた。
さっきまであんなに笑っていたのに――今の横顔は、王宮で書類と格闘している時のそれだ。
もしかしてと、アイリスは、ダレスとジュリアンの会話を思い出す。
そこで、思い切って聞いてみた。
「ジュリアン殿下。少し顔色が優れないですけど……もしかしてその、さっきダレスさんから聞いた、妙な賭け話について考えていますか……?」
するとジュリアンは、ふっと表情を緩める。
「ん? ああ、心配するな。賭け事は好きだが、さすがの俺もそんな話には引っかからないぞ」
明るい声だったが、その笑顔は先ほど闘馬場で見せていたものとは違う。
何かを誤魔化すように、アイリスを安心させるためだけに作られた顔に見えた。
その違和感に、アイリスの胸が小さくざわめく。
――闘馬場の近くで持ち掛けられる賭け話。
その闘馬場は王都の西側にあり、そして以前、ジュリアンの執務室で偶然見かけた書類には、西地区周辺の失踪届や、夜間未帰宅者、借財相談に関する記録が並んでいた。
これらがただの偶然とは思えなかった。
アイリスは膝の上でぎゅっと手を握り、もう一度ジュリアンを見つめる。
「……本当に、ただの怪しい勧誘のお話なんですか? 私、以前殿下の執務室で、西地区の書類を少しだけ見ました。失踪届や、夜間に帰ってこない人の報告、それから借財相談の記録です」
ジュリアンの表情が、ほんのわずかに変わった。
「読んだのか」
「見るつもりはありませんでした。でも、落ちた書類の表題が見えてしまって……それが、どうしても気になっていたんです」
アイリスはそこで一度言葉を切る。
怒られるかもしれない。
立ち入るなと言われるかもしれない。
それでも、ここで引くことはできなかった。
「さっきの妙な賭け話と、西地区で起きていることは……関係があるんじゃないですか?」
「…………」
ジュリアンはすぐには答えず、ただ腕を組んだまま、じっとアイリスを見返している。
その視線は鋭くて、アイリスの体が思わず震えそうになる。
けれど怯えながらも、アイリスは決して目を逸らさなかった。
しばらくの沈黙の後、先に折れたのはジュリアンだった。
深い、長いため息の後、ジュリアンは乱暴に前髪をかき上げた。
「お前、意外に頑固なとこがあるよな」
「す、すみません……」
「別に責めてるわけじゃない。ただ……本当は巻き込みたくなかったんだよ。けどまあ、何も知らないまま、一人で調べようとして危ない目に遭わせるわけにもいかないからな。だったら、俺の口から話しておいた方がいいか」
そうしてジュリアンは語り始めた。
現在王都で、何が起こっているのかを。
「事のはじまりは、数カ月前。西地区を中心に失踪者が増え始めたことだ」
いなくなったのは、生活に困っていた者や、普段から賭け事に出入りしていた者が多いらしい。
中には家族ごと姿を消した者もおり、表向きは夜逃げや事故として処理されている。
けれどいなくなった人数があまりにも多すぎる。
「騎士団を動かしつつ、俺自身も色々探ってみたら、消えた連中のほとんどがある賭博に手を出していた可能性が高いことが分かった」
「それがもしかして、ダレスさんの言っていた……」
「おそらくな」
それは、正規の届け出など一切ない、完全な非合法の賭博場らしい。
最初は客に大きく勝たせ、頃合いを見て、今度はいかさまを使って負けさせる。
勝った時の興奮と、負けを取り戻したい焦りにつけ込み、足りなくなった金をその場で貸し付ける。
もちろん、その利子はまともなものではなく、その金貸しもグルのようだ。
気づいた時には、とても返しきれない額の借金を背負わされている。
そうして逃げ場を失った人間が、どこかへ流されているのではないか――ということだった。
「どこかへ、というのは……」
「闇オークションだ」
その言葉に、アイリスの背筋が冷えた。
闇オークション――それが、ただ珍しい宝石や禁制品を扱うだけの場ではないことくらい、アイリスにも分かる。
時には人が、商品になることもあると。
そしてこの一連の事件の背後に、あの宰相のデイモン・ボルトスがいる可能性が高いという。
確かにボルトス家には、昔から違法な金貸しや人身売買をはじめとした黒い噂が絶えなかった。
だから彼が裏で糸を引いていても驚きはしない。
けれど、国の中枢を担う宰相がそんな非道に関わっているかもしれないという事実は、アイリスにとってひどく重かった。
「……どうして、そこまで分かったんですか?」
アイリスが震える声で尋ねると、ジュリアンは苦々しげに目を伏せた。
「少し前、賭博場の監禁場所から逃げ出してきた男を保護した。かなり衰弱していたが、そいつが中で聞いたと言ったんだ。返せない奴らは、闇オークションに回されるってな。同時にデイモンが主催者だってのを賭博場の連中が話してるのも聞いたらしい」
「そんな……」
「その男の証言から賭場の場所も分かったし、すぐに騎士団を動かしたが……既にもぬけの殻だった」
摘発を逃れた彼らは、場所を変えて、今も同じ手口を続けている可能性が高いらしい。
「状況証拠としては、デイモンが黒なのはほぼ間違いない。だが、帳簿も金の流れも掴めていない……あるのは逃げ出した男の証言だけだ。それじゃあ動けない。確固たる証拠か、もしくは実際にデイモン本人が関与している現場を押さえられれば話は早いんだが」
相手は国の宰相だ。
『違法賭博の人間が、私の名を騙ったに過ぎない』『私を陥れるための作り話だ』
と一蹴されれば、話はそれまでだ。
「下手に動くと宰相派の貴族たちが躍起になって反発してくるのは目に見えてるし、最悪の場合、国が割れる。それだけは絶対に避けないといけないしな」
ジュリアンの重い言葉に、アイリスはふとあることに思い至る。
「……もしかして、殿下は表立って直接動けないから、こうして今の姿で王都を調査されているんですか?」
「半分はただの気晴らしでもあるんだが……まあ、そういうことだ」
ジュリアンは少しだけ自嘲気味に笑って頷いた。
「表の顔じゃデイモン派とは完全に敵対してるから、あっちの情報は全く入ってこない。だから裏の顔を使って、自分の足で動くことにした。ガキの頃からジンとして王都はうろついてたから、そっちの人脈もある」
そこで、アイリスの頭の中で点と点が繋がった。
ジュリアンが変装して王都に出入りし、闘馬場などを渡り歩いているのは、ただの息抜きだけではなかったのだ。
表の王太子としては拾えない市井の噂を、ジンとして集めている。
それで今日も、闘馬場へ――。
「……だから、今日のお出かけに闘馬場を選んだんですね」
ぽつりと漏れた声は、自分でも思ったより沈んでいた。
初めての闘馬場は怖かったが、ジュリアンと一緒に大声で応援して、胸がすっとするくらい楽しかった。
けれど、もしあれが情報収集のためでもあったのなら……。
もちろん責めるつもりはない。
王太子として、それは必要なことだったのだと思う。
それでも、ほんの少しだけ胸の奥がしゅんと萎んでしまった。
「っ、違う!」
だがその瞬間、ジュリアンが珍しく焦ったように身を乗り出した。
「あそこが俺の息抜きの場所なのは本当だ。お前を連れていったのも、情報収集のためじゃない。……その、俺が普段どうやって息を抜いてるのか、お前に見せたかっただけだ」
「殿下……」
「まさかあそこでダレスに会うとは思ってなかったし、あんな話が出るとも思ってなかった。そこは本当だ」
ジュリアンは気まずそうに視線を逸らし、首の後ろを掻いた。
「だから、今日のことまで利用されたみたいに思うな。俺はただ、お前と一緒に行きたかったんだよ」
その言葉に、沈みかけていたアイリスの胸が、今度は別の意味でぎゅっと苦しくなる。
「……はい」
アイリスは小さく頷く。
ジュリアンが必死に否定してくれたことが、そして、彼も自分と同じく今日のことを楽しみにしてくれていたことが伝わってきて、どうしようもなく嬉しかった。
それにしても――子供の頃からジンとして、人知れず王都に出入りしていたという部分にアイリスは驚いていた。
「あの、一体いつから殿下はジンとして……?」
「あー、十年ぐらい前からだな」
だとするとジュリアンは少なくとも、十二歳の頃から、ということになる。
ジュリアンはその頃のことを思い出しているのか、窓の外を懐かしむような目で見つめる。
過去が気にはなるが深く聞いてはいけないような気がして黙っていると、ジュリアンがアイリスへ視線を戻し、苦笑をこぼした。
「いや、まあ、言いたくないわけじゃないんだが……」
その言葉に、アイリスは小さく瞬きをした。
きっと、簡単に口にできる話ではないのだろう。
十二歳の王子が、一人の少年として王都に出入りするようになった理由。
そこには、軽い好奇心だけで踏み込んではいけない何かがある気がした。
けれど、いつか彼が話してくれるのなら、その時はちゃんと聞きたいと思った。
「はい。殿下が話してもいいと思った時に、聞かせてください」
アイリスが微笑むと、ジュリアンは少しだけ目を見張り、やがて優しげに口元を緩めた。
「ああ、気長に待っててくれると助かる」
そしてそっと手を伸ばすと、耳にかけていたはずのアイリスの髪がひと房こぼれているのに気づいたのか、指先で優しく耳に掛け直してくれた。
不意の甘いスキンシップに、アイリスの頬が少しだけ熱くなる。
しかし、同時にアイリスの胸の奥には重いものが沈んでいた。
ジュリアンは息の詰まる王宮で完璧な王子を演じながら、裏では危険な橋を渡り続けている。
それに比べて、自分はどうだろうか。
ただ人と関わりたくないとか、お布団に帰りたいという極めて個人的な理由だけで完璧な令嬢を演じ、彼の隣でただただ微笑んでいただけだ。
アイリスの中で、逃避本能よりも、彼を支えたいという全く新しい感情が大きく膨れ上がる。
「殿下」
アイリスは意を決して顔を上げると、真っ直ぐにジュリアンの青い瞳を見つめた。
「何かできることはありませんか? 私、こう見えても表向きは、ボルトス公爵家と張り合うほどの力を持つ、レンフェルト公爵家の娘です」
それにアイリスの表の顔は、敵味方関係なく人を引き寄せることのできる、オレーシアの聖母だ。
「殿下は警戒されているでしょうが……私なら、デイモン様の派閥の令嬢たちとお茶をする機会を作って、上手く立ち回り、例えばオークションに繋がる情報を何か引き出せるかもしれません」
そこまで言ったところで、ジュリアンがポンとアイリスの頭に手を乗せた。
「気にするな。お前を巻き込むために話したんじゃない」
「でも……!」
「アイリスは、俺の大事な婚約者だ。そんな危ない橋を渡らせるわけにはいかないだろう」
ジュリアンの声は、いつになく真剣で、そしてどうしようもなく甘かった。
彼が自分を大事な婚約者と言ってくれた事実が、アイリスの胸を熱くする。
「アイリスは、今まで通り俺の隣で笑っててくれれば、それで十分だ。あとは俺が全部片付ける。……分かったな?」
「……はい」
その力強い、けれどどこか有無を言わせない言葉に、アイリスは頷くしかできない。
けれどアイリスの心の中に生じた抑えきれない決意は、消えることはなかった。




