遠い雨音
フィオラの朝は静かだった。
窓を叩く雨音。
薄暗い空。
石畳を濡らす灰色の雨。
いつもと変わらない景色。
なのに。
エリシアには、
街全体が少し空っぽになったみたいに感じられた。
⸻
「……いない」
もう何度目か分からない呟き。
部屋の中は静まり返っている。
ソファ。
窓辺。
机。
どこにも、
白銀の青年はいない。
代わりに残っているのは、
金貨と焼き菓子だけ。
エリシアは小さく俯いた。
「ちゃんと……言ってくれればよかったのに」
雨音だけが返ってくる。
⸻
その時。
コンコン、と扉が鳴った。
エリシアは顔を上げる。
「……はい?」
扉を開けた瞬間、
冷たい雨風が吹き込んだ。
そこに立っていたのは、
黒灰色の外套を纏った男だった。
背が高い。
鋭い灰青の瞳。
腰には長剣。
一目で分かる。
騎士だ。
⸻
「……誰ですか」
エリシアが警戒気味に尋ねる。
男は静かに口を開いた。
「ヴェルグレイヴ騎士団団長、アルヴィスだ」
低い声。
感情を押し込めたような響き。
「少し聞きたいことがある」
⸻
部屋の中へ通したあとも、
どこか緊張した空気が流れていた。
アルヴィスは室内を一瞥する。
小さな家。
暖炉。
まだ少し残っている、
別の誰かの気配。
そして。
机の上に置かれた焼き菓子。
アルヴィスの視線が、
一瞬だけ止まった。
⸻
「白い髪の旅人について聞きたい」
その言葉に、
エリシアの肩が小さく揺れる。
「……ペルのこと?」
アルヴィスが僅かに目を細めた。
「ペル?」
「そう名乗ってた」
短い沈黙。
アルヴィスは静かに息を吐く。
その呼び方を、
彼が許していたことに少し驚いた。
⸻
「怪我して倒れてたの」
エリシアがぽつりと話し始める。
「だから放っておけなくて……」
アルヴィスは黙って聞いていた。
「でも昨日、
急にいなくなっちゃって」
エリシアは机の焼き菓子を見る。
「たぶん、
迷惑かけたくなかったんだと思う」
その言葉に。
アルヴィスの眉が僅かに動く。
「……あいつらしい」
「え?」
「昔からそうだった」
⸻
雨音が静かに響く。
エリシアはアルヴィスを見る。
この人は。
ペルの何を知っているんだろう。
⸻
「……ペルって、
何者なの」
その問いに、
アルヴィスはすぐ答えなかった。
窓の外を見る。
灰色の空。
止まない雨。
「……俺にも、
分からなくなる時がある」
静かな声だった。
「ただ」
そこで言葉が止まる。
アルヴィスの脳裏へ、
遠い記憶が蘇る。
⸻
森。
木漏れ日。
まだ雨が今より優しかった頃。
『また稽古抜け出してきたの?』
『うるさい』
『怒られるよ』
『お前こそ実験はいいのか』
白銀の少年が、
少し困ったように笑っていた。
⸻
現実へ戻る。
アルヴィスは静かに目を伏せた。
「……昔は、
もっと笑う奴だった」
エリシアが目を見開く。
「え、ペルが?」
「信じられねぇだろ」
少しだけ。
本当に少しだけ。
アルヴィスが笑った気がした。
⸻
「でも」
その笑みはすぐ消える。
「あいつは昔から、
自分より他人を優先する」
エリシアは黙って聞いていた。
「だから危ねぇんだよ」
低く落ちた声。
そこには苛立ちと、
どうしようもない心配が滲んでいた。
⸻
エリシアは小さく呟く。
「……やっぱり、
心配してるんだ」
アルヴィスは答えない。
ただ。
否定もしなかった。
⸻
その瞬間。
外で雷鳴が轟いた。
窓硝子が震える。
アルヴィスの表情が変わる。
「……っ」
空の奥。
一瞬だけ。
紫色の光が雲の中を走った。
エリシアは息を呑む。
「あれ……」
アルヴィスは立ち上がる。
その瞳は、
鋭く遠くを見ていた。
「……近いな」
「え?」
アルヴィスは剣へ手を添える。
雨が強くなる。
まるで。
空そのものが、
誰かの苦しみに呼応しているみたいに。




