14.激辛スパイスとエール
大衆食堂に足を踏み入れた瞬間、アイリスのテンションは最高潮に達していた。
鼻腔を突き抜ける、刺激的で芳醇な香辛料の香りで満たされた店内。
完璧淑女の仮面を被った状態では絶対に立ち入れないこの空間で、アイリスは壁に貼られた手書きのメニュー札を見上げた。
並ぶメニューはどれもこれもアイリスの食欲をそそられるものばかりで、目移りしてしまう。
「どれにするんだ?」
真剣に悩みすぎているアイリスに、向かいの席にドカッと腰を下ろしたジュリアンが声をかけてきた。
「あ、えっと……激辛の羊肉と豆の煮込みとか、地獄谷の串焼きとか、激辛衣のから揚げデススパイスソースがけで迷っているんですが……」
「じゃあ全部頼め。入らない分は俺が食べるから」
「えっ、いいんですか!? ありがとうございます!」
神様のような提案に、アイリスは満面の笑みで思わず拝む。
「拝むなよ、大袈裟だな」
ジュリアンは笑いながらそう言った後、早速注文を取りに来た大柄な店主に注文をしてくれた。
「辛さはどうする」
「だとよ。アリス、どうする?」
この店では辛さが星一から星五まで選べるらしい。
少し悩んだ後、まずは手始めに星三でとおずおずと指を三本出す。
しかし、店主はアイリスの地味で大人しそうな風貌を見て、鼻で笑った。
「お嬢ちゃん。うちの星三つは、普通の奴なら一口で火を噴くぜ? 初心者は大人しく星一にしときな」
「っ!」
威圧感のある強面の店主の顔とその言葉に、アイリスは一瞬シュンと縮こまりそうになったが……激辛への執着が人見知りコミュ障の壁をギリギリで打ち破った。
アイリスはポシェットから、大切に持ち歩いている地獄のマイスパイスの小瓶をドンッとテーブルに置いた。
「だ、大丈夫です! 私これに灼熱草と激辛トウガラシ数種類、それに痺れ効果のある雷山椒を独自ブレンドして持ち歩いてるくらいには辛いものには耐性があります。だから星三つでお願いします!」
早口で捲し立てたアイリスの熱量と、瓶の中身のガチっぷりを知った店主は、
「……なるほど、玄人か」
と真顔になり、頷いて厨房へと戻っていった。
「あ、すみません、私勝手に……。ジンは、その、星三つにしても大丈夫でしたか?」
「この俺を誰だと思ってる。平気に決まってるだろ」
ジュリアンが余裕の笑みで答える。
そして、別の店員に声をかけた。
「こっちに冷えたエールをジョッキでくれ。ああ、中じゃない、特大だ。彼女には……なんだ、果実水でいいか?」
「あっ、はい」
思わずうなずいたアイリスだったが、ここで疑問が生じる。
「えっ? ジン、まだお昼の真っ只中ですよ?」
窓の外はまだ太陽が高く昇っている時間帯だ。
アイリスが目を丸くしていると、ジュリアンは無駄にキリっとした顔になる。
「休日の日の高いうちから、酒を浴びるほど飲む。この背徳感がたまらないんだろうが。安心しろ、この為に明日の分の書類まで徹夜で全部片付けてきたからな」
「…………」
有能なのは間違いないが、理由が完全にダメな大人のそれである。
この間は高級ウィスキーを水のように飲んでいたが、ジュリアンはストレスの発散のためだけではなく、純粋にお酒が好きなようだ。
その後、運ばれてきたエールと果実水で乾杯すると、ジュリアンはジョッキの半分を一息にゴキュゴキュと飲み干し、
「ぷはぁっ!」
と最高に王子らしくない声を上げた。
そして即座に飲み干すと、おかわりを要求する。
「あの、そんなにたくさん飲んだら、またジャックさんに叱られませんか?」
「その時は謝る」
アイリスにはなんとなく、ジャックに説教されるジュリアンの未来が見えた。
いい飲みっぷりのジュリアンを眺めているうちに、料理が運ばれてくる。
テーブルに置かれた皿は、一言で表すならまさに地獄だ。
ソースも肉も何もかもが真っ赤に染まり、もはや元の食材の色が分からない。
「わぁぁっ!」
しかしアイリスは歓喜の声を上げ、串焼きから肉を一切れ抜き取ると、ナイフで一口分を切り分けてから勢いよく口に運んだ。
その途端、口の中から食道、そして胃の中に、ひりつくような痛みと旨味が押し寄せる。
「はぁっ、美味しい……辛さの中にしっかりとお肉の旨味があって、スパイスの香りが鼻に抜けて……最高です!」
空腹だったこともあり、どんどんと食べ進めるアイリスを見て、ジュリアンも串焼きに手を伸ばす。
王宮での彼であれば、今のアイリスと同じようにナイフとフォークを使って一口サイズに切り分け、優雅に口に運ぶはずだ。
しかしそんな上品な真似は一切せず、大きな串を鷲掴みにして直接肉へとかぶりついた。
なのに……どういうわけか、彼の口元や手には、真っ赤なソースや油の汚れが一切ついていないのだ。
アイリスは密かに戦慄した。
彼の中に染み付いた王族としての所作は、物理的な汚れすら寄せ付けないらしい。
「ん。ああ、確かに結構いけるな。スパイシーで……」
そのまま余裕の表情で咀嚼していたジュリアンだったが。
五口目を飲み込んだあたりで、その動きがピタリと止まった。
「……ジン?」
「……いや。これ、マジで辛いな」
いつの間にかジュリアンの額に、ジワリと汗が浮かんでいた。
いくらなんでも、やはり普通の味覚の人に星三つは厳しかったか。
「無理はしないでくださいね」
せめてどれか一つは星一しておけばよかったと、アイリスがシュンと申し訳なさそうにしていると、ジュリアンはジョッキのエールを勢いよく呷った。
「誰が無理してるって言った。……辛いけど、これ、エールと死ぬほど合うし、変にクセになる」
「本当ですか!?」
ジュリアンは額の汗を拭いながらも、次々と真っ赤な料理を口に運び、エールで流し込んでいく。
その向かいでアイリスは恍惚とした表情を浮かべながら、味変とばかりに地獄のマイスパイスを、ただでさえ赤い料理の上にドバドバと気前よく振りかけていた。
そのまま一口食べ、
「ふぁぁ、最高……」
と至福の吐息を漏らすアイリスを見て、ジュリアンが興味深そうに身を乗り出してきた。
「さっきからかけてるその粉、そんなに美味いのか」
「美味しいなんてもんじゃありません! 星三つの辛さも素晴らしいですが、この特製スパイスを少し振りかけるだけで、さらに深みと刺激が爆発して……もう言葉にはできないくらい最高なんです!」
「へぇ。じゃあ俺にも少し貸してくれ。せっかくだから試したい」
「えっ、いくらジンでも、これにはまだ早いんじゃ……」
「だから俺は平気だって言ってるだろう?」
アイリスの制止を振り切り、ジュリアンは小瓶を受け取ると、自分の皿の上の『激辛羊肉と豆の煮込み』にパッパッと赤い粉を振りかけた。
そして、スプーンで掬って迷いなく口に運ぶ。
「…………」
その瞬間、ジュリアンは完全に石化した。
青い瞳が見開かれ、額からは先ほどとは比にならない滝のような汗が噴き出す。
「……っ!! お、おい、エール、エールをもう一杯!!」
かつてないほどの大声で絶叫し、空になっていたジョッキをバンバンと叩くジュリアン。
運ばれてきたエールを一瞬で飲み干し、氷水を一気飲みし、それでも収まらない口内の痛みにハアハアと肩で息をしている。
「だから言ったじゃないですか。私のスパイスは、世界一辛いと言われる灼熱草がベースなんですから……」
「俺が間違ってた。悪いが、さすがの俺もそれは二口目はいけないわ」
強気だったジュリアンも、アイリスの味覚には完全に白旗を上げたようだった。
ジュリアンが悶絶するのを横目に、アイリスは自分の料理に大量のスパイスをドバドバと振りかけ、至福の表情で真っ赤な肉を頬張っていく。
そうして二人は、見事に地獄の皿を完食した。
「はぁ、すっごく美味しかったです! 大満足です!」
「あー……胃が焼けるように熱い。でも、うまかった」
二人は心地よい満腹感と胃の熱さを感じながら、大きく息を吐き出した。




