13.王都の噂
闘馬場を出ようと、手を繋いで人混みを抜けていた時だった。
「ジン、久しぶりじゃねぇか!」
不意に、気さくな声でジュリアン、もとい、ジンが呼び止められた。
アイリスが驚いて顔を上げると、そこにはジュリアンと同い年くらいの、日に焼けた短髪の青年が立っていた。
「ダレスか」
服装からして明らかに平民だが、ジュリアンに対して気後れする様子もなく、親しげに肩を叩き合っている。
「最近顔出さねぇからどうしたんだって思ってたんだよ」
「ちょっと忙しくてな」
「その顔から察するに、大勝したな?」
「俺の第六感は今日も冴えわたってたからな。で、そっちは……」
「はぁ。今のレースは絶対に大本命が飛ぶ予想だったってのに。おかげで全部ゴミになっちまったぜ。小遣い全部溶かしたって嫁にばれたら殺される……」
「ははっ、まあそんな時もある。気にすんな」
「お前は俺の嫁の恐ろしさを知らねぇからそんな風に言えんだよ!」
「え、前会った時、嫁さん優しそうないい人だっただろう」
「あれは外だから猫被ってんの!」
そんなやりとりをしている二人を見て、アイリスはどうすればいいか分からず、思わずジュリアンの背中に半分隠れる。
と、ここでダレスと呼ばれた青年がアイリスの存在に気づき、目を丸くした。
「あれ、後ろのお嬢さんは誰だ?」
「俺の彼女」
「っ!?」
アイリスの心臓が、今日一番の音を立てて跳ね上がった。
婚約者なのだから間違ってはいないが、あまりにも自然に出たフランクな響きに、アイリスの顔は一瞬で茹でダコのように赤くなった。
ダレスは「本当かよ!」と大げさに驚きながら、ジュリアンとアイリスをまじまじと見比べる。
「おいおいジン、お前には勿体ないくらい上品で可愛い子じゃねぇか! ……なぁお嬢さん、こいつ、目つきも悪ぃし、こんなむさ苦しい場所に女の子連れてくるようなガサツな奴だけど、本当にこいつのどこが……」
「ダレス。余計なこと吹き込むなよ」
ダレスが冗談めかして笑いかけた瞬間、ジュリアンがぎろりと睨みを利かせた。
「おっと、悪かった、冗談だよ!」
ダレスは全く怯える様子もなく、アイリスに向かってニカッと人の良さそうな笑みを向けた。
「こんにちは、彼女さん。俺はダレス。こいつとはたまにご飯食べたり、遊んだりする悪友みたいなもんだ」
「は、初めまして……ア、アリスと申します……」
完全に人見知りスイッチが入っているアイリスは、ジュリアンの背中の布をギュッと掴みながら、少しだけ顔を出してペコリと頭を下げた。
仮面を被っていない今の状態では、これが精一杯の対応だった。
「あれ? なんかビビらせちゃったか?」
ダレスが少し申し訳なそうに眉を下げる。
「そ、そういうわけじゃなくて」
アイリスは慌てて首を振ったが、言葉が上手く出てこない。
すると、すかさずジュリアンが繋いでる手を安心させるようにぎゅっと強く握ると、ダレスに向かって言った。
「アリスは極度の人見知りなんだよ。だから気にするな」
「あ、う、はい、そう、なんです……」
「そうだったのか。悪ぃなアリスさん。……それよりジン、デートしてるとこ悪いんだけど、会えたついでにちょっと耳に入れておきたいことがある」
ダレスが少しだけ声を潜め、周囲を気にするように視線を巡らせた。
「最近、この辺りで妙な賭け話を持ちかけてくる連中がいるらしいんだよ」
「妙な賭け話?」
「ああ。闘馬場みたいに表でやってるもんじゃなくてな。場所も相手もはっきりしねぇのに、『絶対に勝てる』『一晩で借金が消える』なんて甘いこと言って、金に困ってる奴に声かけてるらしい」
途端にジュリアンの顔つきが、ほんの少しだけ変わった。
「……誰から聞いた」
「俺の知り合いだよ。そいつは胡散臭すぎるって逃げたらしいけどな。ジンも賭け事は嫌いじゃないだろ? だから妙な話には乗るんじゃねぇぞって忠告しとこうと思って」
「ああ。ありがとな。俺も気をつけておく」
ジュリアンが真面目な顔で頷くと、ダレスは、
「じゃあな、デート楽しめよ!」
と軽く手を挙げて人混みの中へと消えていった。
ついでに、消える直前に、
「デート場所にここを選ぶセンスはどうかと思うぞー!」
とも叫びながら。
その瞬間、アイリスとジュリアンの間に少しだけ気まずい沈黙が流れる。
ジュリアンはバツが悪そうにそっぽを向き、頬をかく。
「確かに彼女を連れてくる場所じゃないな。悪かったな、アリス」
「えっ? そんな、謝らないでください!」
アイリスは慌てて首を振った。
「私がジンの息抜きの場所に行ってみたいってワガママを言って、連れてきてもらったんですから! それに……最初は人が多くて怖かったですけど、一緒に大声出して応援してたら、胸がすーっとして……すごく楽しかったです」
アイリスが微笑んで見上げると、ジュリアンはふっと口元を緩めた。
「……そっか。なら、良かった」
ジュリアンの耳が少しだけ赤くなっているように見えたのは、気のせいだろうか。
彼は誤魔化すように、
「ほら、行くぞ」
と前を向き、繋いだアイリスの手をキュッと握り直すと、そのまま外へと出た。
けれどアイリスの行きたがっていたお店へ向かって歩きながらも、繋いだままのジュリアンの手が、どこか考え事をするように少しだけ力が入っているような気がした
もしかして、先ほどダレスから聞いた妙な賭け話のことを考えているのだろうか。
そう思った瞬間、アイリスの脳裏に、以前ジュリアンの執務室で偶然見かけた書類の束がよぎる。
住民の失踪、夜間未帰宅者、借財相談――。
あれらは何か関係があるのだろうか。
思い切って聞こうと口を開きかけた、その時だった。
「着いたぞ。お前がお待ちかねの、激辛の店だ」
「えっ」
ジュリアンが顎でしゃくった先を見て、アイリスの目の色が変わる、
通りの一角にある、こぢんまりとした大衆食堂。
しかし、その開け放たれた入り口からは、アイリスの鼻腔をくすぐってやまない強烈で芳醇なスパイスの香りが漂ってきている。
間違いない。
これは本物の激辛を扱う名店の匂いだ。
「わぁぁっ……!」
アイリスのテンションは爆上がりした。
顔はこれ以上ないほどの満面の笑みになり、瞳はキラキラを通り越してもはやギラギラと輝いている。
公爵令嬢としての矜持も、今この瞬間だけは完全に忘却の彼方だった。
「すごい! ここです、ジン! この香り、間違いないです! 私、ずっとこのお店の料理が食べてみたくて……!」
「お、おい、引っ張るなって。分かったから」
興奮のあまり、繋いでいたジュリアンの手を両手でギュッと握り締め、彼をグイグイと引っ張るアイリス。
その豹変ぶりにジュリアンは目を丸くしつつも、どこか楽しげに笑いながら、彼女に引かれるまま大人しく大衆食堂の中へと入っていくのだった。




