12.息抜きの場所
今日はジュリアンとの約束の日――なのだが。
「いけぇぇぇっ!」
「そのまま残れ!」
「よし、そこだぁっ!!」
「…………」
アイリスの耳をつんざくような野太い怒号が、周囲では延々と飛び交っている。
呆然と立ち尽くす彼女の目の前で、筋骨隆々の馬たちが地鳴りのような足音を立てて砂のコースを駆け抜けていく。
現在、アイリスが立っているのは、泥と砂埃、そして人の熱気が入り混じる王都の公営闘馬場――日本で言うところの競馬場のような場所だ――その最も熱気が渦巻く、立ち見の一般スタンド席だった。
元々王侯貴族の優雅な嗜みとして発展した娯楽であり、現在では国が管理する合法の賭博として、王都の重要な税収源にもなっている。
コースを見下ろす上層階には貴族専用のVIPルームが並び、着飾った紳士淑女たちが優雅にシャンパンを傾けながら観戦しているはずだ。
しかし、アイリスたちがいる下層の一般スタンドに、そんな優雅さは微塵もない。
ただ、ガラっぱちな男たちが握りしめた馬券を振り回して絶叫しているだけ。
そしてアイリスのすぐ隣には、王子様スタイルを完全に解除し、一般人に変装したジュリアンの姿があった。
「よっし! あと一周、そのまま逃げ切れ――っ!」
完全に違和感なく溶け込んでいるジュリアン。
まさか人ごみの真ん中で、馬券を握り締めてひときわ大声で叫んでいるこの青年が、あのジュリアン・オレーシア王太子殿下だとは誰も気づくまい。
彼が施している変装と言えば、染料で髪色をくすんだ焦げ茶色に変えて、前髪を少し上げ、少し仕立ての粗い平民の服を着ているだけだ。
顔の造作は丸見えである。
それでも誰一人として彼を王太子だと認識できないのは、それほどまでに表向きの眩い姿と素の姿がかけ離れているということだ。
言うなれば、天上の大天使と、裏通りの不良くらい差がある。
オーラだけでなく、顔つきも声も喋り方も明らかに違うのも大きい。
初見ならば、アイリスですら見分けがつかないだろう。
ちなみにアイリスも、今日は身分を隠すために変装していた。
動きやすい濃紺の地味なワンピースに、銀髪は灰色に近い色へと染め、帽子を深くかぶって街娘のような姿にしている。
前髪も重めに下ろしているため、瞳がほとんど隠れてしまうほどだ。
名前もアリスと名乗ることになっている。
ジュリアンの偽名はジンである。
お酒から取ったあたりがいかにも彼らしい。
いつもなら外出にはクララが付き添うのだが、今日は遠慮してもらった。
もちろん、ジュリアンの素の姿を見せないためである。
クララは心配していたが、ジャックが護衛として同行していること、そしてジュリアン自身も強いことを伝えると、渋々ながら納得してくれた。
そのジャックはというと――少し離れた柱の陰で、平民姿のまま人混みに揉まれ、胃のあたりを押さえながらこちらを見守っていた。
さて、本来ならば、上層階のVIP席で優雅に観戦するはずの王族と公爵令嬢が、どうしてこんな下層で押し合いへし合いしているのか。
つまるところ、一般人に紛れ、大声でヤジを飛ばしながら闘馬を観戦するのが、ジュリアン息抜きということらしい。
しかしながら、想像以上の人出と騒音、さらに人が密着するほどの距離感に、アイリスはここに来た当初は、心の内で絶叫していた。
これほど人がひしめき合う場所に自ら足を運んだことなど一度もない。
正直に言って、怖くてたまらなかった。
しかし、文句は言えない。
アイリス自身がジュリアンの息抜きの場所に行きたいと啖呵を切ってついてきてしまったのだから。
帰りたい。
お布団に潜り込みたい。
そんな衝動に駆られ、人混みの中で必死に息を潜めていたアイリスだったが……。
隣で声を張り上げるジュリアンの姿を見ているうちに、その恐怖は少しずつ別の感情へと上書きされていった。
「よしよし、獲ったぁっ!!」
見事に予想を的中させたらしいジュリアンは、両手でガッツポーズを作り、アイリスの方へバッと顔を向けた。
「っしゃ、おい見たかアリス! 大穴ぶち抜いたぞ!」
そこにあったのは、喜怒哀楽をストレートに爆発させた無邪気な笑みだった。
彼の知らない一面を見るたびに、胸の奥がギュッと締め付けられるように甘く疼く。
人混みが怖いという感情は、いつの間にか吹き飛んでいた。
今のアイリスを支配しているのは、目の前で子供のようにはしゃぐ彼に対する、全く別の意味での激しいドキドキだけだった。
「これで今日の軍資金は余裕で三倍に……って、おい、どうした。やっぱ人混みキツかったか?」
心配そうに眉根を寄せてアイリスの顔を覗き込んでくるジュリアンの視線に耐え切れず、慌てて帽子を目深にかぶって自身の表情を隠す。
「……いえ、あの、平気です! ただその、殿……ジンの息抜きの場所って、こういうところだったんですね」
「おう。ここなら誰の目も気にしなくていいし、デカい声出しても怒られないからな。最高だろ?」
「最高、なんですかね……」
アイリスが遠い目をしていると、ドンッ、と周囲の男がぶつかってきそうになった。
「ひっ」
「っと、危ないっ」
すかさずジュリアンが長い腕を伸ばし、アイリスの肩を抱き寄せるようにして庇う。
彼は自分の体で壁を作るようにして、アイリスを周囲の喧騒から完全にガードしてくれた。
間近から、ジュリアンの体温が伝わってくる。
彼の胸板にすっぽりと収まる形になってしまい、アイリスの心拍数は先ほどとは比にならないほど爆上がりした。
恐怖と胸キュンと極度の緊張。
アイリスのキャパシティを遥かに超えた感情の奔流に晒され、彼女の中で何かがプツンと弾けた。
――結果。
「いっけ――――っ! 誰にも負けるなぁっ!」
アイリスは一番強そうな名前の馬に、持ってきたお金を全て賭け、先ほどのジュリアン顔負けの大きな声で叫んでいた。
日頃の王妃教育の鬱憤、完璧淑女を演じるストレス、そして隣の男に対する名状しがたいドキドキ。
そのすべてをヤジに乗せて吐き出していく。
残念ながら、アイリスが勘で買った馬券は見事にハズレて紙くずとなった。
しかし、声が枯れるほど叫びまくったアイリスの胸の内に後悔はなかった。
「……はぁ、はぁっ……外れちゃいましたね……」
「惜しかったな。でも、初めてにしちゃ悪くないセンスだったんじゃないか?」
アイリスは肩で息をしながら、不思議なほどの爽快感に包まれていた。
ずっと胸の奥に溜まっていた重たい何かが、すべて汗と熱気と一緒に発散されたような気分だ。
ここが、ジュリアンにとっての息抜きの場所である理由が、今なら少しだけ分かる気がした。
「にしても、あんなでかい声出せるんだな」
「私も自分でびっくりしました。でも、すっきりしました」
ちなみにジュリアンはさっきの一戦でも当たり馬券を引いたようで、ご機嫌な様子で口元を緩めている。
「あ、だけど、折角持ってきたお金、全部なくなっちゃいました……」
ついうっかり全額を賭けてしまったのだ。
激辛のお店に行く予定なのに、これでは何も頼めない。
しゅんと肩を落とすアイリスに、ジュリアンはポンっと肩を叩く。
「心配するな。俺がここで稼いだ金がある。じゃ、行くぞ、アリス」
そう言って、ジュリアンはアイリスの肩を抱いていた手を滑らせ、ごく自然な動作でアイリスの手をしっかりと握った。
こんなことはこれまでも何度もあったのに、自然と頬が赤くなる。
それを隠すように、アイリスはもう一度帽子を深くかぶりなおした。




